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第31話

 エーギル・バロウズは、ある意味、率直な人間だ。  やり口が残酷で、ずぼらなだけで、目先の利益に忠実な犬のような男だ。  エヴァンの愛人を浚い、貴族の跡継ぎを浚った。 「俺はついている」と、上機嫌に笑う雇い主に胸中で唾棄して、オリヴァーは同僚たちの目を盗んで廃屋をそっと出た。 「なにが、ついているだ。手を出しちゃあいけない相手に喧嘩を売ったんだ。なんで、わからないんだ?」  美術品や宝飾品を扱うのなら、エヴァンは敵に回すべきではない。オリヴァーにはなぜ、逃げ切れると思っているのかさっぱりわからなかった。 「思ったとおりだ。エーギルの野郎は、もう終わりだ」  暖かな昼の日差しはだいぶ傾いていて、夕暮れの朱に染まりはじめていた。オリヴァーの不安を肯定するように、空気が冷たくなってゆく。 「そもそも、贋作をうりつけて儲けようなんてくだらない商売が、いつまでも成り立つわけがない。潮時だって、何度も言ってやったってのに」  エーギルは、エヴァンに勝った気でいるようだった。  追っ手が掛からないのは、諦めたからだと、不安がる手下に言い聞かせていたが、オリヴァーは少しも信じていなかった。  エヴァン・ロナードは、ただの成金ではない。 「ビーシュ、なんでお前は今になって俺の前に現れたんだ?」  エヴァンの隣で愛撫に顔を赤くしていた男。エーギルの背後で、オリヴァーは唖然とするしかなかった。  ずいぶんと老けてしまっていたが、面影は残っている。向こうは子供だったから覚えていないのだろうが、オリヴァーはしっかりと記憶していた。  若い頃から偽物ばかりを作り、糊口を凌いでいたオリヴァーの、気慰めにたまにつくる本物の品を好きだと笑ってくれた子供。  堕落してゆく心を、何気なく引き揚げてくれた言葉を、今になって再び聞くとは思ってもみなかった。 「……見ているんだろう、来いよ」  オリヴァーは人の気配がない路地を選び、闇雲に進んだ。  探さなくとも、向こうが探し出してくれるだろう。 「エヴァン・ロナード。取引がしたい。俺はオリヴァー、エーギル・バロウズの元で贋作を作っていた作家崩れだ」  路地と路地の暗がりの間。  ふと、人の形に闇が深くなった。 「作家崩れが、ロナード様と取引なんて随分と怖い物知らずだな」  オリヴァーの前に現れたのは、エヴァンのそばに控えていた青年、レスティだった。  向けられる鋭い刃に引けそうになる腰を叱咤し、オリヴァーはレスティではなく、どこかにいるであろうエヴァンに向かって話しかける。 「俺の腕は、あなたの目すらすり抜ける。エーギルが出した指輪を見ただろう? メルビスの作風を踏襲しているが、あれは完全に俺の作品だ」  ビーシュが美しいとつぶやいた、銀とサファイアの指輪。  完全な偽物であり、本物である逸品は、オリヴァーという作家のすべてでもあった。 「俺こそが、死したメルビスの唯一の後継者たる作家だ」 「取引と君は言ったが、何を望み……何を君は提示できるのかね?」  レスティの背後から出てきた長身の男、エヴァンに、オリヴァーは膝をがくがくと震わせながらも、顔だけは不敵な笑みでかえした。姿を見せたということは、脈があると考えて良いはずだ。  ぎらっと輝くナイフのさびには、なりたくない。 「お互いに、望むものを。俺は、あんたを満足させる作品を作れる。メルビスはすでに死んだ作家だ、あなたの財力ならば、近いうちに収集は終わるだろう。業界から引退するつもりなら、俺はただの自意識過剰の馬鹿者で終わるだろうが、そうでないのなら、エヴァン・ロナードの膝元で、歴史に名を残す作家になるだろう」  齢五十を過ぎ、再び作家としてやり直すためには実力以上に権力がいる。名ばかりではない、絶対的な力だけが、オリヴァーには欠けていた。 「遅咲きにもほどがある。が、面白い」  肯定の意か、否定の意か。エヴァンは楽しげに喉で笑った。  贋作師のオリヴァーがいないのは、いつものことだ。切れ端程度に残った無駄な正義感が、燻っているのだろう。熱を冷ますには、寒空は丁度良いのかもしれない。  エーギルは空腹をごまかすために酒を煽り、エヴァンが囲っていた男、ビーシュを閉じ込めてある寝室のドアを蹴った。 「さっそくやるんですか、頭ぁ」  茶化す声に中指を立て、エーギルはドアを乱暴に閉めた。  脅えた様子のビーシュの姿に、どうしてこんな冴えない男をエヴァンは好んで飼っていたのだろうかと不思議になる。 