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第12話

「ヒナ、この後どうする?」 砂羽が足早に店を後にし、俺と相葉はまるで葬式のように静かな食事を終えた。 学生にしては少し高めの値段設定で、薄くなった財布を睨んでいる俺を見かねた相葉が出そうとしたが、さすがに相葉にこれ以上借りを作る気にはなれない。 仕方なく金を払うと、今月もまだ半月残っているのに、財布も随分寂しくなってしまった。 稼がなきゃと思いながら財布を尻ポケットにしまうと、相葉がくるっと振り返ってそう尋ねてきた。 「その呼び方、いい加減やめろ。」 「なんで?」 「砂羽専用だし。」 「呼び方に著作権もねえだろ?」 いつものように減らず口をたたく相葉に言い返す元気もなく、俺は相葉から一刻も早く離れたくて速度を緩めた。 「砂羽に会えたんだからさっさと帰れよ。」 「片岡がいないと、急に機嫌悪いな。」 俺の様子を楽しそうに観察しながら、相葉が俺と歩幅を合わせてくる。 足の長さが違うせいか、窮屈そうに小股で歩く姿にイライラしてスピードを速める。 相葉といるとちょっとしたことでイライラして、心が落ち着く暇がない。 「砂羽に会いたがったのは、俺のことばらしたかったからだろ?」 「で、ばらしたらどうする?」 「殺す。」 「ふーん。」 そう言いながら、楽しそうに俺を見つめている。 相葉はこの状況を心底楽しんでいた。 俺がどんなに苦しいともがいていても、こいつはきっと隣で笑っている。 昔からそうだった。 黒い歴史の紐が解かれようとするのを、真っ暗な暗闇に突き落とされそうで怖くて、急いで蓋をする。 昔に戻りたくはない。 じめじめとしたぬかるみに足をとられ、毎日のように泣いていたあの時。 毎日が息をするのも苦しくて、はやく時間が過ぎることだけを祈っていた中学1年の時の弱い俺。 あの弱かった昔の俺から比べてみると、今の俺は……昔と変わらず臆病で弱くて、情けなく思う。 昔から相葉と俺との関係は変わってなくて、いつだって俺の目線は虫と同じ。 この関係は変わらないんだと思うと、今更何を努力してもすべてが無駄に思えた。 「ってゆーか、あんたいつから男好きになったんだ?」 「あ?」 「俺と寝たんだろ?」 「まあ。」 曖昧な返事を返しながらも、なんでもないことのように遠くを見つめる。 「中学の頃はキモいって言ってたくせに。」 独り言のように漏らした言葉に、相葉は無表情な目でこちらを見下ろす。 その目に気圧されながらも、相葉を睨み返すと口端だけで笑われた。 「だから?」 「……それなのに、抱いたのか?」 「俺がいつお前を好きで抱いたって言った?」 心の読めない表情で詰問するスタイルは、昔から変わってない。 こちらが一言牙を向けると、その何倍にもなって返ってくる。 言い争って勝てる相手ではない。 小さく息をつくと、もう負けでいいと思えてきた。 ――だけど……なんで、俺を抱けたのか。 あんなに毎日のように蔑んだ目で睨んできて、きつい言葉で俺の心臓を何度もえぐっていた相葉がなんで俺を……? 他人に批判されることに慣れていなかった俺は、相葉の攻撃をガードも出来ずになんのまともにくらっていた。 まだ心に迷いがあった時期だったから、本当は違うんじゃないかという淡い期待もあった。 俺もやっぱり女子が好きで、思春期によくある中二病だと自分を納得させようともした。 だけど、その迷いは砂羽にキスをしたことで一気に崩れた。 *** 中学の初めての夏休みが迫ったあの日。 放課後の教室で寝ている砂羽に、俺はキスをした。 綺麗な寝顔をよく見ようと、顔を近づけただけのつもりだった。 風邪を引くから起こそうと思っただけのつもりだった。 一緒に帰ろうって声をかけようと思っていた俺の声は、カーテンを揺らす風とともに消えてしまった。 音のない教室で、俺の心音だけがうるさいくらい鳴っている。 