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第16話
流石にそのまま相葉の家に行く気にはなれず、かといって陽菜季がいるであろう家に帰る気にもなれない。
行き先もないまま自転車を転がしていると、いつの間にか辺りは暗くなっていた。
日が暮れても暑さが引くことはなく、もわっとした湿気に包まれながらゆっくりとペダルを漕ぐ。
背中にTシャツが張り付く感覚がひどく不快で、何度も額を拭いながらただただペダルを漕いだ。
目的もなく、先ほどの記憶を何度も再生させながら、砂羽のことを考えていた。
――今日、楽しそうにふわふわとした髪の女と歩いていたばかりなのに、さっきのはなんだったんだろう……。
砂羽の好みは分かってる。
柔らかなハリのある肌を好むこと。
華のあるハーフ顔を好むこと。
柔らかな髪を靡かせる隙のある女を好むこと。
だから、陽菜季はこの砂羽の好みから除外されている……はずだった。
中学からバドミントン部に所属し、日焼けこそしてはいないが、女子にしては筋肉質な身体で、女らしい体つきとは言いにくい。
俺と小さいころはそっくりだと揶揄された顔つきも、少しは女らしくなったとはいえ、俺と同じ吊り上がった目尻は変わらない。
このご時世に珍しく髪を染めたことは一度もなく、日本人形のようにまっすぐに伸びた髪質は俺と酷似している。
そんな陽菜季のことを、砂羽の目には女として見えているということが、どうしようもなく悔しかった。
別に女になりたいとか、そんなことを望んではいない。
顔が似ているというだけで、双子だというだけで、一緒にされるのが嫌で嫌で仕方がなかった子供時代。
個を主張することばかり躍起になっていたせいか、兄弟仲はすこずる悪い。
そんな陽菜季に嫉妬する日がくるなんて、夢にも思わなかった。
今までとは明らかに違う虚無感。
ほとんど遊具のない真っ暗な公園にたどり着くと、何もする気になれずにベンチに腰をかけた。
目を閉じると、いまだに煩いくらいの蝉の合唱が聞こえてくる。
耳をすませば、開けっ放しの窓から聞こえてくるテレビの音。
車が走り去るエンジン音。
どこかで誰かが笑う声。
耳の奥の方で、先ほど2人が話していた声がざわざわと響いている。
聞こえなかった声を何度も再生していると、聞きたくない声が聞こえてきてイヤホンを耳に突っ込んで蓋をした。
本日何度目かも分からないため息をはきながら、ベンチにごろんと横になる。
雲の隙間から月が顔を覗かせていて、その光を見ているだけで月がゆらゆらと歪んでくる。
何が悲しいのかも自分でも分からないが、とめどなく流れる涙を止めることも拭うこともせずに、しばらくぼんやりと空を見つめ続けた。
どれだけそうしていたのか分からないが、尻ポケットにいれたスマホがぶるぶると震えはじめた。
習慣のようなもので、何の考えもなくスマホを取り出してディスプレイを見上げる。
『相葉 司』という名前が表示されているのを見ても、特に何も考えずに電話に出た。
「お前、なにやってんだよ。」
低い声が耳に届き、その声にすっと嫌な記憶が呼び起こされる。
咄嗟に電源ボタンを押そうとすと、電話越しから「切るな。」という怒声が聞こえてきて、俺は再びスマホを耳に当てる。
「お前、どこにいる?」
「わかんない。」
「わかんないって、ガキじゃあるまいし迷子かよ。」
「……。」
今、相葉の声なんか聞きたくない。
それなのに、中学からの上下関係が身体に沁みついているせいか、無下に切ることも出来ずにいた。
「どこだ?」
「……星ヶ丘公園。」
薄暗い入り口に書かれていた公園の名前を告げると、急にふっと現実に戻される。
先ほどまで、あまりにもぼんやりと思考の海に漂っていたせいか、ここにいることを現実のものとして認識していなかった。
砂羽と陽菜季の先ほどの姿が突然脳裏に浮かび、なんだか呼吸が苦しい。
「砂羽……が。」
そこまで言ったところで、急に心臓がずんと重くなった。
目の前の暗闇が一気に重力をもったような、そんな感覚。
水中にいる時のような息苦しさに襲われ、思わず起き上がって喘ぐように息をする。
「大堀?」
心配そうな声が聞こえてきて、大丈夫だと言いたいのに声が出ない。
何か言わなくちゃと思って声を発しようとしたのに、声がまともに出ないことに驚きながらさらに思考が白濁していく。
変な汗が額から噴きだし、寒くもないのに手先が震えている。
今まで感じたことのない恐怖感で、自分1人しかいない状況がさらに俺を追い込んでいく。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
