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第6話

 思いつくと、いても立ってもいられなくなるせっかちな性分は、自分でも呆れるほどだった。  今夜すぐに行動しなくてもいいのに、ビーシュは研磨した原石をいくつか持ち出し夜の街へ飛び出していた。  貴族街近くの、高級歓楽街。  綺麗な街並みの向こう側に、高級ホテルの影が見える。  真夜中の帝都の中では比較的安全な区画ではあるが、だからといって安心はできない。  道を少しでも外れたとたん、ずるずると闇に引きずり込まれるだろう。飲み遊んで前後不覚になった若い貴族を食い物にする無数の魔の手が、闇の中でひっそりと息をひそめているはずだ。  ビーシュはとりあえず、外では悪目立ちする白衣を脱いで腕にかけ、目当てのバー『クレセント』へと足早に向かった。  宝石商が訪れる時間帯は、もっと早い。今からでは行き違いになる可能性のほうが大きいが、いまさら工房へ帰ったところで、待っているのは延々とした孤独だけだ。夜は短いようでいて、ひどく長い。  珈琲しか胃に入れていないので、食が細いといえど、さすがに腹も空いている。  軽い食事をするだけでもいいだろう。『クレセント』の店主は、ビーシュのさみしい財布事情を察してくれて、いつもおまけしてくれるいい人だった。 「また、好意に甘えることになっちゃうな。なさけない」  遠征から軍人たちが戻ってきたせいか、街はいつもよりも少しばかり賑わっているように思える。  肉の焼ける匂いや、道の端々に立つ女の甘い化粧の香り。物騒さが目立たないだけで、夜の帝都は妖しさに満ちている。  顔だけ知っている客寄せの女がにこやかに挨拶をしてくるのに、ビーシュも笑って手を振り、路地を曲がり、赤い看板を掲げたバー『クレセント』に入った。  賑やかな周囲とは違って、静かなたたずまいのバーは、ビーシュが足蹴良く通う店の一つだ。 『クレセント』は主に、宝石商にあうために訪れるのだが、うまい酒とつまみを、安価で提供してくれる普通のバーだった。 「おや、お久しぶり」  父から店を継いだ若きマスターであるレイが、息せき切って入ってきたビーシュを、にこやかな笑みで出迎えてくれた。 「どうした、またぼられたのかい?」  カウンターの奥でグラスを磨いている前マスターのルイが、たっぷりと蓄えた髭の下であきれ顔を作った。 「い、いえ。まぁ……違わないですけど、違います。あの、コーエンさんはもう帰ってしまいましたか?」  よろよろとカウンター席に座り、出された水を飲む。レイは壁に掛かっている時計をちらりと見やって、「もう、お帰りになられましたよ」と応えた。 「そうですか、なら……また明日、出直すかな」  わかっていたとはいえ、もしかしたらと淡い期待も抱いていたのでがっくりと肩を落とす。 「新しい男でもできたんですか、ビーシュ先生」  磨いたグラスを置いて、ルイは棚からナッツの入った袋を取り出した。 「お、男とか……そんなんじゃないですよ」  かっとなる頬を抱え、ビーシュは視線をさまよわせる。  名前も知らない青年だ。  青い目がとても印象的で、今もずっと忘れられない。 「先生が大慌てでコーエンさんを探してるってことは、魅力的な子を見つけちまったんでしょ?」 「からかわないでくださいよ、ルイさん。ぼくはただ……趣味が変わっているだけの男なんです。自分で言うのも、なんですけど」  バーに通うものの、アルコールのたぐいは苦手だった。  まだ見習いだった頃から顔を知っているルイの息子のレイは、ビーシュが何も言わずともリキュールを果実の汁で割ったカクテルを作ってくれた。  明るいオレンジ色が、三角形のグラスに注がれ、コースターの上にとん、と置かれる。 「すまないね、先生。今日はもう火を落としたあとなんで、まともな飯はつくってやれないんだ」  皿にたくさんのナッツをくれたルイの言葉に、ビーシュは改めて時計を見る。結構、遅い時刻になっていた。 「いえ、いいんです。最近はあまり食欲がなくて、ナッツでじゅうぶ……んっ」  ぐう。  