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「響くん」
その言葉を聞いただけで、名前を呼ばれたってことだけで、鼻の奥がツーンとした。
「元気、だった?」
それは『仕事モード』じゃなくて、『プライベート』の暁斗さんの話し方で、俺がいつも聞いていた声だった。
「...う、ん...。暁斗さんは...?」
「なんとかやってるよ。やっと新人研修が終わって、他の部署に移動することになって...あ、この広告の話が終わってからだけどね。」
「そ...なんだ...、忙しい...?」
「うん、すごく。...でも大丈夫だよ。響くんは...ちゃんと食べてる?眠れてる?」
ほら、暁斗さんは優しい。
俺のことをすぐ心配してくれる。
俺が傷つけたのに、そんな俺のことを気にかけてくれる。
もう会えないかもしれない、次の打ち合わせは参加できないかもしれない、なら今しかない。
暁斗さんに謝らなきゃ、ちゃんと謝って話をしなきゃ。
「あ、きと...さん...」
「顔色良くないよ。体調悪い?」
「俺、あの日...!!」
言わなきゃ、そう思って真っ直ぐ暁斗さんを見たときだった。
暁斗さんの左手に、キラリと光るモノが見えたんだ。
俺の髪を撫でて、俺に触れた、あの細くて長い俺の大好きな指...その薬指にはまった指輪が。
その場所は『特別』な場所だって知っている。
ましてや今までアクセサリーの一つしなかった暁斗さんがそれをその場所に付けているということは、意味のあることなんだとすぐに理解できた。
もう、俺じゃない人が暁斗さんには居るんだ。
暁斗さんが大切に思う人が、居るんだ...。
「...ごめん、忘れちゃった...」
「響くん...?」
「ちょっと風邪気味で...頭回ってないみたい...顔、洗ってくるね」
泣いちゃだめだ。
俺が泣く権利なんてないんだ。
傷つけて悩ませた俺に、暁斗さんの幸せを奪う権利なんて、涙を見せる権利なんてないんだ。
逃げるように会議室をでると、戻ってきた山元さんとすれ違う。
その時何か言われたような気がしたけれど、お構い無しで俺は走った。
誰にも見られない場所に、一人になれる場所..
.思い付いたのは屋上しかなくて、バカみたいに階段を上って屋上に向かった。
もう戻れない。
暁斗さんと過ごた幸せな日々には戻れない。
今度こそ本当に、本当に終わりなんだ.....。
そう思うと、屋上に着くより先に涙で視界がぐちゃぐちゃになって、途中の階段で足が止まった。
溢れ落ちる涙を掬ってくれる人はもういないのに、分かっているのに、涙は止まらない。
桜が散った4月のある日、俺の二度目の恋は終わった。
俺が今年の桜を暁斗さんと一緒に見ることは無く、それから暁斗さんに会うことも無く、俺は暁斗さんの居ない日々を必死に過ごした。
『忘れなきゃ』
そう思って、毎日涙を堪えて、仕事に夢中になっているように見せかけて、必死に過ごした。
どうか暁斗さんは幸せに過ごしていて欲しい、そう願いながら。
*****
寒かった冬が終わり、ようやく暖かい春になったと思えば季節はあっという間に夏手前、6月に入ったばかりだというのに、半袖でも汗が滲む暑さがやってきた。
あれから俺はデザイン部から営業部へ、『応援』ではなく『異動』し、山元さんと一緒に働いている。
主任とはあの日言い争ってからろくに会話も無かったんだけど、4月の終わりに移動の話をされて俺はそれを了承した。
山元さんと営業部の人たちは、俺の異動を喜んでくれて、最初から歓迎ムード。
デスクも用意されて、完全に『営業部』の人間として仕事をしていた。
「ん.....」
「おはよう。」
「おはよ...ございます...」
「朝飯出来てる。卵は半熟がいいんだったよな?」
「...うん。」
それから変わったことがもう一つ。
営業部に異動してから、山元さんは俺の限界手前が近付くと、自宅に招き俺を腕の中にすっぽり収めて眠るようになった。
...山元さんがそうしたいから、ではなくて、多分不眠症になりつつある俺を眠らす為に。
それを初めは断っていたけれど、もう一人じゃろくに眠れなくなっていた俺は、三度目の誘いから素直に頷くようになった。
恋でも愛でもなく、ただ眠るだけ。
そして目覚めたら必ず山元さんの手料理、朝からガッツリ皿に盛られた朝食を食べて出社する日が出来たのだ。
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