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第7話 知りたい/知れない?

それからしばらく経った、まだ気温が高い木曜の午後。 廊下の掃除中だった修作は、大きく開いた窓の外から七海の爽快な声を拾った。 「えーた見てみてー!虹!!」 「わーすごーい!」 「ちょっと七海君もう水いいから!ちゃんと掃除してよ!」 「してるってばー!」 窓から覗くと、中庭の掃除をしている数名の一年が見えた。 3階からでもどれが七海かよく分かるのは、七海が前髪を赤いゴムで結っているからだ。 その様子をぼうっと眺めながら、修作は体育祭のときの七海を思い出していた。 あの時と同じ、屈託のないホンモノの笑顔。 やっぱり自分には、ああいう顔を見せてはくれないのだろうか。 互いを触り合うなんてとても近しいようなことをしているはずなのに、修作には七海がいつまでたっても遠くに感じる。 それを目の当たりにして、修作は肺の奥を捩じられるような不快な痛みに襲われた。 もっと、なんてことないとりとめのない会話をしてみたい。 そう思って、修作はこの日初めて自分からメッセージを送った。 『譜久田修作:お疲れ。今日の放課後、うちのクラスまで来て』 断られるかもな、と思いながら送信ボタンを押す。 自分の手がひんやりしているのに気付いて、なにを緊張しているんだと少し可笑しかった。 すぐに既読マークがつき、『分かりました!』と返事が届く。それを見て、ひとまず安堵の溜め息をついた。 「こんにちはー!」 放課後を知らせるチャイムがなって15分後、七海は委員会以来久しぶりに3Eの教室へ足を運んだ。 あれから何度か席替えがあり、修作は廊下側の一番前の席になっている。 前方の出入口からいきなり聞こえた元気のいい声に驚いて、修作はパズルゲームをしていた携帯を落としてしまった。 その音で、七海もすぐ目の前に座っていた修作に気が付いた。 「わ!びっくりした~席替わったんですね」 「俺はお前の声にびっくりしたわ」 「先輩の方からラインくれるとか初めてだけど、どうかしました?」 携帯を拾い上げ、修作は遠慮がちに伺いを立てた。 「あのさ、一緒に帰らない?」 「は?」 「や、えーと。用事あるなら別にいいんだけど」 「帰るだけ?」 「帰るだけ」 「なんで?」 「……なんとなく。一ノ瀬と普通に話したことあんまりないなって思って……」 今度こそ断られるかも。 修作のそんな不安をよそに、七海はぱっと明るい笑顔で「いいですよ!」とその誘いを快く承諾した。 「よし、んじゃ帰ろ」 「はーい!」 携帯をかばんに放り込み席を立った修作の隣を、七海がにこにこと歩く。 「そう言えば今日の4限目体育だったんだけど、お前こっち見てた?」 「え?!」 「遠くてあんま見えなかったけど、多分1Aの教室だったような……」 「あっ、あれ先輩だったんだ!サッカー下手くそな人がいるなーって見てました!」 「お前はホント一言多いな!」 「正直者なんですよー!」 歩いてきた廊下から一番遠い場所に1年の下駄箱がある。 七海はけらけらと笑いながら、下駄箱めがけて走って行った。 駅まで歩く道のりと、そして電車に乗ってから。 その間ずっと、なぜか七海からの質問大会になっていた。 「好きな音楽!」 「いきものがかり」 「好きな授業」 「英語。と、たいく」 「嫌いな授業は?」 「ん~…歴史」 「日本史?世界史?」 「日本史。全ッ然覚えらんねえ」 「あ!付き合った人数!」 「そういうのはナシ」 「えー!じゃあ~好きな食べ物!」 「ん~…………。焼き肉とか」 俺のことはいいから自分のこと喋れよ!と言うと、「だって先輩が聞いてくれないから!」とわざとらしく頬を膨らませた七海を年下らしく感じて、修作は思わず笑ってしまった。 電車が速度を落とし、車掌が駅名を繰り返す。修作は背中側の窓に目を向け、最寄駅の手前だと確認した。 いつもは何の面白味も無いこの時間も、今日はあっという間だ。 「俺次の駅」 「あ、そうなんですね」 「うちでメシ食ってく?」 修作の家は、祖父と父で米農家を営んでいる。 だからというわけではないだろうが、昔から夕飯は大皿料理で量が多く、一人くらい人数が増えても問題はない。中学の頃は、よく近所の友達を誘って一緒に夕飯を食べ、遅くまでゲームして遊んでいたものだ。 だからこの誘いも何の気なしのものだったが、修作はすぐに取り消した。 「あ、でもお前んちももう夕飯作ってるか」 直前の誘いは迷惑になるからやめときなさいね、と過去に家族に言われたことをふと思い出しての言葉だった。 それを聞いて、七海は一瞬考えたのちすぐに「行きたい!です!」と大げさに手を上げた。 