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Ⅺ-6
馬車が停まったのは塔の正門から真裏、崖に向かってもっとも迫り出した厩舎の近くである。
普段使われることはほとんどないのだろう、厩舎といっても潮風に灼けて白茶けた木柵に、形ばかりの雨よけの屋根がついているだけのものだ。
「ここに塔へ入る扉がある」
ようやく長旅から解放された馬たちが、馬車から離された途端に吹いた強い海風に怯えてその巨体を大きく揺すった。
その様子に驚いたのか、もう一頭――こちらは先に着いた早馬か――が暁光のなかに黒々とした巨体を蠢かせ、抗議の鼻息を吹く。
元来臆病な生き物である馬たちをこうしてわざと潮風の吹き荒ぶ場所に繋いでおくのは、やはりここが囚われ人の住まいだからだろう。
これでは、よほど馬の扱いに長けていなくてはまともに乗ることもできまい。
と同時にそれは、この塔に囚われた人間をわざわざ訪う者などいないのだと言外に告げているようだった。
もとより、ここでは快適な生活など約束されていないのだ。
リュシアンたちは厩舎のすぐそば、粗末な木戸から塔の中へ入る。
扉の向こうはむっとするような湿気と、冷たい石の匂いが満ちた狭い廊下。両手を広げればそれだけで行く手を遮れるような、息の詰まる造り。
そのなかに、ぽつんと小さな灯りが見える。
日が昇ったばかりだというのに手燭を下げてこちらへ歩いてくるのは、ひとりの女だ。
女は裏の木戸が開いているのに気づくと、は、と弾かれたように顔を上げた。
「ジャン・グレゴワールさま」
親しげに男を呼ぶところを見ると、彼女が王子殿下の世話を任されているという侍女なのだろう。
ひっつめた痩せた髪に、粗末な服。
隣国の貴人を世話するというよりはむしろ、路地裏の暗がりにひっそり暮らす洗濯婦のようななりをしている。
歳は20かそこらだろうか。疲れと貧しさからか全身くたびれて見えるが、手燭を持つ手は透き通るように白く、美しい。
しかも、もとは良家の子女なのだろう。歩き方や声の調子には、充分な教育を受けた者の矜持が感じられる。
「驚きましたわ。こんな朝早くに」
「突然ですまない。しかし、マドモワゼル・ローズ。私はついにかねてからの約束を果たしにきた。キミと、キミの家族もこれで安心だ」
喜んでくれ、と言われ、女――ローズはしばし考えるような顔をする。
細い指を不安そうに胸の前で擦ると、きょろきょろと辺りを見廻した。
「なんにせよ、ご無事でようございました……それで、そちらの方が……例の?」
声を潜めて言うのに、ド・アルマンが小さく頷く。
「紹介しよう。フランソワ殿下の兄上――リュシアン・ヴァロー氏だ」
男が、す、と長身を引くと、狭い廊下でリュシアンとローズが向かい合う。
恐る恐る近づく顔がリュシアンの顔貌を近くに捕らえたとき、「まあ」と小さく驚嘆の声が上がった。
「殿下によく似ていらっしゃるだろう?」
なぜか得意げに男が言う。
ローズは呆けたようにリュシアンを眺めたあと、
「ええ……とても不思議ですわ。わたくしもう3年ほど殿下にお仕えしておりますけれど、そのわたくしでも……そうとおっしゃらなければ、うっかり見違えてしまいそう」
「彼もまた人となりは穏やかだから、安心するといい」
「ええ。この御方のお顔を拝見すればわかります」
ローズと申します、とリュシアンの前に膝を折る仕草は年相応に可憐である。
「フロリアン殿下のお世話を仰せつかっております」
今後は、なんなりとわたくしにお申し付けくださいませ――丁寧に挨拶されたところで返す言葉もない。
〝世話になります〟〝こちらこそよろしく〟――なにを言ったところでリュシアンの本心ではない。
結局のところ、この侍女もド・アルマンの計画に一役買う者であるのだ。多少の非礼は先方も承知の上だろうと、リュシアンは黙礼するにとどめた。
ローズは多少悲しげに目を伏せたものの、すぐに気を取り直してふたりへ道を譲った。