砂羽の規則正しい息遣いに……なぜか心臓が速くなる。 少し骨っぽくなってきた顎先や手の甲。 カタチのいい唇はうっすらと開いていて、そこからのぞく舌がエロチックに映る。 いつも見ている横顔なのに、寝ている姿は大人っぽく見えた。 憧れの存在だと思っていた砂羽が、ずっとそばにいたはずの砂羽が、遠い存在になってしまいそうに思えた。 同じ目線で見ていたはずなのに、俺よりもずっと大人に見えたのは……あの時が初めてだったと思う。 寂しい。 その感情がむくむくと大きくなって、俺を満たしていく。 ただの性的な衝動とは、少し違っていた気がする。 いつも隣にいた砂羽と自分との間にできた大きな溝がどんどん深くなっていくことが、ただただ怖かった。 そばにいて。 どこにもいかないで。 そんな暗い気持ちを抱きながら、砂羽の柔らかな髪に触れた。 ふわふわとした綿毛のような感触が心地よくて、大きなごつごつとした指先に手を重ねた。 夕暮れの教室に2人きりというシュチュエーションに、妙に気持ちが高揚してしまったのも否定できない。 キスとは呼べない程、わずかな時間。 だけど、俺と砂羽の唇が触れたのは事実だった。 「ああ、やっぱり……」という納得する気持ちと「なんで……」っていう戸惑い。 しかも、その瞬間を一番見られたくない相手に見られてしまった。 教室の入り口にいた相葉が、俺をじっと見つめていた。 *** 相葉のことは最初から気が合わないとは思っていた。 同い年のくせに妙に偉そうだったし、全てを見透かすような態度も鼻についた。 それになにより、相葉の目が怖かった。 いつも無言でこちらを見つめる目は、なんでもお見通しのように思えて、心の中まで見透かされている気がした。 その目が怖くて、なるべく避けて生活していたのに……。 あの瞬間、俺と相葉の関係が出来上がった。 相葉の言葉が常識ある大人の言葉に思えて、クラス中のみんなが相葉と同じ意見なんだと思うと……叫びだしたくなるほど苦しかった。 本当の俺を知る初めての他人は、相葉だった。 だからこそ、相葉の言葉は俺を見る社会の目なんだと認識した。 この感情は気味悪がられて当然で、蔑まれて当然で、普通じゃない。 俺だけが異質で、人道から外れていると言われたら「ああ、そうなんだ」と納得できた。 今でもこの考えが大きく揺らぐことはないとはいえ、最初に出会った他人が相葉だったことは、俺の人生の中で一番の不運だったと言える。 相葉の横顔をのぞき見ると、まっすぐ前を見つめていた目だけがこちらを見下ろす。 「何?」 「ノンケでも男を抱けるのか?」 俺の言葉に、相葉が俺をじっと見つめる。 ゆっくりと目を伏せてから、静かに言葉を発する。 「片岡に抱いてもらおうとでも思ってんのか?」 「いや、そういうんじゃなくて……。」 そういうんじゃなかったけれど、そういうことも可能なのかと考えてしまう自分が憎い。 しばらく思案していた俺に向かって、相葉が悪魔の囁きを告げる。 「試してみれば?」 「え?」 「片岡を記憶吹っ飛ぶくらいまで酔わせて、抱いてもらえばいいじゃん?」 「んなこと、出来るわけねえじゃん。」 「なんで?」 「なんでって……。」 「片岡も男を抱いたなんて言えるわけねえし、上手くいくんじゃね?」 「そういう問題じゃ……。」 理性のストッパーなんてものは最初から外れていて、機能していない。 だけど、寸前のところで思いとどまる。 もし万が一セックスがうまくいったとしても、俺たちの関係はきっと崩れる。 今みたいに砂羽が笑いかけてくれなくなって、話しかけてくれなくなって、こちらを見てくれなくなる。 そんな生活は、きっと耐えられない。 なけなしの理性と戦っていると、相葉が俺を鋭い目で睨みながら口を開いた。 「前に片岡にキスしてたろ?」 その言葉に、ぎゅっと心臓を掴まれたように息苦しくなる。 「放課後の誰もいない教室で、寝てる片岡に手を出したろ?」 「1回も2回も同じことじゃね?」 