と、言葉を裏切る腹の虫に、ビーシュは真っ赤になって椅子の上で体を縮めた。 「よかったら、摘まむかね」  テーブル席で一人くつろいでいた男が、サンドウィッチを乗せた皿を手に、ビーシュの隣に座った。 「い、いえっ。悪いです」 「マスター、同じものをもう一杯」  空のグラスを戻し、男はゆっくりとした仕草でビーシュに向き直った。  年を重ねたグレーの髪をまとめて後ろに長した男は「食べなさい」と促し、代わりとばかりにナッツが盛られた皿に手を伸ばした。 「遠慮はいらないよ。私はもう前の店で軽く食事を済ませていたんでね、すこし量が多かったんだ。おいしそうだったから、ついつい頼んでしまってね。食べてくれると、無駄にならなくて済む」  琥珀色の、つんと香る酒。ウイスキーだろうか。  酒にはとんと詳しくないので、銘柄までは当てられないが、目元に深いしわを刻んでいる男にはとてもよく似合っていた。 「あ、ありがとうございます。いただきます」  ソテーされた鶏肉が挟んであるサンドウィッチは、『クレセント』の名物でもある。  財布に余裕があるときは必ず注文する一品で、ビーシュの一番の好物でもあった。 「おいしぃ」  口に広がる鳥の脂に、空の胃が踊る。しゃきしゃきとした野菜もおいしい。  コーエンに会えなかったのは残念だったが、悪くはない夜かもしれない。 「私は、エヴァン・ロナード。君は?」 「ビーシュ先生は、軍医さんですよ」  口いっぱいにほおばっているビーシュに代わって、レイが答えた。 「お医者様に見えないでしょう? 軍病院で義肢装具を作っている先生です。僕の兄が、先生のお世話になっていまして」 「ぼんやりとしていて危なっかしいが、手先だけは、器用でね」  褒めているのか、けなしているのか。  悔しいがはっきりと否定できないほどには自覚があるので、ビーシュは黙々とサンドウィッチにかじりつくことにした。 「なるほど、では。君があの宝石商の言っていたお得意先の先生か。……意外だね。思っていたよりもずっと、可愛い顔をしているよ」  ウイスキーを流し込む勢いで飲みながら、エーギルは上着の内ポケットを探り、シルクのハンカチを取り出し、カウンターで広げた。 「これ、君が加工したんだね?」  ハンカチの中には、大ぶりの宝石をはめ込んだ指輪が二つ乗せられていた。 「あぁ、先月の子たちですね。指輪にしてくれたんだ、よかったねぇ」  台座部分の金細工はビーシュの手によるものではないが、宝石のカットは見覚えがある。  薄暗い店内にあるわずかな光を吸い込んで、きらきらと輝くルビー。  原石を削り出し、輝かせる技は若い頃に知り合った男から教わった。 「悪気は全くないんだが、意外だよ。仕事柄、いろいろな職人と会う機会があるが、皆、どこか気むずかしいからね。君のように物腰の柔らかな人は、珍しい。軍病院に閉じこもっているよりも、こっちの世界に転身したほうがいいのではないか? 私の目から見ても、すばらしい技術を持っていると思うよ」  エヴァンはルビーの指輪をつまみ、光源に晒す。  原石の時から、とても良い石だった。カウンターに落ちる赤い影は、女の唇のように妖艶だ。 「よく、言われます。けれど、僕の仕事は義肢制作なので」  祖父から受け継いだ職業を、そう簡単には捨てられなかったし、地味ではあるがやりがいもきちんと感じられていた。 「たまに、こうして関われるだけでじゅうぶんなんです」 「そうかい。もったいないね。わがままが許されるなら、このまま君をさらってゆきたいくらいだよ。とても、魅力的なカッティングだよ」  エヴァンは視線をビーシュにしっかりとあわせたまま、ルビーに口を寄せ、キスをした。  肩が触れるほど近くに座っているせいか、気恥ずかしさを感じて、ビーシュはエヴァンから視線をはがして、カクテルで口を湿らせた。 (キスされているみたいだなんて、何を考えているんだろう、ぼくは)  欲求不満にもほどがある。  ビーシュは今朝の寒々しさを思い出して、ぎゅっと袖を握った。  ここは、酒と料理を楽しむ普通のバーだ。  