「お部屋までご案内いたしますわ。ジャン・グレゴワールさま、腰にお佩きの剣をお預かりしましょう。いつものとおり、お付きの方々は外でお待ちなのでしょう?」
「ああ。ひさしぶりの兄弟の邂逅に無粋なものは置いておきたくないからね」
「相変わらずですのね。殿下といったら、わたくしといてもいつもジャン・グレゴワールさまのことばかり。仲の良いご兄弟で羨ましいですわ」
狭い螺旋状の石階段をふたりに続いてきびきびと登りながら、
「実は、殿下はさきほどお目覚めになったばかりですの。昨夜は遅くまで読書に耽っておいででしたから、もしかするとまた寝台に戻られていらっしゃるかも」
うしろから声をかけるのに、ド・アルマンが振り返って微笑んだ。
「そうか。では、眠り姫を起こす役目は私に譲ってくれるね、マドモワゼル?」
階段のところどころに出窓がある。長いあいだに積もった埃がきらめく光りの帯となって降り注ぐなかを、弾むような足取りの男の背を追ってリュシアンは進んだ。
囚われ人の住まう場所は塔の最上階――絵物語の姫は、いまも寝台の上で王子の夢を見るのか。
階段を一段のぼるたび足が重くなる。
今日からここがお前の居場所なのだと、否応なしに突きつけられる現実に目眩がする。
背後でローズがそっと囁いた。
「なにも心配なさらないでください、殿下」
驚いて振り返ると、やっとのことで持ち上げた右足がふいに平らな地面を踏んだ。
蹌踉け、倒れ込む先にド・アルマンの広い背中がある。
「ここが最上階だ」
階段を上りきると、そこはすぐに扉だった。
小さな覗き窓と、垂れ下がった呼び鈴の紐。物々しい錠前はローズが開けたのか、いまは鍵がかかっていない。
「……次に会うときはキミを助け出すときだと――そう約束したね」
男は誰にともなく呟くと、ゆっくりと扉に手をかける。
木の軋む音。
湿った石階段を一気に階下まで吹き抜ける、清々しい朝の風。
朝日の眩しさに目を眇めると、ふわりと濃く甘く、懐かしい匂いがリュシアンの胸をいっぱいに満たした。
どきり、と胸が跳ねる。
乳白色に染まった視界の端で、熱を帯びる目元が鼓動とともに脈打った。
視界を塞ぐ広い背中が、歯車の欠けた時計のように静止している。
目の前にいるなにかに心を奪われ、息をするのも忘れているように見えた。
なぜ。
――そんなの、きまっている。
この香り。
ついさっき、この胸に抱いたばかりの――。
「っ……どいてください!」
リュシアンは男の身体を押し退け、わずかに空いた隙間に身体をねじ込んだ。
転がり込むように部屋のなかへ入る。
途中、背後から強く腕を引かれ、勢いあまって膝が崩れ落ちる。その身体をド・アルマンが力任せに引き上げた。
「離、せっ……!」
「だめだ! ここを離れるな!」
男の手はびくともしない。
吹きつける潮風が顔を叩き、目を覆う。必死で開く瞼の隙間から、陽光よりも温かな蜜色の髪が見える。
――ああ、そこに。
目の前に、いるのに。
「貴様…………貴様、なぜここに!」
そうだ、なぜここに。
ずっと行方が知れなかった。
ここは敵地。王の許可なしに、ここには足を踏み入れられない。
だが、たしかに彼はいる。
風に揺れる蜜色が作る影の奥から、低い嗤い声を響かせている。
「私のものから手を離していただこうか、ダルマン公」
その手に握る剣の切っ先がきらりと光った。
鈍色の鋭い刀身はまっすぐ、腕に抱いた男の白い首筋に突きつけられている。
「旦那さま」
呼ぶ声が震えた。
そして応える声も、きっとわずかに。
「あとで仕置きだぞ、リュリュ。〝旦那さま〟と呼ぶなといっただろう」
「ええ――――テオドール」
陽光を背にして立つのは、テオドール・ド・クレール。
そして、その腕のなかには。
「やめろ……やめてくれ……フランソワを離せ!」
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