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第13話
――ここか……?
『Mercury』と書かれた看板を見上げながら、俺は足を止めた。
店は仲通りのちょうど中間地点にあり、黒塗りの看板に金文字の筆記体で書かれている。
まだ店自体は新しいのかもしれないが、建物は随分年季が入っている。
夜に染まるとそれなりに映えるのかもしれないが……太陽に晒されたこの時間では、欠点の方が多く映る。
しかし、空き物件を内装に少し手を加えただけで出店するのがここら辺のスタイルだから、特に物珍しさは感じない。
平日の昼を少しまわったばかりということもあり、通りはがらんとしていて活気はない。
化粧が崩れ疲れた様子のママらしき人たちを数人見かけただけで、見知った相手にすれ違うことはなかった。
こういう店だけあって窓もなく、重々しい扉の先に誰がいるのかも予想がつかない。
意を決して扉をノックしてみたが、いくら待ってもその扉が開くことはなさそうだった。
今日はいつも以上に暑く、頭上から降り注ぐ太陽光とアスファルトの照り返しの熱で溶かされそうだ。
大人しく開店時間まで待つしかないかと途方に暮れていると、急に声をかけられた。
「まだ、開店してないですけど?」
「あ、すみません。」
とっさに頭を下げて扉の前から飛び退くと、ゆっくりと人影が近づいてきた。
「あれ、ひゅう?」
その柔らかな声色に頭を上げると、口元に笑みを浮かべた美人が俺を見つめていた。
その顔立ちを見て、昨日の記憶の欠片にあった天使のような美人と重なった。
「あー……美人さん!!」
名前すら忘れそのまま叫ぶと、美人さんは綺麗に微笑む。
陽の光に照らされた肌は透けて見える程白く、栗色のダメージヘアはごわごわとしたタオルのように薄汚れて見えた。
昨夜会ったイメージとは少し異なったが、恐ろしい程整った顔の造りや持っている輝きは昨夜の印象のままだ。
「ありがとう。」
もう聞き慣れた挨拶みたいなものだからか、自然にそう微笑み眩しそうに目を細めた。
「昨日、大丈夫だった?」
コンビニにでも行っていたのか、袋の中からジュースを取り出すと、俺に向かってそっと差し出してくれた。
それを軽く頭を下げながら受け取ると、にっこりと微笑みながら俺を室内へと招き入れてくれる。
室内は冷房がつけっぱなしだったからか、ひんやりとしていて心地いい。
促されるままにカウンター席に着くと、美人さんも俺の隣に浅く腰をかけた。
俺が昨日の記憶を思い出そうときょろきょろ辺りを見回していると、美人さんはごくごくと喉を震わせながらおいしそうに飲み物を飲む。
「あの~……昨日、もしかしなくても迷惑かけましたか?」
「いや?俺は楽しかったけど。」
そう言って優しく微笑みながら、優し気な瞳で俺に飲み物を促す。
その瞳に促されて口をつけると、しゅわっとした炭酸が喉を通り抜け、からからに干からびていた喉がすっと冷えた。
「司、大丈夫だった?」
「え?」
相葉のことを親し気に名前で呼ぶ美人さんをじっと見つめると、美人さんも俺を見つめながら静かに俺の言葉を待っている。
「やっぱり、知り合いですか?」
「誰が?」
「美人さんと相葉が……。」
「やっぱり、俺のこと何も言わなかったか……。」
寂しそうに微笑む美人さんに、なんだか悪いことを言ってしまったようで俺は口を噤んだ。
沈んだ俺を見かねた美人さんが、明るいトーンで口を開く。
「ひゅうと司って、何繋がり?」
「あー……中学の知り合いです。」
「知り合い?友達じゃなくて?」
俺の言葉の微妙なニュアンスを聞いて、美人さんが不思議そうに俺を見つめてくる。
「あ~……ごめん。なんか、司の反応がただの知り合いには思えなかったから。」
「まあ、いろいろあったんで。」
げっそりとしながらそう言うと、美人さんが知ってか知らずか楽しそうに微笑んでいる。
「昨夜も大変だった?」
「いや、あんま記憶になくて……。」
「覚えてないの?」
「ところどころって感じで。」
苦笑しながらそう言うと、美人さんも優しく微笑む。
「しかも、相葉だって気が付かなかったんで。」
「あー……急に身長伸びたしね。」
中学時代の相葉のことも知っているのか、懐かしそうに目を細める美人さんを見て、相葉との関係がさらに分からなくなった。
「中学ん時は俺の方が身長あったのに……。」
「じゃあ、急にタクシーに詰め込まれてびびったろ?」
「その時の記憶はあんまないんで。」
「そうなの?俺、司のこと怒らせちゃったから、ひゅうが大変だろうなぁとは思ってたんだけど。」
「怒らせた?」
こんな温厚そうな人があの相葉を怒らせるとは……と思いながら美人さんを見つめると、いたずらっ子のように幼く笑う。
「あの相葉って、元彼……とかですか?」
恋人ではないと相葉が断言していたから、元彼かセフレ辺りかと質問を投げると、美人さんは目を丸くしたままじっと俺を見つめて動かない。
まるで、時間が止まったかのように動かない美人さんを俺もじっと見つめ返すと、時空が歪んだかのように美人さんの顔が大きくゆがんだ。
一瞬の間を開けて
「はっはははは……あははっはっは。」
先ほどの上品な笑顔とはまったく異なり、顔を手で覆いながら大笑いする美人さんを唖然と見つめる。
しばらくその姿を見つめていたが、肩を震わせながら涙まで浮かべている美人さんに恐る恐る声をかけた。
「え?いや、あの~……大丈夫っすか?」
