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第32話

『このままだと、さくらまで傷付けられるかもしれない』 瞬間──脳裏を過る、必死な形相のハルオ。 だけど直ぐに、それらを追いやる。 「……」 確かに凌は、一度も僕に職業を打ち明けてなんかいない。どんな仕事をしているのか、気になった事なら何度かあったけど。 夜の仕事──そこから連想して、ホスト関係やバー経営などをしている人なんじゃないかって、僕が勝手に思っていただけ。 「……姫?」 鼻腔を刺激する、珈琲の甘くほろ苦い香り。 ハッとしてティーカップから視線を上げれば、首を少し傾げたモルが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。 「あの、変な事聞きますけど。姫はいま、愛沢さんの女……なんッスか?」 「……ぇ」 ツバの下から覗く、くりっとした大きな二つの眼。それが真っ直ぐ向けられ、僅かに視線を散らす。 「あの人、人当たりが良くていい人そうに見えるんスけど。何考えてるかわかんねートコ、あるんスよ。……だから、あんまり深入りしない方がいいッス」 「……」 「っていうか。俺らのいるこの世界から抜けて、姫には普通の生活を送って欲しいッス」 「……」 一点の曇りも無い、綺麗な瞳。 屈託のないその瞳に引き寄せられ、合わせた視線を外せない。 『オレらのいる世界(場所)は、さくらが思ってる以上に危ね(ヤベ)ぇんだ』──ハイジも、同じような事を言ってた。 でも、凌とその事は関係ない。 確かにモルの言う通り、言葉が軽すぎて、本心が何処にあるのか解らない時がある。 けど。ハルオの束縛から救い出してくれたのは──凌だ。 その上、僕が望んだ通りの生活まで用意してくれて、その後も何かと気に掛けてくれてる。 もしあの時、凌と出会わなかったら……きっと僕は、まだあのアパートに囚われていて、ハルオの一方的に注がれる重い愛情に脅えていたかもしれない…… 「ここだけの話、愛沢さんは危険ッスから。……マジで気を付けてくださいッス、姫」 「……」 忠告のつもりなんだろうか。釘を刺すような物言いにムッとすれば、周りを警戒するようにモルが視線を外す。そして一気に珈琲を飲み干すと、テーブルの端に置かれた伝票を掴む。 「姫だけでも、幸せになって下さい。 ……俺、姫だけが希望なんで!」 スッと立ち上がり、向日葵のような元気で明るい笑顔を浮かべると、キャップのツバを深く下げ、そのまま立ち去っていった。

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