いっときの快楽を求めて集まる、いかがわしい場所ではない。なにを、錯覚しているのだろう。  ビーシュは喉を鳴らしてカクテルを飲み込み、ちらっとエヴァンを見やる。  黒曜石のような、深い色の瞳だ。薄暗い中でも感情がありありとわかる、不思議な力強さを持っている。  元は黒い髪だったのだろうか? 体格もがっちりとしていて、実年齢をあやふやにさせている。ビーシュよりは年かさだろうが、老人ともいえない。魅力的な、男性ではある。  異国情緒めいた容姿は、さぞ人目を惹くだろう。もうすでに、素敵なパートナーがいるかもしれない。 「ロナード様も、宝石商で?」 「いいや、ただの金持ちだよ」  何杯目の杯になるのだろう。  アルコールに当てられた様子もない顔のエヴァンが、空になったグラスをカウンターに置くと、すぐさま、レイが新しいものと交換した。 「成り上がりの貴族みたいなものだよ。金鉱脈の採掘を生業としていてね、帝都には息抜きと趣味をかねて来たんだ。帝都は大陸の中心部だからね、様々な品物が集まり、流れてゆく。私は、美しい宝飾品を求めてあちこちをいったりきたりだ」  ルビーの指輪をハンカチ包んで上着にしまい、エヴァンはナッツを摘まんだ。 「私は、こういた細工の良い宝飾のたぐいが好きでね。身につける機会は少ないが、どうしても手元に置きたくなってしかたがない。気に入るとすぐに手を出してしまうから、よく、身の回りの世話をしてくれている秘書に叱られているんだ」  からからと笑う顔は親しみやすく、ビーシュの知る貴族とは、少しばかり様子が違うように思えた。知らず、肩に入っていた力を抜いて、皿に残っていた葉物野菜をむしって口に放り込んだ。  エヴァンは自分を茶化すようにただの金持ちと言ったが、実際は相当の金持ちなのだろう。  貴族と繋がりのあるフィンに話したら、腰を抜かす相手なのかもしれない。  粗相はしていないだろうか、少し不安にもなるが今更だろう。 「スフォンフィール君」  耳元に掛かる吐息が熱く感じるのは、アルコールのせいだろうか。  エヴァンの服にしみこんだ香水とウイスキーの香りが入り交じり、近づく体温に緊張して大きく息を吸い込めば、くらくらと視界が明滅した。  痛いほどに、心臓がはねている。 「び、ビーシュで、いい……です」 「では、私もエヴァンと呼んでくれ」  エヴァンが面白そうに笑うので、どうしたら良いかわからなくなって、レイとルイに助けを求めるが、親子は見て見ぬふりを決め込んだか、黙ってカウンターの奥でグラスを磨いていた。  もしかしたら、二人はエヴァンがどれほどの人物か知っているのかもしれない。  へたに仲介して、機嫌を損ねられたら大変だ。そう、背中に書いてあるような気さえする。 「今夜の私は、とてもついている。幸運の女神が迷わず行動しろと、背中をせっついているようだ」  邪魔が入らないのを良いことに、エヴァンが椅子の背をきしませて左手をビーシュの腰に回してきた。  明らかな目的を感じさせる仕草に、ビーシュは驚いてエヴァンの黒曜石の瞳を見上げた。 「質の良い宝石をあつかうコーエンと運良く出会うことができたうえに、君という逸材を知った。ここか、もしくは『ミョルダ』にいれば会えるだろうと教えてもらってね。待っていたんだよ」 「ぼくは、そのっ」  熱い吐息でエヴァンがそっと口にした『ミョルダ』は、ビーシュがなけなしの金で男を買うバーの名だ。  ほてる頬を隠すこともできないまま、ビーシュは確かめるようにエヴァンを見つめ、気恥ずかしさに再度うつむいた。  どういった店なのか、エヴァンは知っているようだった。ビーシュの腰をなでる左腕は、誘うように、時折、足の合間をなでてくる。  男にも女にも困らなさそうなのに、ずいぶんと変わりもののようだ。  さっきはレイとルイに助けを求めたが、今は彼らが気を回して背を向けてくれているのだとわかった。 「嫌がってくれないと、もっと私は君をもとめてしまうよ?」  誘われると、否とはいえない。  ぼんやりとしていても、心と体は常に人肌を求めて飢えていた。それこそ、誰でも良い。  だから、金を積むのだ。  