スマホを片手で持っていることも出来ずに、両手で抱えるように持ち直す。
不安で潰されそうになりながら、必死に繋がっている相手に縋った。
「く、苦……しっ。」
相手に聞き取れているかも分からなかい程の声量だったが、それだけ言うとスマホをベンチに落としてしまった。
それを震える指先で拾い上げると、ゆったりとした低音が耳に届く。
「息、吸えるか?」
何度も何度も息を吸おうとしているのに、上手く吸えずに空気が漏れるような変な音が喉からなっている。
息が吸えないことで、焦りがさらに呼吸を苦しくさせていく……。
「吐いて、吸って、吐いて……ゆっくり、息しろ。吸って、吐いて。」
呪文のように繰り返されるリズムに乗せて、俺もそのリズムに合わせて息を吐いた。
どうやら吸うことにばかり気をとられ、息を吐くことを忘れていたようだ。
ゆっくりとしたリズムで呼吸を繰り返していると、ようやく汗が止まり手先の震えも落ち着いてくる。
「今からすぐに行くから、いい子で待ってろ。」
その声を最後に電話が切られ、ツーツーという寂しい機械音が鳴っている。
先ほどの息苦しさは嘘のように引いていて、身体は重いが動けないこともない。
でも、俺はその場から動くこともなく、ゆっくりとベンチに座りなおした。
「待ってろ」っていう優しい声が耳の奥で心地よく残っていて、相手は相葉なのに……俺はその言葉を信じて待ち続けた。
しばらくすると、1台のタクシーが公園の前に止まり、小走りでこちらに近づいてくる人影に顔を上げた。
「大堀!」
いつもの小馬鹿にしたような声色ではなく、低く耳に残る声はわずかに掠れている。
俺を見下ろす相葉の瞳をぼんやりと見つめていると、心の中にためこんでいた色んな感情が溢れてきた。
中学の時は恐怖の対象でしかなくて、目を合わせるだけで動悸がするくらい嫌いだった。
今も苦手だということは変わらないのに、タクシーの逆光のせいで相葉がどんな顔をしているのかさえよく分からない。
だから、だろうか……相葉に対して初めて、対等で話している気がした。
「砂羽が……キスしてた。」
俺の言葉が聞こえているはずなのに、相葉は身動ぎすらせずにこちらを見つめている。
「初めて、見ちゃったから……ちょっと、びっくりして。」
相葉の顔を見ることもなく、少し俯きがちに言葉を繋げる。
素面なのにすらすらと心情を素直に話せたのは本当に久しぶりで、身体がすーっと軽くなる気がした。
「そりゃ妄想とかしたことはいっぱいあるけど、その相手はいつも俺だったから……。」
何を言ってるんだろうと自分で突っ込みを入れながらも、相葉は茶化すことなく静寂を貫いている。
「最初から期待なんてしてないし、心構えも出来てると思ってたし……案外平気だと思ってたんだけど。」
「だけど……やっぱ、きつい。」
言いたかったことを全部言えたせいか、妙にすっきりとした爽快感がある。
「ほら。」
「え?」
今まで無言だった相葉から手渡されたのは、缶ビールだった。
それを疑問に思いながら受け取ると、相葉も自分の分のプルを開けて飲み始める。
それを見つめて、俺もプルを引っ張ると……勢いよく泡が溢れだした。
慌てて立ち上がり、べとべとになった手を見つめていると……相葉が俺を見てけらけらと笑い出す。
「……なんだよ、これ。」
俺が相葉に向かって缶を見せつけると、いつも通りの口調で笑われた。
「だっせ。」
「……うっせ。」
なんだか、俺も怒る気にはなれずに相葉と一緒に笑っていると……相葉が俺に向かって手を差し出した。
べとべとの手で触ることを躊躇っていると、相葉が俺の手を思い切り引っ張り無理やり立ち上がらせる。
勢いがありすぎたせいか、とんと相葉の肩に鼻がぶつかる。
「痛っ。」
「帰るぞ。」
「え?」
俺の意思は無視して相葉と手を繋いだまま、待っていたタクシーの中に乱暴に詰め込められる。
――家には帰りたくない。
そんなことを思いながら相葉を見つめていると、相葉は自分の家の最寄り駅を口にした。
そのことに安堵しながら、腰を深く落ち着けていると……俺の手は長い指に捉えられている。
俺の手に触れたことで、相葉の指もべとべとしていてお互い不快なはずなのに……なぜかそうしていると安心できる。
運転手もこちらの様子をちらちらと盗み見ていることが気になったし、酔ってもないのにこんなことをしていることに恥じらいもあった。
どうしようかと焦る俺とは対照的に、相葉は興味なさげに窓の外をじっと見つめ続けている。
俺とは一切視線も言葉も交わすことはなかったが、しっかりと手は繋がれたままだった。
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