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Side AKITO ⑤
「ーーー...と、こんな感じだ。...質問は?」
「あ、はい!ここなんですけど...」
「ああ、それは...」
松原晶との研修はかつてないほどにやりがいがあった。
というのは彼女に『学びたい』という気持ちが大いにあって、それを俺にぶつけてきたからだ。
大抵の新人は、この研修旅行の最後のお楽しみ、『旅行』の部分にソワソワして身に入ったのかどうかあやふやだし、それが分かるから指導する側もやる気なんて忘れて淡々と進めてしまうもの。
でもコイツは違った。
質問は?と問えば必ず質問が返ってきて、何かしら反応がある。
分かる、分からない、それだけでもこちらとしてはやりがいがあって教えたいという気持ちが沸いてくる。
ここまでくると、他に新人がいたら確実に置いてきぼりになってしまう。
...この研修旅行が自分と彼女だけでよかったとまで思えてしまうのだ。
「なるほど...!分かりました!」
「ん、じゃあこれで終了っと。」
そんな研修も三日目の今日で終わり。
本当は三日目は旅行を楽しむ部分だったはずなのに、本人の強い希望で午前中も追加で研修をしていた。
もう一通り教えたし、本人もかなり知識はついたはず。
あとはバカでドジな部分が直れば、即戦力になると思うのだが...
研修で使ったプリントにお茶を溢したり、何もないところで躓いたり、トイレに行けば迷子になったりと、そこに期待は出来そうにない。
「京極さん、ありがとうございましたっ!」
ただ少しだけ、『コイツはやれば出来る』と思えた研修旅行は決して無駄ではなかったのだと思った。
*****
「...くそ、結局この時間かよ...!」
直帰出来る今日ならば、いつもより早く...夕方には帰宅出来ると思っていたのに、松原晶があの大きなスーツケースを駅のホームに忘れて新幹線に乗ってしまう、という笑えないトラブルのせいで、自宅マンションに着いたのはギリギリ日付の変わる前だった。
今日帰ってくる、と知っているであろう響くんが、マンションで待っていたら?
そう考えると一刻も早く帰りたくて仕方ない。
連絡は無かったけれど今までのことを考えればきっと部屋に居るはずだ。
鍵を開ける音に気付いた響くんが廊下を走ってくるあの足音、扉を開いた瞬間に俺の胸に飛び込んできて、可愛い声で『暁斗さん』って俺の名前を呼ぶ...
その時を想像するだけでこんなに胸が弾むだなんて、アラサーの男がすることじゃない。
分かっているけどそれくらい響くんに会いたくて仕方なかったのだ。
会えなかった分たくさん抱きしめて、たくさんキスをして、たくさん愛してあげよう。
意地悪なんか今日はしない、響くんの喜ぶことだけを...望むことだけを、しつこいくらいにしてやろう。
そう思いながら押したエレベーターのボタン。
早く、早くと焦る気持ちを抑えながらやっと到着したエレベーターに乗り込めば、あと数分...いや、数十秒で部屋に着く。
ーーその数分、数十秒が我慢出来ずにエレベーターを降りてから走って部屋に向かった俺が、扉を開けて絶望することなんて、そのときは全く考えていなかった。
「...響くん...?」
開いた扉の先に愛しい彼の姿が無いことも、姿だけじゃなくて靴すらそこに無いことも、慌てて取り出したスマホにメッセージは一通も入っていないことも...
『響くんがここに来ていない』
その事実を知ったとき、俺の中の何かがガラガラと音を立てて崩れた。
クリスマスにあれだけ俺を見て涙を流しながら『一緒に居れたらそれだけでいい』と言ったあの響くんが、何日も会っていないのに会いに来なかった。
何故?どうして...?
日程は教えていたし、今日帰ってくることは分かっていたはずだ。
それなのに連絡もなければここへも来ていない。
「......もう、どうでもよくなったのかなぁ...」
仕事の忙しさで響くんとの時間を割いてしまったのは自分。
だからその間に響くんが俺じゃない別の何か...いや、別の誰かで寂しさを埋めていたら?
考えたくなかった『最悪の展開』が頭の中をいっぱいにする。
前みたいにゲームに夢中になっているならそれでいい。
だけどもしそれが実物の人間だったら?
響くんが他の誰かを好きになっていたら?
響くんが、他の誰かのモノになってしまう...?
「っ、くそ......!」
そんなの嫌だ。
絶対に嫌だ。
だけど、そんなことを想像して『余裕の無い自分』を見せるのも嫌だった。
響くんが好きなのは、『大人で頼れる暁斗』なのだ。
全部を知りたいと言った彼に頷いたけれど、本当は誰にも響くんを触れさせたくなくて、たまに弥生にですら嫉妬してしまうくらい嫉妬深くて、響くんのことが絡めば手段も選ばず大雪のド田舎で何度も何度も頭を下げて車を出してもらうほど余裕がないことなんて、絶対に知られたくない。
彼の好きな自分であり続けたい。
そんな我が儘が邪魔をして、俺から連絡をすることも出来なくて。
冷えきったベッドで響くんのことを思い出しながら、結局眠れずに朝を迎えた。
Side AKITO end.
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