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第9話

男に促されるまま、エレベーターで地下に向かう。 エレベーターは無駄に広く、天井には雲が浮かんでいる。 無駄に高そうなマンションだと思いながら男を見上げると、流し目を送られた。 たったそれだけのことなのに、男の視線は夏の陽射しのように強烈で尻込みしてしまう。 ――なんか、この人苦手だ。 閉鎖空間で2人でいると、息苦しさすら覚える。 こんな男とよく寝たものだと酒の怖さを思い知った。 地下1階は駐輪場だった。 俺でも分かる高級車が所狭しと並んでいて、その前をさっさと通り過ぎ、バイク置き場へとたどり着いた。 「ほら。」 黒のハーレーの前で、男にヘルメットを投げられた。 バイクなんて乗ったこともないし、乗れる気がしない。 戸惑いながらヘルメットを弄っていると、男にバコっと被せられた。 「歩くのだるいから。」 「……でか。」 「乗ったことは?」 「ないっす。」 「サイドスタンド外してるし、問題ねえよ。」 男は対して気にした様子もなく、ヘルメットを被ってハーレーに跨る。 それが雑誌に出てくるモデルのように様になっていて、逆に癪に触った。 俺はもともと車やバイクには興味がなく、物欲もほとんどない。 バイトの金は飲み代とホテル代に消えていて、そんな余裕がないというのが本音。 ――こんな高そうなの、誰に買って貰ったんだ? いいパパでもいるのかと男を見つめると、顎で「さっさと乗れ」と促された。 渋々男の後ろに跨ると、車体が沈むように揺れて男の腰に慌ててしがみつく。 男はしっかり両足の踵がついているにも関わらず、俺はつま先がかろうじてつく程度。 足の長さの違いに辟易していると、男が俺の手の位置を腹の前になおす。 ぎゅっとしがみついているのはなんだか恥ずかしいが、妙な浮遊感と頼りなさに身体が強ばる。 「寝ぼけて振り落とされんなよ。」 男はそう告げると、ゆっくりと発進した。 地下から地上へと出ると、空の青さが目にしみる。 何度も瞬きをしていると、頬に気持ちの良い風がふわりとあたった。 陽射しは徐々に強くなってきたが、風が襟元をくすぐりながら心地よさを運んでくれる。 少しずつスピードが上がると、空の青さに似合わない風が頬を叩く。 Tシャツの背中を大きく膨らませ、夏の太陽が顔を出す季節に肌寒さを覚えた。 男の背中は思っていたよりも広く頑丈で、先ほどまで頼りなさを感じていたのが嘘みたいだ。 シートにどっしりと身体を預けていると、バイクに乗っているとは思えないほど安定感がある。 一言で言うと、乗り心地は最高だった。 車に乗っている時とはまったく違う、風を切る体感が堪らない。 自転車で立ち漕ぎしている時の爽快感とは段違いの気持ちよさ。 ――俺も、バイク欲しいかも……。 単純にそんなことを思いながら、男の広い背中に身を委ねた。 *** 「で、何食う?」 「俺の話、聞いてます?」 俺がさっきから質問攻めしているのに、男はそれをひとつも答えてくれる気はない。 なんであんな高そうなマンションで暮らしているのか、あのバイクはどうしたのか、そもそもどの店で知り合ったのか……何を聞いてもはぐらかされ、空気と会話しているかのように張り合いがない。 男に連れてこられたのは、オープンカフェが併設されているおしゃれなカフェだった。 絶対に男2人で入るような店には思えなかったが、男は人目など気にした様子もなく、通行人に丸見えの席に腰を落ち着けた。 俺は少し気後れしながらも、男の向かいの席に浅く腰をかける。 「腹減ってたんじゃねえのかよ?」 「それより、気になることがいろいろあるんです。俺もバイク欲しいなぁ……。」 「俺はお前の腹の音がすげえ気になるけど?」 意地の悪い笑みを浮かべながら俺を見つめている。 今まで、男の顔を真正面からちゃんと見たことがなかった気がする。 視線の鋭さに物怖じして、なかなか見つめ返すことが出来なかったから。 男の色気が垂れ流しになっていて、視線だけで落とせるほど魅力的な瞳だった。 しかし、逆にそれが端正な顔からは悪目立ちし、好き嫌いがはっきり別れる顔であるとも言える。 砂羽のように万人受けする顔というよりも、熱烈なファンを生み出しそうなインパクトのある顔だ。 無表情だと不機嫌そうに見え、柔和さや寛容さは微塵も感じない。 