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第8話

軽くシャワーを浴びて、肩まで風呂に浸かる。 目を閉じても男の目が残像のように残って、頭の中でぐるぐる回っている。 少し熱めの風呂に肩まで浸かっていると、先ほどまでの下腹に溜まった感覚も徐々に薄れてくる。 ただ単に全身が熱すぎて、どこが熱いのかも分からなくなったのかもしれない。 シャンプーの爽やかなシトラス系の香りと、入浴剤の少し甘めのミルクの香り。 サボカフェで飲んだミルクの隠し味を考えていると、急に意識が遠くなった。 「大丈夫か?」 男の声で薄く目を開けると、白い天井が靄のかかったようにぼんやりと見える。 起き上がろうとしたが、全身が痺れたように重くて動かない。 頭の中もぐるぐるしていて、頭痛がひどい。 「ったく、酔っぱらいのくせに長湯してんじゃねえよ。」 男はそう文句をこぼしながらも、額にひんやりとした感触がある。 気持ちがよくて目を閉じると、唇に何がが当たった。 それと同時に苦手なタバコの香りがして顔を背けると、優しく髪を梳かれた。 冷たい水が喉を通り抜け、がんがんと響く頭痛が少し和らぐ。 タバコの香りと髪を梳く指の感触から、サボさんを思い出した。 くせ毛の髪と目じりの皺、ごつごつとした指の節。 サボカフェでよく流れている『Up, Up And Away』が頭の中で流れ始める。 そのキレイな旋律を思い出しながら、空を飛んでいる夢を見た。 空を縦横無尽に動き回る鳥たち。 俺の天敵である鳥だが、俺も本当は鳥になりたかったのかもしれない。 世界を俯瞰しながら飛び回っていると、砂羽を見つけた。 周りの人たちは黒い影のように霞んでいるのに、砂羽だけがこの世界で輝いて見える。 俺の視界は砂羽に焦点が合っていて、それ以外は霞んで見える。 背景なんて見えていなくて、俺はいつもまっすぐに砂羽だけを見てきた。 このまま、ずっと……見続けていたい。 そう願っていると、俺と同じように飛んでいたキレイな鳥が、砂羽の肩に降りた。 砂羽はその鳥を愛おしそうに見つめていて、俺はその様子をただ見ていた。 鳥になっても俺の立場は前と変わらない。 地べたを這う虫でいた時よりも、惨めに思えた。 鳥と同じ立場になっても、きっと俺は変わらない。 それがなんだかものすごく悲しくて、涙が溢れる。 いつの間にか、鳥だったはずの俺は地上にいた。 ふと見上げると、砂羽の肩に止まっていたはずの鳥は砂羽の彼女に姿を変えていた。 2人仲睦まじそうに寄り添いながら、手を繋いでいる。 俺はその2人を見上げながら、虫に姿を変える。 その瞬間、俺は目を覚ました。 こめかみが、がんがんする。 妙にタバコくさい気がするが、それよりも…… がばっと身体を起こすと、俺はばかでかいベッドに一人で寝ていた。 「ここ、どこだ?」 意味が分からずベッドをおりると、部屋には壁一面に見慣れない小難しそうな本がずらずらっと並んでいる。 それを横目で見つめながら扉を開けると、ソファに長身の男が身体を丸めて眠っていた。 長い足はソファから豪快にはみ出ていて、寝心地が悪そうに何度も寝返りをうっている。 「……誰?」 至近距離でその寝顔を見つめてみても、ピンとくる顔ではない。 携帯を探したがなぜか見当たらず、男も爆睡中で起きそうもない。 仕方なく洗面所で顔を洗ったが、まだ二日酔いで酒が残っている。 洗濯機の上に置きっぱなしになっていた自分の服を身に着け、ひどい跳ね方をする髪の毛もついでに直す。 頭もがんがん響いているし、胃の辺りがムカムカするし、なんか目も赤いし腫れてるし……。 ――今日は砂羽とデートの日なのに……コンディション最悪。 昨日の記憶はほとんど残ってないが、それだけはしっかりと覚えている。 そこで初めて時間を確認するためにテレビをつけると、時刻は7時少し前。 今日は大学が2限からだから余裕で間に合うが、ここがどこなのかすら理解していない。 サボカフェに行ってから新宿で飲んだはずで、確か新しい店に行ったはず……だが、店の名前すら記憶にない。 キレイな男と飲んでいたはずが、ソファで眠っている男は見覚えがない。 切れ長の瞳をじっと見つめていると、男が薄く目を開けた。 「今、何時だ?」 掠れた声が妙に色っぽく、乱れたシャツの隙間から筋肉質の身体がのぞく。 俺の視線が緩められたベルトの隙間へと向かうと、ふっと軽く笑われた。 気まずく思いながらテレビに視線を向けて、男のほうは見ずに答える。 「え……っと、今は7時前っすけど。」 「寝れたか?」 「ええ、まあ。なんか、すんません。」 でかいベッドをひとりで占領してしまったようで、男は起き上がるとこきこきと首を鳴らしながら大きく伸びをした。 