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XIII-2
テオドールの疲労が限界に達していたとしても、鈍器のようなそれが地面を叩いた瞬間、男の首が胴を離れることはまちがいないだろう。
止めるなら、今しかない。
進み出ようとしたリュシアンの目に、ちか、となにかが光った。
途端に胸を襲ういやな予感。
剣をかまえる背中越しに小さく震える刃先がみえた。
「テオ、前をっ」
テオドールが振り返る。
そのとき、眼前の男が勢いをつけて立ち上がった。
どこに隠していたのか、手には小さなナイフ。
男がまっすぐ飛びかかってくるのに気づいたテオドールが、掲げた剣をためらいなく振り下ろす寸前――。
「やめよ。もう充分だ」
凜とした声がリュシアンの背後から聞こえ、一瞬、その場にいた誰もが息を呑んで立ちすくんだ。
赤みがかった金の髪が視界の端でふわりと揺れる。
「邪魔をするのか……フランソワ」
悠然と歩み寄り、目の前に立ちはだかった兄同然のその人を、男は呆然とみつめた。
わななく唇が悲痛な叫びを絞りだす。
「私とともに死ぬのは御免ということか。やはりキミはその男に心を奪われてしまったのか!」
「ちがう」
そうではない、ジール――〝ジール〟、と家族の愛称でド・アルマンを呼びながら、フランソワはナイフをもつ手に白い手を重ねる。
「クレール卿はわたしのわがままをきてくれただけ。すべて無駄だと知りながら、おまえをここへ誘い込んだのは、わたしだ」
裏切ったのは、わたし。そう言ってフランソワはテオドールを見た。
振り向いた美貌には痛々しいほどに悲しげな笑みが浮かんでいる。
「ジール。わたしは、おまえを助けたかった」
ド・アルマンから視線を逸らしたまま、小ぶりな唇がそう呟く。
「おまえだけじゃない。亡き父上――ダルマン公を、ダルマンの誇りと未来を守りたかった。だから、おまえがわたしを王にと言ったとき、それがわたしの新たな存在意義になるのならと思ったのだ」
「私がキルレリアを救うことはキミを救うことでもあるんだ。キミが王となり私が宰相となれば、きっと皆が幸せに……」
「わたしもそう思っていた。いや、事実、いまでもそう思っている」
優しく、諭すような声が言う。
「しかし、わたしはクレール卿に出会ってしまった」
王子の視線を受け、剣を下ろしたテオドールが膝を折る。
その姿を眩しそうに見ながら、
「ジール。おまえは、これから自分が起こそうとする企てのすべてをクレール卿に話してしまった。それがおまえの、唯一のまちがいだったのだと、いまとなっては思う。クレールの威信は地に落ちた……建国から数百年を経たいま、いまだそれを信じているのなら、長きに渡り辛酸を嘗めながらも変わらぬ忠誠を王に誓い、誰よりも苛烈な誇りを胸にしまってまで一族を守ろうとした……そんな歴代のクレールの当主たちを、おまえは侮っていたということだろう」
呪いの一族。その名を負うクレールには、どうせ崇高なド・アルマンの計図を妨げることはできまいと、高をくくっていたこと。
それが間違いであり、〝救い〟だったのだとフランソワは言った。
「……〝救い〟?」
「はじめてクレール卿にまみえたとき、私は彼の一族の強さを痛いほどに感じた。彼は言ったのだ。〝愛する者がいる。その者とともに生きるために、ひとり犠牲がほしい〟と。信じられるか? わたしにその犠牲となれと、面と向かって言ったのだぞ?」
鈴を転がすような笑い声が響く。
ド・アルマンはフランソワを殺すと言った。そののち、自ら後を追うと。
なのに、フランソワのこの余裕はなんだ?
ド・アルマンが自分を害すはずがないと――そういう確信をもった目とは、すこし異なるような気がする。ためらいなくナイフをもつ手を握ることといい、死への恐怖で混乱しているのともちがうようだ。
リュシアンたちが顔を出したときの、あの怯えたような放心したような眼差し。
それがいまは慈悲深く、なにかを悟ったかのように落ち着いている。
「彼の言う〝犠牲〟とは、私に王になれということだった。王となり、世継ぎをもうけ、クレール卿と、卿の愛する者が平穏に暮らすことのできる世をつくれ、と。その代わりに、これから罠にかかるであろう、おまえの命を助けると」
やはりテオドールは、はじめからド・アルマンの命を救う気でいたのだ。
賢王となりうるフランソワを身中に取り込むことで、永久にちかい安寧を確保する。
ド・アルマンとは異なった方法で、テオドールはまったくおなじことを成そうとしている。
「それもいいと思った。おまえがここへくる前に心を決めてしまえば、少なくとも本当に罪のない者たちは誰も傷つかずにすむ。まだ見ぬ兄上や姉上たちには申し訳ないが、彼らの命を奪うことなく玉座から遠ざけることができるのなら、それがいちばんだと思った。そしてクレール卿は、その方法を知っていた」
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