「家にちゃんと連絡入れとけよ」 「はーい!メールします!」 携帯を取り出して、素早く文章を打ち込む手元に見とれた。 「打つの早」と小さくつぶやくと、「え、普通ですよ」と笑われてしまった。 (“普通”なのか…) 七海にも“普通”があるのかと不思議に思った。 もしくは、自分ができないことを軽々と“ふつう”と言い切る姿に、少し羨ましくなったのかもしれない。 「ただいまー」 「おじゃましまーす」 「おかえり~…ってあら、お客さん?」 格子の引き戸をガラガラと開け声を上げると、奥から修作の母がタオルで手を拭きながら玄関へ出て来た。 「後輩。メシあるよね?一ノ瀬上がって」 「高校の友達連れてくるなんて珍しいわね。ご飯もう出来るから、テレビんとこで待ってなさい。えーと、お名前……」 「あ、一ノ瀬七海です。すみません急に」 「七海君ね!散らかっててごめんなさいね、ゆっくりしていって」 「はい!ありがとうございます!」 修作に案内されて、居間へと通される。 畳が敷かれた広い部屋に、重厚感のある長めの座卓が置かれたその上には、すでに大鉢が二つ置かれていた。 白磁で藍色の絵付けがされたその鉢の中で、かぼちゃの煮物と大根と鶏肉の煮物がほわほわと湯気を立てている。 その色と香りで(これ絶対美味しいヤツだ!)と七海は思った。 修作が床の間の横に付けられた小さな押入れから座布団を取り出し、机の真ん中に割り込むように置く。 座っててと修作に促され、七海は素直に腰を下ろした。 きょろきょろと辺りを見回す七海に気付いた修作が、テレビ電源をつけてリモコンを渡す。 「ちょっと準備手伝ってくるからテレビ見てて」 「えっ、俺もやりますよ!」 「いいって」 七海の肩をぽんと叩いて、修作は台所へと向かった。 居間の方から、「あら、いらっしゃい。修作のお友達?」と祖母の声が聞こえたが、七海のコミュニケーション能力なら大丈夫だろうと放っておいた。案の定数秒後には二人の笑い合う声が聞こえてきて、それには修作の母も驚いていた。 「ねえ、あの子何年生?」 「1年」 「やっぱり!カワイイわね~」 「はあ?」 浮かれながら味噌汁の鍋をかきまぜる母を横目に、修作は食器棚の引き出しを開けじゃらじゃらと人数分の箸を取り出す。それと数枚の取り皿を持って居間へ戻ると、NHKのニュースをBGMに修作の祖母がひとりぺちゃくちゃ話していて、七海は相槌を打ちながら楽しそうに聞いていた。 「ばーちゃん何しゃべってんの」 「ふふ、内緒だよ~」 くすくす笑う二人を見ながら、カラフルな箸をいつもの定位置に置いていく。 七海の前には、母に押し付けられた上質な漆塗りの箸を置いた。 「一ノ瀬ごめんなー。年寄りの相手疲れるだろ」 「え、そんな全然…」 「ちょっと!誰が年寄りだって?」 「ばーちゃんに決まってんだろ~」 そう言って笑う二人に挟まれて、七海は大きな目をさらに大きくしていた。 「?なに?」 「いやあの……。うちじーちゃんばーちゃんと離れて住んでて、会ってもそんな何か……冗談とか言わないからすごいなって思って」 「まあ一緒に住んでりゃこんなもんじゃない?」 そう言う修作を遮るように、「七海ちゃんは一緒に住んでもばあばのこと年寄りなんて言わないもんね?」と修作の祖母が七海に問いかけ、七海も「うん!言わない!」と元気に返事をする。 「さすがだね~どっかの誰かとは違うね~」 「俺かよ!」 そんな修作と祖母のやり取りが面白くて、七海は大きな声で笑った。 そうしているうちに、その他のおかずや味噌汁が次々に座卓に並んでいく。 「七海君が来るって分かってたらもっといいご飯にしたのに~!」と修作の母は悔しそうに言うが、豆腐と玉葱の味噌汁も野菜と白身魚のフライも、先ほどの煮物もピカピカに光る白いご飯も、すべてがごちそうだと七海は思った。 もちろん自分の家の夕飯が質素なわけではないけれど、大皿で豪快な盛り付けは、七海にとって最高にワクワクするものだった。 修作の父と祖父が席に座り七海との挨拶を済ませたあと、みんなで「いただきます!」と手を合わせる。 座卓に揃った顔ぶれを見て、七海がふと「先輩って一人っ子なの?」と聞いたとき、修作は初めて兄がいることを話した。 修作の兄は京太郎といって、車で30分ほど行ったところにある中学校で教師をしている。京太郎が家に帰ってくるのはいつも日付が変わる直前だ。 「先輩が弟って何か意外!」 「そうか?一ノ瀬は完全に弟感あるけど」 「うん、うち兄貴います。双子の」 「えっ双子?!すげーな、顔似てんの?」 「ん~…。俺は家族だから全然違く見えるけど……」 そんな話をしているうちに、修作と七海は同じタイミングで白飯が入った茶碗を平らげた。 