「まあ、いい。入れる穴がありゃ、なんだっていいさ」  帝都から逃亡するのならば、行動は早いほうが良いとはわかっているが、とにもかくにも腹が立っていた。  最初、首飾りをエヴァンに売りつけたときは確かに上手くいっていたのだ。エヴァンは完全に贋作を、本物と思い込んでいた。  首飾りは野党のまねごとで手に入れたわけではなく、帝都の裏競売場で手に入れたものだ。エヴァンのコレクションに入らなかったものだからこそ、騙せたのかもしれないが。 「今思えば、あの首飾りと競り合っていた相手、ロナードだったのかもしれないな」  エヴァンが見せる、メルビスの宝飾品への執念は、エーギルもぞっとするところがあるが、莫大な資産をもてあますほどに所有している富豪は、話にきいていたとおりの上客だった。  搾り取れるだけ、搾り取ってやろうと画策していただけに、失敗は痛手だ。おまけに、派手に暴れた以上、帝都で商売はできないだろう。  エーギルは最後の一滴まで酒を飲み干し、空になった酒瓶を放り投げた。ごろごろと、重たい音をたてて、ビーシュの足下で止まる。 「おまえが、ロナードに余計なことを吹き込んだせいで、ぜんぶ台無しになっちまった」 「言いがかりにもほどがあるだろう!」  言い返してきたのはビーシュではなく、ニルフだった。きつく両手を縛ってあるので、身じろぐたび、痛みに顔をゆがめている。  なんの苦労も知らないような綺麗な顔には、焦りからか大粒の脂汗が滲んでいた。  エーギルはいい気味だと鼻で笑い、不安げに眉をひそめているビーシュに向き直る。  性的な快楽を楽しむなら、女のほうが好みだ。たまに男で遊ぶこともあるが、買うのは見目の良い少年だ。 「こんな、とうのたった男のどこがいいんだかな。金持ちの頭の中は、理解できそうにない」  驚くような美形なら、まだわからなくもないが。エーギルは思いつく限りの悪態を吐きながら、ビーシュのうなじに手を伸ばした。 「……っん!」  びくっと震え、恐怖からか嫌悪感からか顔を逸らしたビーシュの、襟の隙間から覗く白い肌にエーギルは不覚にも喉を鳴らした。  体を小さく丸め、唇を強く噛んで耐える哀れな姿。  ぎゅと閉じられた目の、眦に浮かび上がる朱色。ふと、果実のような甘い匂いが漂う錯覚に、エーギルは唇を舌で湿らせた。  激しく遊ばれただろう肌に残る情事の跡は、女の赤い唇よりもなおなまめかしい。 「脱げ」  不意を突いて出たようなエーギルの言葉に、ビーシュは「えっ」と、惚けた顔で見返していた。 「遊んでやると言っているんだ」  まだ日は高いが、寝室は薄暗い。  酒の勢いもあって、エーギルの雄は緩く反応を示していた。わざとらしく腰を振ると、ビーシュは嫌々と首を振った。 「悪党のうえに変態か! ずいぶんな人間だな!」 「そういや、もう一人いたなぁ。……そうだな、アーカム家の坊やを助けたければ、俺に奉仕してくれよ」 「ぼくが、言うことをきけば、ニルフ君を解放してくれるんですか?」  いまにも泣き出しそうな、しかし、あと一歩で耐えるビーシュの顔に、どうしようもなく嗜虐心を刺激される。エーギルは己の逸物が濡れる感触に、腰をゆるく振った。 「ビーシュさん、しっかりしてください。言うことを素直にきいたところで、反故にされるのは目に見えているでしょう? やめてください!」 「疑ってくれたって、べつに構わないぜぇ。俺が苛つくだけだもんなぁ!」  エーギルは放り投げた酒瓶を拾い上げ、ニルフへと無造作にほうり投げた。 「やめて!」  酒瓶はニルフの頭を穿ち、床に落ちて砕けた。  あまり勢いはついていなかったように思えたが、衝撃で倒れたニルフはうめき声を上げていた。 「そうだな、小僧の言うとおりいくら約束したところで破ってやるが。大人しくしていれば、怪我はしない。痛い思いはしたくないだろう?」  反論するまもなく、大きな手で顎を掴まれ上向かされたビーシュは、こくこくと小刻みに頷いた。  陵辱への恐怖が無いといえば嘘になるが、それ以上に、誰かに危害を加えられる恐怖が勝っていた。 「そうだ、良い子にしていれば、俺だってかわいがってやろうって気持ちになれるんだ」  酔いと興奮と欲求に、エーギルの目はぎらぎらと煮えている。ビーシュを拘束している背広をはぎ取り、「脱げ」と、再び命じた。  ビーシュの視界の端には、倒れたまま動けないでいるニルフがいる。 (聞かない振りを、していてくれるといいのだけど)  ビーシュはシャツのボタンに指をかけた。