「別に、一緒に寝てもよかったのに。」 俺がそう漏らすと、男が眉間に皺を寄せる。 テーブルに出しっぱなしのミネラルウォーターを一気飲みして一息つくと、男は俺を睨みながらため息をつく。 「寝れるわけねえだろ。」 男はタバコをくわえて火をつけると、疲れた様子で腰を下ろす。 「寝相、悪かったっすか?」 「そういうんじゃなくて……。」 「あんま相性よくなかった……とか?」 俺の言葉に男が目を見開いて、鋭い眼光で俺を睨む。 「覚えてねえのか?」 「何が?」 俺がそう言うと、男は大きなため息をついた。 何か思案しているのか無言で1本吸い終えると、灰皿にタバコを押し付けながら立ち上がった。 「覚えてないならいい。時間は?」 「え?」 「大学どこ?」 「徳明大っすけど。」 よっぽど深い仲でなければ個人情報は話さないが、急に話題を振られて素直に答えてしまった。 面倒くさい人じゃなければいいな……と思いながら、男をちらりと見上げる。 「最寄りは?」 「……新百合ヶ丘。」 「ここからなら、30分もあれば着くな。」 「あ、2限からなんで余裕っす。」 「そっか。」 男はまだ覚醒していないのか、重そうな瞼を何度も瞬きしながら関節をぐるぐる回している。 机の上にあった携帯を弄り始める男を見つめてから、自分の携帯が行方不明になっていることを思い出した。 「あの~……。」 「あ?」 「俺の携帯、知ってます?」 男はちらりとこちらを見つめたが、すぐに携帯に視線を落としてしまう。 「なんで?」 「いや、なくしたみたいで。」 「ふーん……。」 自分には関係ないことだからか、興味なさそうに適当に返事をしながらもう1本タバコを口にくわえる。 男の横顔を見つめながら、徐々に視線が下降する。 緩められたベルトの隙間から、男の股間が膨らんでいる。 通常サイズでも結構なボリュームの男のものを想像して、急に自分の尻が心配になった。 ――中、切れてねえよな……。 「どこ見てんだ?」 男は訝し気な目で俺を睨みながら、低声でそう尋ねた。 「いや、でかそうだと思って。」 素直にそう言うと、男が思い切り噴き出した。 声を出して思いきり笑う男に、先ほどの真顔とのギャップが大き過ぎて目がちかちかする。 「んな笑わなくていいじゃん。」 「そんなに気になるなら、もっと脱いでやろうか?」 馬鹿にしたように言われて男を睨むと、男は恥らいもなくその場でボタンを外しはじめた。 視線をそらすのもなんだか負けた気がして、その様子をじっと見つめていると……脱いだシャツを頭から被せられた。 「変態。」 形のいい薄めの唇が動くのが妙にエロチックで、男の視線に炙られて身体が熱くなる。 シャツから香る男のにおいに包まれていると、抱かれた時のような高揚感があった。 均等に筋肉のついた無駄のない身体を眺めていると、男は薄く笑いながらさっさとTシャツを身に着ける。 「なにも覚えてねえんだろ?サービスしてやったのに。」 からかうように笑う男を見つめながら、結構いい男に抱かれたんだと記憶のない自分を惜しく思う。 「……すいません。」 「もう一回試してやろうか?」 そう言って間近で微笑まれて、俺は身体を硬くした。 視線を浴びているだけでイきそうな程、男の瞳は熱を秘めている。 顔は端正なのに、鋭すぎる眼光があくの強い印象を与えた。 見透かすような視線で見つめられるだけで心臓は飛び出そうなくらい高鳴って、妙な冷汗まで流れる。 こんな男に素面で抱かれたら、絶対身が持たない。 「え、いや~……気持ち悪いし、頭痛もあれだし。」 そう言ってやんわり断りを入れると、俺の腹がけたたましい音を鳴らした。 「はっははっははっはは。苦し。」 「笑いすぎ。」 しばらく間をあけて、男が勢いよく噴き出した。 目尻に涙を浮かべながら笑う男に、俺は白けた目を向ける。 「腹の音やべえ。色気ねえ。」 ぶつぶつと小声でそうぼやきながら、肩を震わせて笑っている。 硬骨そうな見た目に反して、笑うツボは随分と浅い。 「……腹、減ったんすよ。」 「ひょろひょろのくせに?」 「自分だって細いじゃん。」 「お前みたいに鶏ガラじゃねえよ。」 確かに、鍛えることもない俺の身体は凹凸がほとんどない。 「飯、食うか。」 ようやく笑いが止まったようで、男は湿らせた目尻を指で拭う。 少し潤んだ瞳も艶っぽく、無駄に色気を垂れ流す男にそっぽを向いた。 「作ってくれるんすか?」 「水と酒しかねえよ。食いに行くぞ。」 「え、あ……はい。」 男に促され外に出ると、綺麗な青空が広がっていた。

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