ひとしきり笑った後、美人さんはくすくすと肩を震わせながらも、俺とようやく視線が合った。
「あ~、ごめんごめん。安心して?俺たちそーゆーのじゃないから。」
「いや、別に俺は……。」
変な誤解をしている美人さんに否定をいれようとしたが、1人納得したかのように清々しい笑顔を見せる美人さんには、俺の言葉はまったく届いていない。
「そっかそっか……。ひゅうが被害を受けてないみたいで安心したし、司にもようやく春が来たってことか。」
「いや、被害はすっげえ受けてますけど?」
むしろ嫌がらせしか受けてないと言おうとも思ったが、嬉しそうに破顔している美人さんにそこまで言う気にはなれない。
「まあ、口はすごい悪いけどそんなに悪い子じゃないから、仲良くしてやって?」
「いや、はあ……本当にそうですか?」
本当に悪い奴ではないのかと耳を疑いながら、相葉との思い出の中には悪い印象しかない。
「それで、わざわざ今日も俺に会いに来てくれた……ってわけじゃなさそうだよね?」
「いや、スマホ失くしたみたいで。」
「スマホ?」
「俺、ここ出る時持ってましたか?」
「ええと、どうだったかな……?忘れ物では届けられてないけど。」
「そう……ですか。ありがとうございました。」
それだけ言って頭を下げて席を立つと、美人さんに手首を掴まれた。
「あ、ちょっと待って。」
「え?」
「一緒に探してあげる。」
「いや、でも……。」
開店準備の作業真っ最中に見えたが、美人さんは気にしないでと微笑みながら俺の手を両手で包む。
女性の手のように柔らかく、細く美しい指先は血が通っていないかのようにひどく冷たい。
この暑苦しい季節に似つかわしくない手の温度に驚きながら、俺よりも少しだけ背の高い美人さんを見上げる。
「司とは仲良くできても、俺とは仲良くできない?」
「いや、美人さんと仲良くできても相葉とは仲良くできません。」
俺が真剣な顔できっぱりとそう言ったのに、美人さんはツボに入ったようで先ほどと同じようにまた大笑いを始めた。
「はっはははは。」
「あの、美人さん?」
「あ!そろそろ美人さんはやめない?俺は透。」
透き通るような肌と同じく、名前も綺麗な響きだ。
昨日聞いたであろう名前を忘れていた失礼な俺に対しても、透さんはにこやかで笑みを崩さない。
「知り合いに聞いてみるから、ちょっと待ってて。」
そう言ってスマホを片手に忙しなく電話を始める透さんを見つめ、俺は先ほどと同じようにカウンターに腰をかけた。
「ありがとうございます。」
電話中で聞こえないであろう透さんにカタチだけ謝ると、俺の口の動きで気が付いたのか、透さんが片手をあげて優しく目を細める。
こういう仕事に就いているせいか、気づかいというか心づかいというか、そういうものが長けている。
俺よりも少しだけ年齢が上だと思っていたが、身の振り方は一流だ。
常連と思しき人たちに甘えた声で笑う透さんは、先ほど大笑いしていた透さんと同一人物には思えない。
その姿をぼんやりと見つめていると、電話を終えた透さんが申し訳なさそうに微笑む。
「ごめん。昨日来たお得意さまに聞いてみたけど、やっぱり見てないみたい。」
「そう……ですか。」
「ひゅうの電話番号は?」
「俺?」
「かけてみよっか?持ち主が出るかも。」
そう言うと、俺に向かってスマホを手渡してくれた。
「もしもし。」
「どちら様ですか?」
低くぶっきらぼうな声が、スマホの向こうから聞こえてきた。
てっきり電源を切られているか、切っていなかったとしても電話にはでないと思っていたのに……相手は妙に強気で、スマホの向こうから深いため息が聞こえてきた。
「いや、あなたこそ……どちら様ですか?」
「あー、日向か。」
その声には聞き覚えがあって、スマホを落としそうになりながら声を出す。
「……サボさん?」
「今日もさぼりか?」
いつものようにそう言いながら、向こうからまた息遣いが聞こえてくる。
その息がため息などではなく、煙を吐き出す音だと気が付いて、思わず微笑みながらスマホを握りなおした。
「俺、サボカフェで忘れてました?」
「あ~、まあ……な。」
曖昧な返事をしながらも、サボさんの笑っている顔が頭に浮かぶ。
「いつ取りにくんだ?」
「あ、今から取りに行く。」
「おう。暑いからその辺で倒れんなよ。」
その言葉に笑いながら電話を切ると、にこやかな笑顔を見せる透さんと視線があった。
「ありがとうございました。持ち主は、サボさんでした。」
「サボさん?」
「ああ。サボカフェって分かります?ここから5分くらいなんですけど……。」
「名前だけ聞いたことあるかも?コーヒーが美味しいって。」
この辺でサボさんは割と顔が広い。
ここに長く住んでいるってこともあるし、同業者同士の付き合いもあるから知らない顔があることのほうが珍しいくらいだ。
少し疑問に感じながらも、俺はようやく席を立つ。
「じゃあ、俺は。」
そう言って頭を下げると、予想してなかった言葉が降ってきた。
「俺も、行こうかなぁ……。」
「え?」
「ひゅうの友達だろ?挨拶行かなきゃ。」
「はあ。でも、仕事は?」
「今日は定休日。」
「じゃあ、なんでここにいるんすか?」
「俺、ホームレスだから。」
「はあ。」
納得しかねる言葉に頷きながらも、笑顔で答える透さんにそれ以上突っ込む気にはなれず、俺たちは2人並んでサボカフェへと向かった。
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