いい意味でも悪い意味でも目立つこの男を何度見ても、あの界隈で見かけたことはない。 あそこには高校時代から通っているし、顔見知りも多いあの場所でこんなオーラを放つ男がいたら目立つに決まっている。 ゲイ友達からもこの男の情報を耳にしたことはなく、俺の知らない顔がまだまだ眠っているんだと再認識した。 さすが、カオスの街。 ――そういえば、昨日のキレイな男……名前はなんて言ったっけ? 頭を撫でる細い指先、柔らかな笑顔。 砂羽に似た栗色の髪の毛や華奢な肩。 そして、首筋には愛された痕。 細部はなんとなく思い出せたが、男の全体像は白い靄がかかったかのようにかすれている。 男の優しい笑顔を思い浮かべていると、男に唇をつままれた。 無理やり現実に戻されて焦点を男に戻すと、刺すような視線で俺を見つめている。 やましいことは特にないが、なんだか胃がせりあがるような焦りを感じた。 「何、考えてた?」 「いや、別に……。」 俺は曖昧に濁しながらも、機嫌が急降下する男に理解が追いつかない。 世間話で場を和ませようと話題を探していると、この男の名前すら覚えていないことを思い出した。 「ってゆーか、名前!」 「あ?」 不機嫌そうにメニューを睨んでいた男と視線が合い、俺は引き攣った愛想笑いで男を見つめ返した。 「ええと、何て呼べばいいっすか?」 「なんでもいい。」 「なんでもいいって言われても……。」 「じゃあ、俺はヒナって呼ぶから。」 男は口元に笑みを浮かべながら、そう宣言してきた。 ヒナっていう愛称は、砂羽しか呼ばない特別な呼び方。 小鳥の雛を連想させるこの呼び方は他の人間に呼ばれるのは好きではないが、砂羽に呼ばれるのは大好きだった。 愛着すら感じるその暖かな響きは、砂羽の柔らかな声色でのみ許すことができる。 男が呼ぶ俺の名前は、砂羽が呼ぶ俺の名前とは同じ響きとは思えないほど印象が異なる。 「お前、ひなたっていうんだろ?」 昨日の記憶はほとんどなく、俺がどこまで話したのかも分からない。 あの界隈では、本名で呼び合うことはほとんどない。 通称で呼び合うことが多いせいか、素性をまったく知らない人とも連絡先だけは知っているということもよくある。 俺の通称は『ひゅう』だった。 いくら酔っぱらっていたとはいえ、自分の名前まで話したことが信じられない。 昨日の俺は、どうかしてた。 「で、何にする?」 少し違和感をもちながらも、男に促されるままメニューに視線を落とした。 「ええと、このBセット。」 俺が決めると、男は手を上げて店員を呼んだ。 「コーヒーとBセット。」 それだけ注文すると、女の店員が満面の笑みで頭を下げて戻っていく。 俺にではなく男に向けての飛び切りのスマイルを、男は視線を交わすこともなく携帯を見つめていた。 釣れないにも程がある。 ――もう少し、優しくしてやればいいのに……。 お節介にそう思いながらも、男にそんなことを言える程の仲でもない。 「それだけ?」 「お前とお揃いがいいって?バカップルかよ。」 吐き出すようにそう言いながら、男が口端だけそっと微笑む。 「いやいや、何も食わないんすか?」 「朝は食わない。」 「じゃあ、なんで?」 バイクで走ること約10分の距離とはいえ、わざわざ俺のために連れてきてくれたことが意外だ。 優しさの欠片すら感じない男なだけに、その行動が信じられない。 「やさしいとこもあるんすね。」 「お前の腹がぐーぐーうるさくて安眠出来ない。」 「……すんません。」 前言撤回。 こいつは見た目通りの男だ。 「あの~……。」 「何?」 「何してる人なんですか?」 「学生。」 学生……その言葉がこんなにも似合わない男に初めて会った。 老けているとかではなく、大人の匂いがした。 学生特有の緩さとか甘さは、まったく感じない。 大人の余裕というかスレれているというか、社会人と学生の間にある溝のようなものを感じていた。 「大学院とか?」 「そんな老けてねえし。」 「老けてるっていうか、俺より大人びて見えます。」 「お前がチビだから?」 「俺は大器晩成型なんです。」 俺がそう言うと、男がふっと息を漏らした。 「お前とタメ。」 「大学2年?」 「そう。」 「どこ大っすか?」 「秀智大。」 「へえ。頭いいんすね?」 ちょうど店員が運んできたコーヒーを顔色ひとつ変えることもなく、上品に口にする。 