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第32話
開いた窓から吹き込んでくる風は、春の兆しに甘く薫っている。
冬空が残る穏やかな午前中、もう少しすれば、賑やかな昼になる。そんな、ゆったりとした時刻。
ビーシュは蛇口をひねって水を止め、狭い部屋を満たしてゆく風に、肺をいっぱいに膨らませた。
大きな窓に掛かっている新しい青いカーテンのように、気持ちがゆるりゆるりと翻る。特に何もしていないのに、どうして胸が弾んでいるのだろう。ビーシュは口の端を持ち上げ、鼻歌をうたった。
いつもと変わらない季節の始まりは、今までよりもずっと、甘い気がする。風を追うように、ビーシュは様変わりした自宅をぐるりと見回した。
古びて革の裂けていたソファーは、二人掛けの白いものに。
黒ずんでいた壁紙も新しく貼り直し、床に敷いた絨毯は目に優しい暖色系を。走っても足音のしない毛足の長さは、ふかふかで気持ちがいい。
「あまりにも気持ちよくて、床で寝ていたらレオくんに笑われちゃったね」
キッチンに置かれた小さな植木鉢から伸びる若葉に語りかけた。
エフレムから譲り受けたサイフォンを設置して、レクト珈琲店で買ったおすすめの豆が入った袋を引き寄せる。
新しく封を切ると、芳しい豆の匂いが春の風に混ざった。
餞別に、と。連れ込み宿の店主から貰ったミルで豆を挽きながら、ビーシュは狭い部屋の大部分を占める大きなベッドを見やり、頬を熱くさせて俯いた。
レオンハルトと出会ってからずっと、毎日のように抱き合っている気がする。許す時間の限りに触れあい、言葉を交わしている。目を閉じれば、囁く声が響いてくるほどに。
気恥ずかしさを紛らわそうとビーシュは瞬きを多くして、ロートに挽いた珈琲を入れ、棚からカップを取り出した。
矢車草の絵が描かれたものだ。ちゃんと皿も出して、レオンハルトからもらった銀のスプーンを置く。
レオンハルト用の砂糖壺は、二人用のちいさなテーブルの上に置いてある。ビーシュは熱せられたフラスコの沸騰音に一旦ランプの火を消し、窓へ視線を向けた。
「ぼくの家じゃないみたいだ」
相変わらず寝るためだけの部屋ではあるが、家具の全てを新しくすると、生活感が生まれてくるから不思議だ。心なしか、食べる量も増えたような気がする。
「どうしてかな、レオくんの匂いがするような気がする。昨日は、ニルフ君の結婚式にでるための準備で忙しかったから、会えなかったのに」
ふとした瞬間に、目がレオンハルトの姿を探している。気付く度に「どうしようもないな」と苦笑して額を叩くが、治る気配はない
部屋の内装は、全てレオンハルトが決めた。
だからか、自宅にいるとすっぽりと腕の中にいるような安堵感を覚え、何度も何度もレオンハルトを探してしまうのだろう。名を呼べば、ひょっこり現れるような気さえする。
(ずっと、頭の中がレオくんでいっぱいだ)
いつか別れる不安に嘆く暇などないくらい、レオンハルトと送る日々の生活は、ビーシュを心の底から満たしてくれていた。
満ち足りているからこそ、吹き込んでくる風も特別に甘いのだろう。
ビーシュは生まれて初めて、優しい春の季節をたっぷりと感じていた。
「お父さん、ぼくは幸せだよ」
ビーシュはポケットから、サファイアの宝石義眼を取り出した。
手元に、唯一残した宝石義眼の美しい矢車菊の青色に、何度も何度もくちづけを落とす。
愛おしくて、満ち足りているのに……足りない。
想いを言葉では表しきれず、体ではもどかしい。
時間は短くて、すぐに日が変わる。
めまぐるしい日々の中で、どうやれば、感じているもの全てを伝えられるのか、ビーシュにはまだわからない。
「レオくん」
――かつん。