恐怖と怒りに震えていて、うまく外せない。  エーギルの気を逆立てやしないかとひやひやしたが、満足そうに笑っているのを見て、ほっとする。 「ふっ……ん、ひっ」  はだけた胸元から、乾いた手が潜り込んでくる。遠慮のかけらもなく、思うがまま探るエーギルから、感嘆の吐息があがる。 「なるほど、こりゃあ思っていたよりもいい」  ズボンを押し上げている欲の塊が、ビーシュの膝を撫でた。 「どうやって、慰めてもらうかなぁ」  顎をつかんでいた指が頬を撫で、噛みしめ続けたせいで赤くなった唇をそろりとなぞる。 「おさまりが悪いのであれば、切り落としてしまえばよろしいでしょう」  凜とした女声が、ビーシュの耳を打つ。 「この私が、すっきりさせてあげましょうか?」  エーギルの背後に立ち、にっこりと微笑んでみせたサティの放つ鋭い一撃が骨を砕く。  徒手空拳。  握られた拳は鉄よりも固く、ナイフよりも鋭い。 「大丈夫ですね、先生」  どさ、っと派手な音を立ててくずおれたエーギルだが、扉を開けて、仲間が助けに入ってくるような気配はない。 「ご心配いりません、すでに私どもで処理をしてありますので」 「たすけに、来てくれたの?」  喉を締め付けられていたせいで咳き込むビーシュの背中をさすり、サティは「エヴァン様のお言葉を伝えに」とこたえた。 「エーギル・バロウズに奪われた品々は、協力者のおかげですでに回収し、ロナード様は帝都をお出になりました」  サティは床に落ちていた背広をつかい、念のためにと倒れたエーギルを拘束した。 「伝言です、先生。ロナード様といらっしゃるのならば、私と共においでください」  男を一撃で伸したとは思えない小さな手が、差し出される。 「エヴァン様は、意外と諦めがお悪い人なんだね」 「情熱的と、言っていただきたいです」  サティは初めて表情を崩して、手を引っ込めた。 「心を賭して口を賭して、日々の行いのなかで、望むものは生まれ出でてくる」  大勢の足音が、聞こえてくる。  一歩、二歩と、ビーシュを見つめたまま後退するサティは、年相応のくったくない笑顔で手を振った。 「私の愛した言葉を、餞別に。先生。どうかあなたも幸せになって」  波が押し寄せるように、ドアを蹴破って入ってきたのは憲兵たちだった。 「こいつ! こいつよ!」  響く女性の声に、憲兵たちの険しい目が床に倒れているエーギルに向けられ、衣服のはだけたビーシュに移動する。 「君が、やったのかね」 「え? いや……ぼくでは……」  彼女です、と言おうにもすでにサティの姿はない。 「ニルフ! あなた、生きてる?」  気絶し、縛られたエーギルを引きずり出してゆく憲兵と入れ替わるように、女性が飛び込んできた。 「姉さん、よかった。無事に逃げられたんですね。怪我はないみたいで。今や、顔だけが取り柄みたいなものなんですから、お転婆もほどほどに……」 「あなたは、跡取りなのだから無謀もほどほどにしておくのね」  ぎゅっと、ニルフを抱きしめる女性は碧眼をべしょべしょに濡らしていた。綺麗な顔も、ふやけて台無しになっている。 (あの人、もしかしてレオくんが婚約していた……エリスさん?)  ニルフの心配で余裕がないのか、エリスはじっと見つめるビーシュに気付いていないようだった。 「五体満足で送り出せば、きっと、助け出す算段をしてくれるとわかっていたから、無謀とはちがいますよ」 「馬鹿っ!」  酒瓶で頭を切ったのか、頬を血で染めてはいるが、ニルフはしっかりとした手つきでエリスを慰めるよう抱きしめた。 「――ビーシュ」  振り返るよりも先に、覆い被さってくる暖かい感触に途方もない懐かしさを感じ、ビーシュは大きく息をついた。安堵感に、気が遠くなりそうだ。 「れおくん、どうしてここに?」 「探していたんだよ」  まだ、一日も離れていないのに、何年も会っていないような気がする。  ビーシュはレオンハルトの肩口に顔を埋め、胸をかきむしりたくなるほどの愛おしさに、嗚咽を零した。  いつの間に、レオンハルトはこんなにも愛おしい存在になっていたのだろう。  抱きしめ合い。  指をからめ、額をふれあわせる。  周りに誰がいようと、気にする余裕はなかった。体の全部で、互いを感じていたかった。 「……れおくん、生まれた気がするんだ」  驚いた顔を見せるレオンハルトに、ビーシュは久しぶりに声に出して笑った。 「ぼくの、幸せが、いま……生まれたよ」

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