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第70話

瞬間── 思い出されたのは、竜一の事務所にあった……アゲハのマグカップ。 「……何かさ、どんどん遠い世界の人になっちゃう感じがして、淋しいぃ……」 「えぇー、いいじゃん! そのホストクラブ、行ってみたぁーい!」 キャハハ…… 彼女達の笑い声が、遠くで滲む。 ……あのアゲハが、ホストに……? 俄に信じられない情報に、頭の中が真っ白になっていく。 その何も無い空間に浮かぶ、アゲハの驚いた顔。 見開かれたその眼は、あの日──ベッドで交わる僕と竜一を、しっかりと捕らえていた。 『……じゃあ、またな』 部屋の出入口に立ち、微動だにしないアゲハ。その直ぐ脇を通り、竜一が出て行く。 『……っ、』 暫く、その場に立ち尽くしていたアゲハが、意を決したように背を向け竜一を追い掛けていく。 一歩も、部屋に踏み入る事も。手を差し伸べる事も無く…… いつだって、そうだ。 アゲハは……僕のいる場所(テリトリー)に、簡単に足を踏み入れたりはしない。 自分の身を汚さないまま…… 僕の欲しいものを、全て奪っていくんだ。 ……竜一の、温もりまで。 「……」 横向きになって膝を折り曲げ、胎児のように背中を小さく丸める。 『──出ていけぇっ!!』──アゲハの名前を出した時、狂ったように叫んだ母。 随分と(やつ)れて、疲れた顔をしていた。 きっと、突然ホストに転身したアゲハの事で悩んでいたんだろう。 もしかしたら、それすらも知らず──僕のように突然家を出て、竜一の元に行ったアゲハをずっと探していたのかもしれない。 「……」 よく解らないのは……竜一だ。 僕を利用して、アゲハを手に入れたのに。どうして僕を事務所に連れ込んで、あんな事をしたんだろう…… 『俺の留守中、他の男を咥え込みやがって……』 ……どうして。 ハイジとの仲を、引き裂こうとするの……? そんなに僕の存在が、嫌だった? 大好きなアゲハの弟だという事すら、気に入らなかった? ……でも、それなら何で。 乱暴で、酷い抱き方をしながら──僕に気遣ったり、心と心が重なり合うような温もりを、僕に与えてくれたの……? 「……」 キュッと目を瞑り、思考を停止しようと息を吐く。 竜一の気持ちを考えれば考える程、暗闇に迷い込んでしまうようで、……怖い。

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