階段を跳ねる靴音に、ビーシュは顔をあげた。
真っ直ぐに近づいてくる、軽快な足音。
玄関に駆け寄ろうとしたビーシュがドアノブに手を掛けるよりもずっと先に、ドアが勢いよく開き、レオンハルトが飛び込んでくる。
「やあ、ビーシュ」
鍔のある軍帽を被った礼服姿のレオンハルトが、珍しく息を急ききって肩を大きく揺らしてる。手には、白い花弁の薔薇でそろえた花束があった。
「レオくん、どうしたの? 今日はニルフ君の結婚式でしょう?」
壁に掛けたばかりの時計を見やる。時刻はまだ、正午にもなっていない。
「うん。でもね、どうしてもビーシュに会いたくて抜けてきたよ」
「ニルフ君に怒られるよ?」
レオンハルトは「後で謝るよ」と苦笑して、花束をビーシュに差し出した。
染みの一つもない瑞々しい白薔薇を、赤いリボンで結んでまとめた、簡素であるが美しい花束だった。花嫁のブーケを連想させて、ビーシュはぎゅっと両手で花束を握った。
「新郎新婦を見ていたら、とても幸せな気持ちになってきてね。ビーシュに会いたくて会いたくて、たまらなくなったんだ」
レオンハルトらしいとんでもなく身も蓋もない惚気に、ビーシュは頬を赤く染めて「ぼくも会いたかったよ」とつぶやく。満足そうに笑う顔を見て、さらに恥ずかしくなる。
「お花、綺麗だね」
白薔薇は、温室で育てられたものだろう。ガラス細工のような薄い花弁が幾重にも重なっていて、雪のように美しい。
「ビーシュ、左手をだして」
どうして? と問うより先に、レオンハルトが花束を握る左手をそっと手にとって引き寄せた。
なすがまま、一日ぶりの肌の温度を味わいながらぼんやり見ていてると、レオンハルトは軍服のポケットから小さな箱を取り出し、片手でパチンと金具を外して蓋を開けた。
「これを、ビーシュにあげたくて」
箱の中にあったのは、銀の指輪だった。
美しく磨き上げられた銀が柔らかく包むサファイアの輝きは美しく、胸が締め付けられるような愛おしさがさらに煽られる。
「気に入ってくれたね? よかった」
レオンハルトは「うん、うん」と頷いてビーシュの手を一旦離して、指輪を箱から取り出した。
「真似事だけど、永遠を誓いたくてね」
そっと左手をとったレオンハルトはサファイアにくちづけをして、ビーシュの薬指に嵌めた。
白い肌をやんわりと締め付ける指輪に、ビーシュは眦が熱く緩んでゆくのを感じていた。
「……れおくんの指輪は? 結婚式は、指輪を交換するんでしょ」
零れてくる涙を拭いながら問うと、レオンハルトは目を瞬いて笑った。
「ビーシュのことしか考えてなくて、忘れていたよ」
指輪を嵌めた左手の甲にキスをするレオンハルトに、ビーシュも声を上げて笑った。
「待っていて、れおくん」
ビーシュはレオンハルトの頬を撫で、持っていた花束をテーブルの上に置いた。
しゅるっと、赤いリボンを引き抜いて振り返ると、意図を察したレオンハルトが左手を差し出してくれた。
「あとで、れおくんの指輪も買おうね」
レオンハルトの左手の薬指にリボンを巻き付け、蝶々結びにする。ほどけてしまわないように、ぎゅっと結んだ。
「運命の赤い糸みたいだね。とても、可愛いな」
春の風にリボンの輪っかを揺らし、レオンハルトはビーシュの頬を撫でた。
視線が絡み合い、自然と唇が引き寄せられる。
戯れるよう何度も触れあい、ぴったりと体をくっつけ、深く深く繋がってゆく。
春の訪れは、もうすぐそこまで。
今までとはまるで違う世界に戸惑っても、しっかりと抱きしめてくれる手があれば大丈夫だ。
ビーシュは体の全てでレオンハルトを感じながら、涸れそうだった心を満たす喜びの涙をこぼし続けた。
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