立て続けに攻め続ける相葉に、何も言い返せない。 だって、全部真実だから。 「そうやって、お前は死ぬまで片岡のこと想い続けるつもりか?」 「俺の自由だろ。」 相葉に俺の人生をとやかく言われる理由はない。 当事者でもないくせに、わざわざ首を突っ込んで心をかき乱す相葉にイライラした。 「勝手にしろ。」 「なんでお前にキレられなきゃいけねえんだよ?」 「どいつもこいつも、頭悪すぎ。」 相葉はそう吐き捨てると、ため息をつきながら煙草を口に銜えた。 見通しのいい大通りで、堂々と煙草を吸う神経にほとほと疲れながらも、一応忠告をいれる。 「未成年なんだから、少しは自重したら?」 「未成年で強制わいせつ罪のお前に説教されたくねえよ。」 相変わらず可愛くないことを言いながら、相葉がスマホを取り出した。 「そういえば、スマホ!」 「あ?」 「スマホなくしてたんだ。」 「で?」 ちらりと俺を見るその目は、既に興味をなくしていた。 しかし、さすがにそのまま放置するわけにもいかない。 「俺と……どこで会ったんだっけ?」 「新宿。」 「新宿の?」 「仲通り。」 俺の質問に超短文で答える相葉に夏の暑さに似たじりじりとした苛立ちを感じながらも、その場所にいたという相葉に違和感を覚える。 「ってゆーか……そんなとこで何してたんだ?」 「お前に関係ない。」 「それはそうだけど……。」 あの場所で相葉に繋がりそうな知り合いは思いつかずに唸っていると、相葉はこちらを呆れた目で見つめている。 「どの店だっけなぁ……。そこで落とした気がするし。」 「本当に覚えてねえんだな……。」 「なんだ、その顔。」 「お前と違って格好よくて羨ましいだろ?」 口端だけで微笑む顔に、なぜか腹が立つ。 見た目だけでいえばそれなりにモテそうな気がするけど、いかんせん中身が残念すぎる。 「……黙ってりゃいいのに。」 「あ?」 「喋ると損するタイプじゃん。」 「はあ?3割増しになるだろーが。」 そんなくだらない会話をしながらも、頭の中では昨日のあやふやな記憶のピースが雑然と転がっている。 「あー……なんか、すっげえ美人がいた気がするんだけど。」 「美人?」 「なんか、色っぽくて色白で儚げな美人。」 その人に微笑まれた気がするが、あれは夢の一部だったようにも思う。 その美人の顔を思い出そうとしたが、あまりにも記憶が薄くて思いだせそうにもない。 そんな俺とは対照的に、相葉はなぜか眉間に皺を寄せながら口をひらく。 「……あれが美人?」 「あれがって?」 「なんでもない。」 「あの美人さんと知り合い?もしかしてあの人に会いに来たとか?」 「あんな奴知らない。」 3歳児の子供のようにふてくされた顔でそう言うと、俺からふっと視線をそらした。 「絶対知ってるだろ。」 いつも何考えてるのかまったく分からない相葉だったが、珍しく分かりやすい相葉に逆に扱いに困る。 「まあ、店名くらいなら教えてやる。」 「知ってんなら最初っから教えろよ。」 「条件がある。」 「……条件?」 「その男とは関わるな。」 「その男?」 「女みたいな男。」 相葉のことだから情報料で金を請求する程度のことは言いそうなものだが、相葉のゆるい条件に首を傾げながら相葉を見上げる。 「なんで?」 「なんでも。」 「それが、条件?」 「そうだ。」 「ま、別に好みでもなかったからいいけど……。」 記憶に残っていないっていうことは、砂羽に似たタイプでもなかったということで……。 俺にとっては無に近い条件に首を傾げながらも、静かに頷く。 「確か……マーキュリーっていう店だったと思う。」 「サンキュー。」 それだけ聞くと、相葉とはさっさと別れた。 昔話に花を咲かせるような関係でもないし、むしろ恨みつらみのほうが多いくらいだ。 その店名を頭の中にインプットさせながら、昨日と同じように足早に駅へと向かった。

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