先程と同じように微笑む店員に対して、1度も視線も交わすことはない。 なんだか不憫に思いながら店員を見上げると、俺には苦笑いをして立ち去った。 「お前のほうが頭いいだろ。」 「え?」 俺が驚きながら男を見ると、試すような目で見つめられた。 「あいつもいるのか?」 「あいつ?」 ようやく到着したBセットのサラダを、大きな口で頬張る。 ドレッシングは食べたことのない味だったが、見たこともないおしゃれな野菜と相性がよく、かなりうまい。 複雑な味わいだったが、野菜の苦みを上手く生かしていて、一体何のドレッシングだろうかとメニューを見直していると…… 男が予想外の人物の名前を口にした。 「片岡 砂羽。」 「砂羽と……知り合い?」 「まあな。」 含みのある笑みを浮かべてそう言うと、俺の口端についたドレッシングを指で拭う。 人前で自然にそんなことを出来る男を、アホみたいに目を丸くして見つめる。 ――こいつ、絶対慣れてやがる。 「砂羽の友達……か。」 ――いや、それ……かなりまずくないか? 「まじ?」 「ああ。」 男は笑みを浮かべながら、楽しそうに俺を観察している。 頭の中を見透かす眼がやはりどうにも慣れず、俺はフォークの先を見つめた。 ――砂羽に知られたらどうしよう。 頭の中はもうぐちゃぐちゃで、男には俺の焦りはバレバレだったと思う。 でも、そんなことを構う余裕すらない。 「砂羽には言わないで下さい!」 机に手をついて勢いよく頭を下げたが、男は俺を見下ろしながらつれない言葉をかけた。 「何を?」 「ええと、俺との……。」 タイミング悪くBセットが届いたため、尻つぼみに言葉が消えていく。 目の前の香ばしいパンの匂いやこんがり焼けたベーコンを見ても、食欲が失せた今は色を失ったように映る。 「なんで?」 男は質問を繰り返しながらも、俺の言いたいことは気が付いている気がする。 その証拠に男は意地の悪い笑みを浮かべ、頬杖をつきながら俺の言葉を楽しそうに待っていた。 「それは……。」 長い沈黙。 男はゆったりと足を組みかえ、軽くため息をついた。 「まだ、もたもたしてんのかよ。」 苛立ったように頭を掻くと、残りのコーヒーを飲みほした。 「まだって?」 「……なんでもない。」 男は静かにそう言うと、タバコをくわえて火をつける。 「片岡もどうせ同じ大学だろ?」 すべてを見透かした質問に、俺の表情はどんどん強張る。 こいつは何者で、俺のことをどこまで知っているのか……その線が見えずに、恐ろしさを覚えた。 「あいつと足並み揃えて、まだ仲良しごっこかよ。」 矢継ぎ早に馬鹿にしながら、男の視線がどんどん尖っていく。 男の吐き出すタバコの煙が、心なしか目にしみた。 「お前に関係ないじゃん。」 何か言い返さなくては……そんな思いで必死に告げた言葉は、滑稽なほど陳腐だった。 なんだか、悲しいのか怖いのかもよく分からない感情が身体の奥底からふつふつと沸き上がり、叫びだしたくなる。 震える指先を必死に抑えつけながらフォークを握り、俺は目の前のBセットを食べることだけに専念した。 何かをしていなければ、どうにかなってしまいそうなほど頭が混乱している。 色を失った食事は、まったく味がしない。 大好物のクロワッサンですら、紙を食べているかのように味気なく胃におさまる。 それなのに男は俺の気持ちなどお構い無しに、衝撃の一言を告げた。 「久しぶりに片岡に会いたいな。」 ぽつりと独り言のように漏らした言葉に、俺はぎょっとして男を睨む。 「何で?」 ――こいつは、何がしたいんだ? 砂羽に俺の秘密を告口しようとしているのか、それとも俺の反応を楽しむだけの趣味の悪い冗談か……。 悪い冗談であってほしいと願いながら男を見上げると、無表情に俺を睨んでいる。 俺の頭の中を透視するかのような視線に耐えられず、うつむきながらベーコンを頬張る。 「いや、砂羽はいいよ。」 「なんで?」 「あいつ、忙しいし。」 「大学行けば会えるだろ?」 「え?」 「ほら、とっとと食え。」 そう言って手が止まっていた俺のフォークを取り上げ、オムレツを俺の口に運ぶ。 その行為だけでも充分驚いているのに……。 「送ってってやるよ。」 男の一言で思いきりむせた。 俺に拒否権はないような口ぶりで、口元に笑みを浮かべながらそう宣言した。

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