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Ⅻ-6
「支配?」
「これはまた、人聞きの悪い」
せっかく救いだした〝妻〟に嫌われたらどうしてくれる、と心にもなさそうな顔をしてテオドールがいう。
「私はなにも国がほしいわけじゃない。殿下が王におなりになれば、リュシアンは王兄ということになる。これからは大手を振って宮殿内を歩ける」
「テオ!」
リュシアンは声を荒げた。
「私はそんなこと望んでいません」
覚えのない出自のことで持ち上げられる生に憧れはない。
「私の願いはこれまでどおり、クレールで貴方と平穏に暮らすことです。それ以上はなにも……」
「わるいが、私は望む。これ以上、おまえとすごす時間を誰にも奪われたくはない」
「……無茶です。貴方とヴィルマーユとのあいだに話がついたとはいえ、もしフランソワ殿下を玉座に導くことができなかったら? むしろ貴方は、混血の殿下をつかって国を売ろうとした者として排除されるかもしれない」
「できるものならすればいい。どうせ引き返すことのできない道だ。それに、そもそも私がなんの確証もなしに殿下を担ぎ上げるとでも?」
そういってテオドールが懐から取り出したのは、麻紐でくくられた数枚の羊皮紙だった。
「ここに3つの署名がある。第二王子ノエル殿下。第一王女アニエス殿下。そして、第三王子ニコロ殿下。承諾の内容は、王位継承権の放棄」
「な――」
「残念ながら、すでに王太子と定められたニルフ殿下にはちかづくことができなかった。しかし、彼の方はここにお名前のあるお三方とは比べ物にならない埃を袖の隙間に溜め込んでいる。そちらは、あとから如何様にも処理できるだろう」
〝処理〟という言葉が孕む物騒な響きに部屋が静まりかえった。
テオドールの口ぶりからすれば、あの3つの署名も王位継承権をもつ殿下方に無理矢理書かせたのだろう。
なんて――なんて、おそろしいことを。
「あ……まつんだっ」
呆然とするド・アルマンの手を振り切り、リュシアンは走った。
勢い込んで腕の中へ飛び込むのをテオドールの腕が掬いとる。腰を抱かれて、吸い寄せられるように唇を合わせた。
「ん、っ」
こんなあぶないこと、いますぐ止めてください――責め立てようとする唇を熱い舌がむりやりこじ開け、吐き出す息ごと奪い取る。
溢れる唾液を追って首筋を舌が這い、抗えない甘美と歓喜に打ち震える背中を力強い手がまさぐるように撫で回す。
「私のリュリュ……やっと、もどってきた」
なにか主を止める言葉を。頭ではそう強く思っていても、触れる唇の感触の心地よさを一瞬でも手放すのが惜しい。
もっと。一秒でもいい。長く触れ合っていたい。
「テオ……」
吐息混じりの声に応えるように、長い指が黒髪を梳く。燃えるような耳孔の中を爪の先が優しく擽る。
とっくに力の抜けている腰をテオドールに押しつけるようにして、リュシアンはやっとのことで立っていた。
そのとき、ふらつく足がなにかに、こつ、と当たる。
はっとして振り向くと、それは先ほどテオドールがもっていた羊皮紙の束だ。
テオドールの目がそれを捕らえ、おなじく理性を取り戻した。
「褒美と仕置きはおあずけだ。殿下とそれを守って、部屋のなるべく隅のほうにいろ」
テオドールはリュシアンの耳元で囁くと、縋りつく身体を引き剥がすように部屋の隅へと押しやった。
消えてしまった熱を求めてリュシアンは振り返った。そこに、あとから送り出されるようにしてフランソワが倒れ込んでくる。その手にはいつの間にか、しっかりと羊皮紙の筒が握られていた。
あらためて対峙してみると、彼はリュシアンより多少背が高い。
華奢だと思っていた身体には服越しにもうっすらと筋肉がついてるのがわかる。ド・アルマンの話のとおりの人物なら、幼少のころから王子としての自覚と矜持をもっていたはずだから、このような環境におかれていても、有事に備えてできるかぎり身体を鍛えているのかもしれない。
自分とはちがう。そう思ってフランソワ・フロリアンという人物を見れば、突然、この殿下の虚ろな瞳が、単に意志をくじかれて忘我の境にいるわけではないような気がしてくる。
フランソワはリュシアンにもたれ掛かりながら、背後のテオドールをじっと眺めている。
声を発さず、光のない瞳はうっすらと潤んでいるようにも見えた。
テオドールは何度もヴィルマーユへ足を運んだといった。おそらく、その際、フランソワにもたびたび会っているはずだ。
ド・アルマンがリュシアンを捕らえてフランソワのもとへむかう手筈を整えるあいだに、それに先んじたテオドールは、フランソワに計画の失敗と、罰から逃れるすべをあたえた。いわばテオドールはフランソワにとって、ド・アルマンに代わる庇護者となったわけである。
この閉じられた世界で生きてきたフランソワが、敵であるはずのテオドールに恨み以外の複雑な感情を抱いても、しかたのないことなのではないか――。
「こちらへ」
殿下を安全なところへ。心にはもやもやとしたものをかかえたままでも、リュシアンの身体はテオドールの命に従って動く。
だが自然、腕を引く手に力がこもった。痛みに眉根を寄せたフランソワが、まだうしろをちらちらと振り返りながらついてくる。
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