64 / 84

Ⅺ-4

 馬車は切り立った崖の上を危うげなく進む。  海沿いの道を下り、杉林を抜けた先に古城があった。  どうやらそこがヴィルマーユとキルレリアとの国境であるらしい。 「ここが、ヴィルマーユ」  開いた城門のこちら側にはキルレリアの兵。向こう側には一様に痩せた、顔色の悪いヴィルマーユ兵がみえる。 「リュシアン、キミは御者台へ」 「え?」 「車の内を検める者はいるだろうが、わざわざ御者の素性を調べる者はいない。馬には乗れるね?」 「ええ。人並みには……」  馬車を木立の影に停め、リュシアンは御者台へ上がった。頭巾を目深に被り、静かに馬を走らせる。 「止まれ」  馬車の存在を認めた兵士がふたり、こちらへ駆け寄ってくる。  ド・アルマンが先ほどと同じように偽の書状を取り出すと、兵士たちは恭しく腰を折った。簡単な挨拶が済むと今度はヴィルマーユの兵が呼ばれ、同じように書状を検める。 「承知いたしました。このままオッフェン公のもとへご案内いたしますが、なにしろ急なご訪問ですから公爵はいまだお休みです。つかいの者を出しますので、しばらくこちらでお待ちください」 「そのオッフェン公へのご挨拶だが」  す、とド・アルマンが手を上げると背後から従者が駆け寄った。  手に大きな袋を下げている。 「お納めください」 「これは」  手渡された麻袋を兵士たちはまじまじと見つめる。 「閣下へのお目通りはあとにして、先にメドセン城へ向かいたい」  袋の中からは金属の擦れる音がした。  その膨らみ具合から見るに、相当量の金が詰め込まれているにちがいない。 「皆でわけなさい。なに、時間はかからないよ。用が済んだらすぐに公の居城へ向かうと約束しよう」  それまで私たちのことは内密に――耳打ちするド・アルマンに兵士たちは紅潮した頬を向けた。彼らの暗く沈んだ眼はにわかに生気を取り戻し、まるで自国の領主に対するような恭順をしめす。  メドセン城までの先導をと兵士らが買って出るのも断って、馬車は一路フランソワの囚われている城を目指した。  彼らの視界から外れたところでふたたび御者台を持ち主へ譲り、リュシアン自身は激しく揺れる車内に戻る。 「ずいぶんあっさりしたものですね」  どことなく肩透かしを食らったような気分でリュシアンは訊ねと、ド・アルマンは黙って肩を竦めた。  このようなやり取りは日常茶飯事ということなのだろう。  渡した金がいかほどかはわからないが、まがりなりにも対立するふたつの国の境を守る兵士。こうも容易く買収されては国境の護りなどないに等しいだろうと他人事ながら心配すれば、 「彼らには彼らの事情がある。黙って外でも見ておいで」  そう言ったきり、男は黙ってしまう。  どことなく虚しさを感じながらも視線を窓の外へ転じる。  冬の空は晴れていながらもどこか薄暗く、冷たく乾いた風に舞い上がる土埃や枯れ草がときおり飛び込んできた。  どこまでも続くような曇天をぼんやりと眺めていると、やがて小さな村が近づいてくる。  キルレリアと同じくヴィルマーユも国境は首長の住まう城から遠く離れた都市郊外にある。  小さな藁葺きの家がぽつぽつと並び、牛や馬、鶏などの家畜が舗装もされていない道を自由に歩き回る。  どこにでもある田舎の風景ではあるが、しかし、リュシアンはそのなかにふと違和感のようなものを感じた。  それはひとりの農夫が歩いている姿にあった。  緩くだぶついたズボン。まだ雪もちらつかない季節だというのに、その農夫は綻びだらけの外套の襟を立てて俯きがちに歩いている。  ふらふらと今にも倒れそうな具合に歩くのを見ると、どうやら身体のどこかに不調をきたしているらしい。  はっとして見れば、村にはそのような姿の者があちらこちらにあった。  彼らはみな一様に青白い顔をし、痩せた身体を丸めるようにして働いている。  子供も、女も、働き盛りの青年も。  皆が皆、ときおり咳をしながら肩で息をして歩いている。 「待って。馬車を止めてください」  たまらずリュシアンは御者へ声をかけた。  しかし馬車は主の許しなしには止まらない。 「……なにか面白いものでもあったかい?」  代わりにド・アルマンが気のない返事を寄越した。 「なにが面白いものですか。見てください。ここの村人たちはみな重い病に罹っている。すぐに医者を呼ばなくては」  いますぐ城門までとって返せば医師のひとりくらい呼べるだろうと、リュシアンは強く訴えた。  しかしド・アルマンは農夫の様子を自分の目でたしかめるどころか、眉ひとつ動かさない。  ああ、となにか思い立ったように溜め息を吐く。 「無駄だよ。あの病は一日医者に診せたくらいで治るものじゃない」 「しかし、村全体があのような……流行病かなにかが拡がっているのでは――」 「違う」  またひとつ大きな溜め息が地面に落ちる。 「飢えさ。貧困が、彼らの身体をつねに蝕んでいるんだ」  男はうんざりしたように言った。 「飢え?」  リュシアンは耳を疑った。 「そんなはずはない。ここには農地もあって、家畜もいる。食べる物ならそこらじゅうにいくらでもあります」 「そうもいかないんだよ、ここではね」

ともだちにシェアしよう!