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XIII-3
「では、なぜ私がくるのを待っていた? ともにここから逃げようとしたのではないのか?」
フランソワは静かに首を横に振る。
「わたしがおまえをここへ呼び寄せた理由……それは、ただひとつ。ジール。最後にひと目、おまえに会いたかったからだ」
白いガウンの裾がふわりと床に触れる。
「愛しているよ、ジール。家族ではなく、ひとりの人間として」
跪き、ナイフを握る手へ愛おしげに真珠色の頬を寄せた。
「おまえの目の前でおまえ以外の誰かに愛を誓うことなど、わたしにはできない。それがたとえ、多くの者を救うことだとしても」
「フランソワ……」
わたしは、おまえの望む〝賢王〟にはなれない。おまえの、目の前では。
〝兄〟の言葉をド・アルマンは呆然と聞いている。
「兄上へのクレール卿の想いを聞いて、わたしは気づいてしまった。逞しく、頼もしく成長した弟のようなおまえに、いつしか、この身を焦がさんばかりの恋慕の情を抱いていてしまったことに。だから、『ともに死にたい』と言ってくれて嬉しかったのだ。それが……たとえ怒りに駆られた刹那の衝動だとしても」
だから、もう充分だ――穏やかな声に、「フランソワ!」子どものような濡れた甘い声が縋りつく。
「あれは嘘じゃない。一時の感傷に流されたのでも。私だって……!」
まるで幼子を抱くように、フランソワは男の身体を掻き抱いた。
「それ以上いうな。わたしは、おまえがなによりも国とダルマンの誇りを大事にしているのを知っている。王の椅子を手に入れたとしても、わたしの心はなおダルマンのもの。おまえと過ごした短くも喜びに溢れた日々を終生の心の拠り所として、今度こそおまえや父上の望む美しい国をつくろう」
「……だめだ!」
がば、とド・アルマンが立ち上がる。
撓るほどに薄いフランソワの背中を抱きしめた。
「私が悪かった。なにが大公……なにがダルマンの誇りだ。キミの優しさに甘えて、己の使命などというものに縛られて、キミを傷つけてしまった」
忙しなく髪をまさぐる指をフランソワはされるがままに受け入れている。
「本当は私もキミを愛していた! ずっと……ずっとだ。キミがダルマンにいる時分から。離れてみて、年を経るごとに美しくなっていくキミを見るたびに、私は――」
ふ、と細い肩が上下した。細い溜め息をついたようだ。
「……わたしがいなくても、おまえは大丈夫だ。クラリスがいるだろう。わたしは彼女とは顔を合わせたこともないが、おまえが共に茨の道を歩むと選んだ女性だ。きっと、これからもおまえを助けてくれる。おなじ境遇のもとに一度は情を交わしたふたりではないか。共に手を取り合い、これからは本当の夫婦として仲睦まじく暮らすがいい。これからは、おまえの身ひとつが彼女の唯一の支えなのだから」
ダルマン公爵夫人、クラリス。己の願いのために夫の手を取り、ともに罪に身を窶した女性。
フランソワを救いだすこと、そしてダルマンの力の下でキルレリアを建て直すことが叶わなくなったいま、彼女にとっても心の支えとなるのは――形の上ではあるが――夫であるド・アルマンだけだろう。
「ちがう! 彼女には感謝している。だが、それだけだ。私が愛しているのはキミだけなんだ!」
しかし。
――これが、あのジャン・グレゴワール……?
細身の身体にしがみつき、身も世もなく懇願する腕は弱々しく震えている。
その血に流れる王者の風格はすっかり形を潜め、いまは子どものようにフランソワの愛を求めている。
「ずっと意地を張っていたんだ。私にはダルマンの意志を守るという使命がある。それにくらべ、あの男は自由だった」
細い肩越しに灰色の瞳がリュシアンを見た。
「なぜ、あの男だけが……そう思い始めると、嫉妬が止まらなくなった。なぜクレールだけが自由に生きることをゆるされる? 死してなお、愛する心を貫くことができる? 私だってキミと一緒にいたかった。キミが人質として召し出された夜、私は無力な子どもだった。長じてからも、そう。いまも私は無力だ!」
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