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Ⅺ-5

 男の話はこうだ。 「この地で獲れた作物、生まれた家畜、ここではすべてがオッフェン公……もとい事実上の統治者である3公爵家のものとなっている。ここでは生まれた家の身分で人生が決まる。農家に生まれた者は終生を荒れた畑の上で過ごし、兵士の家系に生まれた者は剣を携え墓穴に入る。城門前にいた兵士たちの祖先はみな兵士か、その妻だ。いくら武勲を立てようとも出世することはない」 「そんな生活を、彼らはもうずっと?」 「フランソワもね。生かさず殺さず、命を鎖に繋がれたまま無為に日々を過ごしているよ。でも」  フランソワが玉座におさまれば――ふと、ド・アルマンの曇った灰色の瞳が輝いた。 「彼らの苦難も終わる。キルレリアを平定したら次はヴィルマーユを攻めるつもりだ。もう二度とあの卑俗きわまりない公爵どもの好きにはさせないさ」  リュシアンが助かる可能性があるとするならば、おそらくそのときなのだろう。  キルレリアを手中に収め、ヴィルマーユをふたたび統合する。  彼らの目指す平和は、そこで完成する。 「どのみち、血は流れるのですね」  3公爵家とて決死の抵抗を試みるにちがいない。三度にわたる服従への抵抗がそれを物語っている。  そして、戦になれば家族を守るのに農民も兵士もない。あの飢えていまにも倒れそうな男も、折れそうな鍬を乾いた大地ではなく、今度は人の脳天にむけて振り下ろすのだ。  彼らの愛する者を守るために。 「父がキミを〝王の器ではない〟と判断したのは間違いじゃなかった。キミは欲張りがすぎる。あちらもこちらも守ろうなどと、神にでもなったつもりか?」  ――わかっている。  男の言うとおり、リュシアンに為政者としての素質はない。先代ダルマン公の見立ては正しかったというわけだ。  その証拠に、リュシアンの心はすでにあの哀れな農夫に寄り添うことをやめ、ここにはいない人の姿を探している。  誰かの恐怖に触れるたび。誰かの孤独を思うたび。自分の悲しみを思い出し、縋る場所を探してしまうのだ。  だが、それがいけないことだというのか。  ずっとふたりだけの世界にいた。テオドールがいれば充分だった。  いまは家族としてでなく、愛する者として心が彼を求めている。  わずかにずれていた歯車がようやく噛み合った幸せを、ふたりで噛みしめていたところだったのだ。  少なくともその瞬間、リュシアンは〝不幸な人間〟となった。 「私にはあなた方のような高潔な理想はない。ですが、誰かを犠牲にしてまで得る幸福が本当の幸福だとは思いません」  その返答は想定のうちだとでも言いたげに、男は笑って肩を竦める。 「こちらも交渉は決裂か。揃いも揃って愚かな主従だ。キミにはせめて〝持つべき者〟としての自覚と誇りをもって、与えられた役目を果たしてもらいたかったんだけどね」  馬車は小さな門を潜る。案内はいらないとは言ったものの、ダルマン公爵訪問を告げる早馬はどうやらすでに到着していたらしい。数人の兵士たちが黙礼でこちらを見送っている。  芯の凍った潮風が頬を撫でた。  覗く窓の外はどこまでも続く切り立った崖である。 「着いたらまず人に会う。フランソワの身の回りの世話をする侍女だが、我々に力を貸してくれている。なにかあれば彼女に言うといい。それと、この場所を私以外の人間が訪れることはめったにないから安心しなさい。それでもまだ不安があるというなら……これをあげよう」  ぽん、と柔らかな布包みがリュシアンの膝に乗せられる。 「キミにせめてもの餞だ」  促され包みを開くと、強い潮の香りをすり抜けて懐かしい匂いが漂ってきた。 「これは――」  リュシアンはおそるおそる〝それ〟を手にとる。  深い蜜色の、絹糸のような滑らかな指触り。長く、掬う指のあいだから豊かにこぼれ落ちる黄金の輝き。 「旦那さまの……!」  目の前に現れたのは、もう二度とこの目に見ることは叶わないと諦めていたテオドールの髪――テオドールの母親、亡きクレール伯爵夫人が手ずからつくった〝かつら〟だった。 「とっくに……燃やされてしまったのだとばかり」 「もちろん燃やしてしまってもよかった。私にとっては忌々しい男の一部だ。……けれど、キミの黒髪よりはフランソワの髪色の近いからね。もっとも、フランソワのそれはもっと可憐で繊細な色をしているけれど。だが誰かがキミの様子を見にやって来ても、それを被って『体調が優れない』とでも言っておけば、すぐに正体が知れることはないだろう」  なんなら寂しいひとりの夜を慰めるのにつかってくれてもかまわないよ、と皮肉が続く。だが。  ――理由なんてどうでもいい。  こちらを蔑む言葉など耳に入らないも同然だった。  テオドールが母に愛された証をひとつでも失わずにいられたことが奇跡だ。  礼を言う気には到底なれないが、これから訪れるであろう孤独の日々を思えばこれ以上の心の慰めはない。  ――テオドール。  愛しい人の残滓を胸に抱き、薫ってくる香りをいっぱいに吸い込んだ。  途端に寂しさと愛おしさとが心を満たし、雫となって頬へ溢れ落ちる。  ――大丈夫。 「私は、大丈夫です」  繋ぐ糸は、まだ切れていない。

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