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ーーバタン
来たときはこんなことになるなんて思っていなかった。
暁斗さんを驚かそうとか、どんな顔するかなとか、そんなこと考えていたはずなのに。
扉の閉まる音がしてから、俺は何処かで暁斗さんが追いかけてきてくれるんじゃないかって期待して、その場を動くことができなかった。
でも物音一つしない扉の向こう。
そりゃそうか、暁斗さんには『松原』が居る。
別れようって言ったのは俺だし、追いかけて欲しいなんて都合の良すぎる我が儘だ。
「さよなら、暁斗さん...」
もうここには帰ってこれない。
俺のアパートよりずっと広くて居心地のいい場所。
並んで座ったソファーも、ご飯を食べたテーブルも、洗い物をしたり二回だけだけど初めて手料理を作ったキッチンも、何度も何度も肌を重ねたあの幸せな気持ちになれるあのベッドにも、もう戻れない。
「っ、ふ...、ぇ...っ」
どれだけ泣いたって、もう俺の涙を拭いてくれる人は居ない。
抱き締めてくれる人も頭を撫でてくれる人も、『可愛い』『好きだよ』『愛してる』って言ってくれる人も、もう居ないんだ。
暁斗さんの居ない生活なんて、もう考えられないくらいの所まできていたのに、俺はどうしても話してくれなかった暁斗さんが許せなかった。
それと同時に、暁斗さんにもうこれ以上隠し事をしないで欲しい、嘘をついて欲しくない、そう思う気持ちもあった。
きっと隠さなければならなかったのは、俺が居たせい。
俺が暁斗さんを独り占めしたいって言ったから、俺が暁斗さんを好きになってしまったから。
よく考えてみたら、あんなカッコいい人が俺みたいな男と付き合って何のメリットがある?
仕事が出来て優しくて、そんな人が俺と付き合ってたってデメリットしかないじゃないか。
周りの女の子だって暁斗さんを放って置くわけ無い。
だから女の子の方がいいってなるのは当たり前だし自然なことじゃないか、そうだ、そうだよ。
「ごめんね」
好きになってごめんね、迷惑かけてごめんね。
でも『お願い』暁斗さん。
俺、まだ暁斗さんのことが大好きなんだ。
好きで好きで、大好きで、愛してるんだ。
もう伝えられないこの想いだけは、ずっと俺の胸に中に置いておいてもいいかな?
静まり返ったマンションの廊下を一人で進み、俺はもう通ることのない暁斗さんのマンションからの帰り道を歩いた。
最後だから、と、今までで一番ゆっくり時間をかけて。
*****
暁斗さんに別れようと言ってからの日々は、例えるならモノクロの世界だった。
何も楽しくない、何も面白くない、何にも興味が湧かない。
それなのにふとした瞬間に思い出すのは決まって暁斗さんのことで、その度流れる涙を止めることに必死になる。
食欲もないし、一人で眠ることだって出来ない。
暁斗さんと約束していた4月10日を迎える頃、俺は精神的にも体力的にもボロボロだった。
「おーい響、今日も残業すんの?」
「はいっ。絶対クリファンの企画は成功させたいし、出来たら宣伝も手伝いたいし、もうちょっと残ります。」
「ふーん...ま、いいけど。無理すんなよ?」
「大丈夫でーす。主任は早く帰った方がいいんじゃないですか?千裕くん、待ってるでしょ?」
「あー、そうだった。んじゃお先!」
「お疲れ様でーす」
だけどそんな自分を隠すように、俺は『いつも通り』を装った。
誰にも気付かれないくらい、今までと何も変わらない筒尾響を演じる。
だってそうでもしなきゃ仕事は出来ないし、すぐに暁斗さんを思い出してしまうから...。
「...あ、そうだ響。暁斗とは順調?」
「...何が、ですか?」
「言葉通りだけど?」
「...はは、そんなの暁斗さんに聞いたらいいじゃないですか!ほらほら千裕くんが待ってますよーー!お疲れ様でしたっ!!」
もちろん主任にも千裕くんにもこの事は話していない。
きっとそのうち...いや、もう既に暁斗さんから伝わっているかもしれない。
でも俺から話すことは絶対にしないと決めていた。
俺が話すことで暁斗さんが悪者になる、そんなことだけはしたくなかったから。
「...元気かなぁ...暁斗さん...」
もしあの日俺が暁斗さんの部屋に行かなかったら、どうなっていたんだろう?
暁斗さんは、どうして今日会いたいと言ったのだろう?
「会いたいなぁ.....」
叶わぬ願いを俺以外誰も居ない部屋でポツリと漏らした。
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