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「おーい響、俺帰るぞー」 「......」 「無視かよ。おいっ!そんなに追い込まなくても...って...響?」 「...あ、主任...?」 定時を二時間すぎた頃、キーボードに手を添えたまま今朝見た光景を繰り返し思い出していた俺の肩を叩いた主任。 午後はずっとここに座っていたのに、全くと言っていい程進まなかった仕事。 それはパソコンの画面を見れば分かることだった。 「体調悪いのか?」 「...違います」 「...何かあった?顔色も悪いぞ?」 「大丈夫、ちょっと...考え事...」 世話焼きで勘のいい主任は、俺の顔とその画面を見て察したのだろう。 「暁斗のこと?」 「...違います、...あ、でも大丈夫です。本当に。」 「大丈夫そうに見えないから聞いてるんだけど?」 「...っ、」 隣の席に座り、『言うまで逃がさない』そんな空気を出した。 だけど俺は主任にだけは言いたくなかった。 主任と暁斗さんは仲がいい。だからもしかしたら、『松原』と呼んだあの人のことを既に知っているかもしれない。 でもこれは俺と暁斗さんの問題で、暁斗さんが俺に言わないってことは『隠したい』ってこと。 それを主任の口から聞くのは嫌だった。 それ以上に主任に相談して、俺が今朝二人を見て浮気を疑っていることを口に出したく無かったんだ。 『暁斗さんが浮気してる』 言ってしまったら本当にそうなる気がして。 俺のどこかで、まだあれは『浮気』なんかじゃないと否定する気持ちがあって、知らない女の子は仕事絡みかもしれない、たまたまあそこに寄っただけかもしれない、仲良さげでも恋愛感情が無ければそれは浮気じゃない、そう思っていた。 嫌なものは嫌だけど、まだ浮気と決まった訳じゃない。 だからこのことはまだ俺の中だけで留めておきたかった。 「......はぁ、分かったよ。本当に大丈夫なんだな?」 「...はい」 「明日もそんな顔してたら吐かす。いいな?」 「...はい」 「じゃ。俺帰るから。お前も仕事しないなら帰れ。」 「...お疲れ様、でした」 妙に諦めがよかった主任が部屋を出てから俺も帰り支度をすることにした。 昨日までは全てが順調だったのに、今日一日無駄にしてしまった罪悪感と俺の頭から離れない2人の姿。 それはいつまでも頭に焼き付いて、眠ってる最中も夢にまで出てくる程だった。 ***** 今日の仕事が終わったら、夜は暁斗さんと会う約束をしていた。 つまりあの日から5日、俺の休みの前日だった。 結局忘れることが出来なくて、仕事の進みは最悪で、毎日残業続き。余分に仕事をしようとしてるんじゃなくて、間に合わないから残業するっていう、順調だった頃の前の自分に逆戻りしていた俺。 だけどそれを他の人に気付かれないように、作った笑顔を顔面に張り付けるようにして明るく振る舞ったおかげで、主任から何か言われることは無かった。 (...会いたくない...) そんな俺が初めて抱いた感情。 大好きな暁斗さんだけど、今は会いたくない。 会ってもし『松原』と呼んだあの人のことを言われたら? 別れ話が出たら? そう考えると会いたくないと思ってしまう。 ギリギリまで残業しても約束は約束で、見た目とは裏腹に沈んだ気持ちを抱えたまま、重たい足取りで暁斗さんのマンションに向かった。 途中で出てくるあのパン屋さんを避けるように回り道をして、日中は子供の声がする公園の横を通り過ぎ、次に出てくるバス停を通り越せばすぐに暁斗さんのマンションが見える。 いつもは早く会いたいからって小走りで近道を探すのに、会うまでの時間稼ぎをしようと回り道ばかりする日が来るなんて思いもしなかった。 「はぁ、」 小さくため息をついて公園の横を歩いていた時だった。 俺を追い抜かした一台の車がバス停に停まりハザードをたいた。 日常でありきたりなことなのに、ボーッと前を見ていた俺の足がピタっと止まる。 「今日もありがとうございましたっ!」 「バス何分だっけ?」 「えーっと...あと10分くらいかな?」 「そう。」 「帰らないんですか?」 「女の子一人こんな時間に置いてけないでしょ。一本吸うまで付き合ってやる。」 「...京極さん優しいーっ!ありがとうございますっ」 車から降りた2つの影と男女の会話。 静かな夜道だからそれは響くように俺の耳にも届いてしまう。 「京極さん...いつもすいません」 「いいよ、別に。」 「でも京極さん忙しいのに...」 キィンと金属音がして、風に乗ってふわりと香るブルーベリーの匂い。 それは俺がよく知ってる音と俺の好きな人が吸うタバコの匂い。 きっと金属音は俺がプレゼントしたジッポの音で、2つの影が誰と誰なのかは会話で分かってしまった。 (なんで......暁斗さんがあの人と一緒なの?) 仕事が終わらない、忙しい、そう言っていたはずなのに。 『今日も』『いつも』 タバコを吸う影...暁斗さんに確かにそう言ったもう一つの影。 それはパン屋で聞いたあの声と同じで、それが『松原』であるのは間違いない。 つまり暁斗さんは松原という人と日常的にこうしているということ... (なんで.....暁斗さん、なんでなの?) これ以上見ていられない。何も聞きたくない。 きっと暁斗さんは俺に気付く所かここに人がいることにも気付いていない。 足音を立てないように方向転換し、俺はまたその場から逃げるように走った。

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