修作のすぐ後ろには、コンセントにつながれた炊飯器が置かれている。 成長するにつれて何度もおかわりをするようになった息子たちの米をよそうのが面倒になった母が、各自自分でつげるように座る席を交代したのが修作が中学に上がってすぐの頃だった。 「一ノ瀬も食べる?」 「食べる!ます!」 「タメ口でいいよもう」 すんません…とバツが悪そうに謝る七海が珍しくて、小さく笑ってしまった。 二人分の茶碗に白飯をよそっているとき、祖母が嬉しそうに七海に話しかける。 「七海ちゃん、お米美味しい?」 「うん!すっげー美味しいです!」 「それね、うちで育てたお米なの」 「え!?先輩んちお米作ってんの?」 祖母の言葉を聞いて、七海がぐるんと修作の方に顔を向ける。 手についた米をつまみ食いしながら、修作は七海へ茶碗を返した。 「うん。家の周りにだだっぴろい田んぼあったろ。あれ」 「えー!!すごい!!」 「別にすごくはないけど」 「すごいよだって超おいしいもん!」 もちろん修作も“超おいしい”と思ってはいるけれど、わざわざあからさまに褒めたりしない。七海の素直な褒め言葉は、生産者である修作の家族にとって何よりも嬉しいものだった。 「七海君ありがとね~。おじいちゃんもお父さんも嬉しくてニヤついてるわ」 「「別にニヤついちゃいねーよ!」」 親子のハモりにまた笑い声が起きる。 修作の人となりがこの家で作られたことが、とても分かるなとこの時七海は思っていた。 「修作が地球最後の日に食べたいのはうちのお米で作った塩おにぎりだもんね~?」 そう母が言うと、修作は慌てて否定した。 「はあ?!知らないよそんなの!」 「何でよー!いつもそう言ってるじゃない!七海君この子ね、海苔も付けないおにぎりが一番の好物なのよ~。安上がりでしょ!」 「うるっさいな黙って食べたら!?」 「何よそんな照れちゃって~」 修作が電車の中で「好きな食べ物は焼き肉」と言っていたことを七海はふと思い出した。確かにあのとき、答えるまでに時間をかけていた気がする。 「……いいじゃん」 「え?」 「一番好きな食べ物が自分ちのお米って、何かすげーかっこいい」 味噌汁を啜りながら静かにそう言う七海の横顔に、修作は驚きと同時に得も言われぬこそばゆい心地がした。 “かっこいい”と言われて悪い気などしないし、自分の好きなものを肯定してくれたのが素直に嬉しくて、修作はやっぱり一ノ瀬はいい奴なんだと思った。 そして今日、誘ってよかったとも。 食事を終えたあと七海は片付けを手伝おうとしたが、「帰るの遅くなっちゃうから」という理由で聞き入れてもらえなかった。何度もお礼を言い、祖母と手を振り合っている七海はもうすっかり譜久田家に溶け込んでいた。 最寄りの駅まで送り届けるため、徒歩10分ほどの道のりを修作と七海二人並んで歩く。 「はーっ、ホント美味しかった!先輩ありがとうございました!」 「いーえ。またいつでもどうぞ」 田圃道をふんふんとハミングしながら歩く七海に、修作はひとつの提案をした。 「なー、一ノ瀬」 「なに?」 「あのさ……。今までみたいなこと、もうやめない?」 それを聞いて、七海は少しだけ表情を変え、理由を尋ねた。 「……何で?」 「一ノ瀬はさ、“先生”の代わりに俺を使ってんだろ?別に代わりにさせられたこと怒っちゃいないけど、やっぱおかしいと思う…。そういう事するなら、ちゃんと本人とじゃないと…。それに俺、お前と普通に友達になりたいし……」 「……………」 修作から“先生”という単語が出て、七海はあからさまに眉をひそめた。 普段笑顔が多い七海が機嫌の悪い顔をすると、それなりに迫力がある。 「別に……」 夏の終わりを告げるような、昨日よりも少しだけ温度が下がった風が二人の間を通り抜ける。 七海が言いかけた言葉を、さらってしまう。 「うん?」 「別に、いいじゃん。このままでも」 「でも……」 「俺、先輩とするの、結構好きだよ?」 「………」 「ね?」 「……っ!だから、それやめろって!」 唇を狙いに行ったのはわざとだった。 修作は七海が思った通りの反応をして、ざざっと半歩後ずさる。 いたずらっ子のように笑う七海の顔を、修作はニセモノだと思った。 それが分かってしまうと、もう何も言えなくなる。 「だめ?」 街灯があるとは言え、夜は七海の青い目が黒に沈んで分からなくなってしまっていた。その代わり、瞳と同じ色に光るピアスの微かな光がちらちらと修作の目に映る。 (“代わりじゃない”とは、言わないんだな) 揚げ足を取るようなことを考えながら、修作は「……分かった」と小さく答えた。

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