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第30話 棘

××× ざわざわ、ざわざわ…… 僕の首筋や鎖骨に舞い散る、桜の花びらのような鬱血痕(キスマーク)。 少し長めの襟足や横髪、制服のシャツ襟だけではその全てを隠せず──開き直って敢えて曝す。 別に、慣れてる。 冷ややかで軽蔑した視線なら、以前からずっと。 「……」 教室の自席にいる僕を、同じクラスの奴らが遠巻きにする。壁際や窓際。或いは、前方の教壇で。 柔肌に刻まれた赤い印の謎について、ひそひそと考察を繰り広げている。 「……」 別に、構わない。 こそこそ隠すつもりも、奴等の標的(晒し者)に屈するつもりもない。 僕にとってこれは、神聖な印──僕がハイジのものだっていう、大事な証明だから。 まだ喧騒の余韻が残る、昼休み明けの廊下。その突き当たりにある重いドアを開け、非常階段へと足を踏み出す。 もう夏が来るというのに。梅雨特有の湿った冷たい風が吹き、僕の肌を撫でていく。 「……」 この身体の、一体何処に溺れる要素があったというんだろう。 あの後、何度か求められて。その度に僕も、ハイジと同じ場所へ到達し(イき)たいと願って止まなかったのに。……結局、最後まで叶わなかった。 ハイジを感じ、ハイジで満たされ──身体に刻まれたあの人の記憶全てを、ハイジのものに塗り替えたかった。 あの人を、早く忘れてしまいたかった。 今の僕にとって、ハイジが全てなのに──心の奥底に刺さったままの苦い棘は、まだ抜けそうにない。 『……じゃあ、またな』 耳の奥で響く、懐かしい声。あの人の匂いや手の温もりまでもを引き連れ、僕の中にくっきりとした輪郭が現れてしまう。 あれから一度も、竜一には会っていない。 何が、またな、だ…… 三階部分の踊り場に立ち、コンクリートの囲いに近付いてその縁に両肘をつく。 見上げた空は灰色の厚い雲に覆われ、今にも泣き出しそうにグズグズとしている。 竜一が僕にした行為は、全てアゲハへの当て付けだ。それは、あの台詞だって…… だけど。もう一度会えたらと、心の何処かで願ってしまう。 忘れようとしているのに。 ハイジに出会って、欲しかった温もりを与えて貰っているのに…… 風に髪を乱され、晒されてしまった首筋の刻印を、そっと片手で覆い隠す。 「……」 ハイジに全てを捧げながら、未だ他の男を忘れられずにいる僕は──汚い。 溝川の底に沈む、散った桜の花びらのように。

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