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第19話

置き去りにすることは出来なかったファイルを手に、俺がデスクに戻るとすぐに名前を呼ばれた。 「…響くん」 「千裕くん…何か、用?」 「うん…その、さっき…大丈夫だった…?」 「さっき?ああ、主任のこと?大丈夫だよ、別に。」 千裕くんは何一つ悪いことなんかしていないのに、主任の言葉が引っかかってしまう。 『千裕くんの方が出来る』ことが分かっているこの仕事。 手元のファイルを開くのは、俺じゃなくて千裕くんがふさわしい。 分かっているからこそ当たりがキツくなってしまった。 「…これ、千裕くんがやる?忙しくなかったらだけど。」 「それは響くんを指定してきた案件でしょ?なんで…」 「主任、本当は千裕くんにやって欲しいみたいだったし。俺がやっても負け戦になるだけじゃん?主任嫌いだからさ、負け戦。」 「………響くん…」 「まだどんな内容か見てないけど、千裕くんならどんなジャンルでも大丈夫でしょ。」 「……やらない。やれないよ…。ねぇ響くん、何かあったの?最近の響くんおかしいよ…」 「別に?何でもないよ。やらないなら俺もやる気ないし、これ断るね。じゃ。」 待って、という千裕くんの言葉を無視して俺はファイルを本人不在の主任のデスクに置いた。 そのまま会社を出たかったけどお昼休みは残り半分あるかないか。 一人になりたくて、俺は滅多に行くことの無い屋上に向かった。 (……あーあ、やっちゃった…) 肌寒くなった外の空気は頭を冷やすのには丁度良かった。 カッとなって千裕くんに八つ当たりしてしまったこと、中身の確認もしないまま置いてきたファイル。 俺を指名していた仕事はどんな内容だったのだろうか。 (…まあ、どっちにしても俺がやったところで負け戦、か…) いつだって仕事に本気を出さなかったことはない。 それは主任にすぐバレてしまうからだ。ここ最近の仕事だって特に訂正なくOKが出ていたんだから今更『本気』なんて言われても、何が本気で何が本気じゃないのかなんて分かるわけがない。 結局俺は後輩に負けてるんだ。入って数か月の、可愛くて仕事の出来る後輩に。 俺の居場所なんてもう無いんじゃないか。俺が居なくてもきっと千裕くんが居れば大丈夫だろう。 (もう、辞めようかなぁ…) 今まで考えたことも無かった『仕事を辞める』ということ。 そんなことを考えてしまう程に俺は追い詰められていた。 昼休みが終わるギリギリまで屋上で頭を冷やした俺がデスクに戻ると、主任のデスクに置いたはずのあの黒いファイルが置いてあった。 ご丁寧に『本気出せ』と汚い字で書かれたメモと、いつも缶コーヒーと一緒に。 こんなことされたって、もうやる気なんか無いのに。 中途半端な優しさが返って辛い。 グシャっと丸めたメモをゴミ箱に捨て、缶コーヒーには触れずにファイルをデスクの端に置いた。 その日、俺がファイルを開くことも持ち帰ることも無かった。 ***** 「もーいっぱいィ……」 「飲みすぎじゃないですか?」 「らいじょおぶ…まだのめる…」 「…最後にしましょうね?」 「ふぁーいっ」 定時ぴったりに会社を出た俺は、苦手な居酒屋を一人で何件かはしごした後あのバーに辿り着いた。アキトさんのことがあってから『もう行かない』と決めたはずだったのに、アルコールのせいで回らない思考が俺をここに向かわせたのだろう。 すでに何杯も飲んでいたのに酔いが足りなかった俺は、ここでもおかわりを繰り返していた。 飲まなきゃ忘れられない。飲まなきゃ眠れない。 数時間もすればまたあの会社に行かなきゃいけない。 主任と千裕くんにあんなこと言うなら、せめて休みの前日にすればよかった。 後悔しか残らない、だから飲んで、酔っ払って、少しでも忘れたかった。 きっと自分の限界なんてとっくに超えている。 呂律も回らないし、今が何時で目の前に居るマスターが何かを言っているのもうっすらしか聞こえない。 チリンチリン、とベルの音が聞こえると、ふわっとブルーベリーの香りがしたような気がして、それがなんだかとても懐かしく感じて。 『響くん?』ってあの優しい声がしたような気がすれば、思い出すのは一人しか居なくて。 「アキト…さん………」 ふわふわした頭で、あの人の名前を呟いたところで俺の意識はぷっつり途絶えた。

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