漏れるため息に混じる熱を、エヴァンは敏感にくみ取とって、さらに体を密着させてくる。  「逸材とか、そんな大げさな言葉は似合いません。ぼくはただの装具技師で、宝石はほんとうに……趣味、なの……で」 「今の仕事に、思い入れがあるのかい? たしかに、人のためになる、重要な仕事ではある。やりがいもあるだろうが――いま、君は満たされているのかな?」  腰を抱いていた手が体の線をなぞり、肩に回される。たいした抵抗もできず、ビーシュはそのまま引き寄せられた。  服ごしに触れる体温に、心音がとくとくと早鐘を打つ。  満たされているのか。  聞かれたところで、ビーシュにはよくわからない。四十二年間の人生で、満たされた経験はただのいちどもない。  装具技師としての仕事は、やりがいがある。普通の医者や軍人と違って扱いは低いが、心を込めた分だけ返ってくるものもある。  レイやルイの好意だって、ビーシュの仕事からつながっている。  捨てろといわれたところで、捨てきれない大事な繋がりだ。  けれど、賢明に働いてはいるが、飢えはつねにビーシュの中にあり続けていた。  だからこそ宝石を磨き、男を買っている。どれも、ビーシュの手がつかんでいられるわずかな糸で、優劣はつけがたい。 「すまないね、困らせるつもりはなかったんだ。もちろん、責めているわけでもないよ。ただ、君の持つ技術があまりにも素敵だったから。私が勝手に、惜しく思っただけだ。君には、君の生き方がある。年若い子でもないんだ、無理に変える必要もない」  少し迷ってから、ビーシュはこくりと頷きかえした。深く入り込みすぎない、絶妙な加減の好意は心地良い。  頭を撫で、うなじで結んだ髪をいじり体を離したエヴァンに、ビーシュはほっと息をついて上着のポケットに片手を突っ込んだ。  つるっとした丸い球体の冷たい感触に、すこしばかり心が落ち着くようなきがした。 「コーエンを探していたようだが、彼に何の用があったのかい? もしかしたら、私が君の力になれるかもしれないよ。彼とは、比較的良好な取引をしていてね。多少の無理なら、口もきけるだろう」 「エヴァン様は、コーエンさんのお客様なんですか?」 「彼とは、何度か取引をしたことがある。宝飾品を買ったり、宝石をやりとりしたりとね。派手な商売はしないが、好感が持てるし、何より信頼できる商人の一人だ。とても貴重な存在だよ」  からん、と氷が溶ける。  あまり口をつけられないでいた橙色のカクテルに、水の層がうっすらとできていた。 「サファイアが……ほしくて」  青い、深く青い石。  手持ちの石も決して質は悪くないが、望むほどの鮮やかさはない。  馬車の停留所で出会った青年を脳裏に思い浮かべ、ビーシュはぎゅっとポケットの中にある義眼を握りしめた。 「でも、よくよく考えてみれば、ぼくの手持ちでは簡単に買えないかもしれないです。コーエンさんはとてもよくしてくれますが、商談となればさすがに別でしょうし」 「……サファイアか」  宝飾を、それこそ趣味で買いあさるほどの財力があるエヴァンからすれば、かわいい悩みなのかもしれない。  ある程度の代物で妥協しても、コーエンから研磨の仕事をいくつか引き受けなければ買えないだろう。 「ちょうど、良い石を持っていると言ったら……どうする?」  悪魔のような、蠱惑的なささやきだった。  エヴァンの目利きは、疑いようがない。価値の低い石を自慢げに出してくる姿はとても想像つかなかったし、わざわざ言い出すくらいだから、とても良い石を持っているのだろう。 「どうするも……たぶん、ぼくには手が届かないでしょう。きっと、美しい石だろうけれど」 「ああ、とても美しいサファイアだよ。一目見れば、きっと君の心を捕らえてしまうだろう」  しきりにポケットを探るビーシュに気づいたエヴァンが、そっと手を差し込んできた。 「見たくはないかい?」耳元をくすぐる声は甘く、あらがえない誘惑に、ビーシュは視線をい泳がせ迷うも、ゆっくりと頷いていた。

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