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Ⅻ-5

 その場にいる全員が固唾を呑む。 「王太子? フランソワを?」 「なにも不思議におもうことはあるまい。もとは貴殿もそのつもりだったはず」  ド・アルマンの計画は、まずリュシアンをフランソワのかわりにこの塔に幽閉し、そのあいだにフランソワへ王位継承権を取り戻すというものだった。  計画はじっくり時間をかけ、なおかつ時がくるまで誰にも――陛下その人にも悟られてはならない。  しかしテオドールは、フランソワを王太子として迎えるという。 「しかし、なぜ」 「もちろん、そのほうが私にとって都合がいいからだ。〝使える〟人間に敵も味方もない」  そういうと、テオドールはその場にうやうやしく膝を折った。 「お手をどうぞ、殿下」  差し出された手を戸惑いがちに見つめるフランソワが、おずおずと指を重ねる。  テオドールは突き飛ばしたその腕でフランソワの腰を抱き、物騒な言葉を吐いた唇で白い手の甲へ口づけた。 「近々、ヴィルマーユとキルレリアとのあいだに戦が起こる」  刺すようなふたつの視線にむかってテオドールはいった。 「戦? なぜ、いま?」  そのような予兆はまったくなかったはずだ。  両国の関係が、このごろになって急激に悪化しているとの事実もない。 「正確には、そのような噂が陛下のもとにもたらされた、というだけだが」事の発端を思い出したくもないのか、テオドールの声にはたっぷりと倦怠感が混じっていた。 「はじまりは、数少ないヴィルマーユと交易をおこなっていた行商人からの一報だった。くわしくきいてみれば、『商いを取り止めたのは、どうやら戦のために、すぐ使える金を用意しているのではないか』ということらしい。たしかに、商人の扱っていたのは絹や陶器などの嗜好品がほとんどだった。それで、陛下がそのお話をお信じになったというわけだ」 「しかし、国が分断された直後ならいざ知らず、いまのヴィルマーユにそれだけの力が残っているとは思えない」  ド・アルマンの言葉に、リュシアンもおもわず頷く。  ぼろの外套の襟を掻き合わせ、寒空の下を震えながら歩く農夫。兵たちもだ。飢えに苦しむ彼らに、大国であるキルレリアを相手にするだけの余裕があるようには到底みえなかった。 「まさか、3公爵家はあれほど民を苦しめておきながら、まだ戦をするための財を隠し持っていたとでも?」 「陛下も、そうお考えになった。ヴィルマーユに攻戦の動きあり……その一報を受け、まず陛下が取りかかられたのが、新たな王太子の選定だ。最初、キルレリアはヴィルマーユの向こう見ずな侵攻を真正面から叩き潰すおつもりだった」  リュシアンは意外に思った。  長らく戦争というものから遠ざかっていたキルレリアが、いくら大人と赤子ほどの戦力差があるとはいえ、こうも簡単に敵対しようとは。  それはド・アルマンもおなじだったとみえ、彼もまたテオドールの話を、息を呑んできいている。 「しかし、その時点で〝噂〟はあくまで〝噂〟。そこで、陛下はヴィルマーユに悟られることなく、3公爵にさぐりを入れようとした。そこで、その役を仰せつかったのが、私だ。そのころ、どこかのコソ泥は人の邸から美しい宝石を盗むのに夢中で、この頃は王宮へ顔をだすことも忘れがちだったようだったからな。殿下の出自を知る数少ない人間である私が手を挙げると、陛下は一も二もなく飛び付いてきた」  ド・アルマンがリュシアンの周囲を飛び回っている隙に、テオドールは危険を覚悟で王へちかづいたのだろう。  そして、はじめて身近に迫った戦いの恐怖が、王のクレールへの不審の目を曇らせた。  ちら、とリュシアンをみる濃紫の瞳には、隠しきれない怒りの炎がちらついている。テオドールにとっても、おそらく、リュシアンの生存はもっとも明かしたくなかったことのひとつだったにちがいない。  だが、王の信頼を勝ち取るためには、それが一番の近道であることをテオドールは知っていた。 「はやくも戦に備えて王太子を定めようとする陛下をなだめ、私は何度となくヴィルマーユへ赴いた。そしてわかったことは、ヴィルマーユにたしかに戦いの気運が高まっていること。そして裏腹に、この国が到底、戦など臨めるべくもない状況にあるということだ」  たしかに、長いあいだ押し止められた不平不満は破裂寸前だろう。しかし、民はおろか、ヴィルマーユを私利私欲のために孤立させた3つの公爵家ですら、存続が危ぶまれるほどの飢餓に陥っていた。  しかし、まさかテオドールの長きに渡る不在が、敵対しつつある隣国へ足を運んでいたせいだったとは――リュシアンは己の浅慮を恥じ、唇を噛んだ。  まかり間違えば命をも落としていたかもしれない状況に、主はずっと身を置いていたのだ。  クレールの街の自衛を強化したのも、自分とリュシアンの身、両方を守るためだったのだ。 「放っておいても、この国が内側から瓦解するのは時間の問題だっただろう。いまのヴィルマーユが最後の悪あがきをしたところで、せいぜい国境を接する村のひとつやふたつ消える程度のはず。しかし、無辜の民の命が散ることを、我が伴侶どのはけっして望まない。私がその結末を予想していたとすれば、なおさら。だから私は、そもそもこの戦自体をなかったことにしようとした」 「……それで、フランソワを?」  はっとするド・アルマンの声に、テオドールは目の端を笑ませるのみで応えた。 「どういうことです」口を挟んだリュシアンを、ド・アルマンは苛立たしげに睨む。 「この男は陛下を謀ろうとしているんだよ。おそらく、もうすでにヴィルマーユとは話がついているんだろう。陛下には、ヴィルマーユには戦争をしかけるだけの充分な資金があって、いまもこちらへ攻め入る機会を狙っている。だが彼らは、フランソワへ3公爵の息のかかった人間を嫁がせ、次の王とすることで、無条件の降伏、ついてはキルレリアへの併呑を求めている――とでも報告するつもりなんだ。そのうえで、この男は、王となったフランソワを背後から操り、キルレリアを支配しようとしている」

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