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第18話
いつも通り。
いつも通り。
いつも通り。
そう何度も念じながら、俺は相葉のマンションを出た。
***
俺が起きた時には既に相葉の姿はなく、リビングのテーブルに「鍵はポストに」という短いメモ書きが残されていただけだった。
昨日洗濯機の中で見た俺の衣類は、しっかりと乾いていてハンガーにかけられている。
それを着ると、いつもとは異なる柔軟剤の匂いで……なんだか落ち着かない。
昨晩と同じようにフロントには人がいて、俺を見ると笑みを深めるのを見て、軽く頭を下げると素知らぬ顔で足早に通り過ぎる。
「ありがとう」という短いメモと一緒に鍵をポストに投げ込むと、ため息とともに学校へと向かう。
昨日の砂羽と陽菜季の姿ははっきりと脳裏に焼き付き、なかなか消えてくれそうにない。
それでもこうして学校に向かおうとしているのは、相葉のお陰かもしれない。
いつもなら新宿に出向き、記憶が消えるまで飲んで抱かれてっていうのがお決まりのコース……だったのに。
目が覚めた時に相葉が寝ていたところの温もりが残っていて、なんとなく甘ったるい気持ちになりながら身体を起こした。
ラブホの大きなベッドに残るのはいつも精液の固まったごわごわとしたシーツと酒と汗の匂いと、少しの後悔。
こんな甘ったるい気持ちになるのは初めてで、二日酔いではないのになぜかぼーっとする。
身体が妙に重くて、その代わり心は昨日よりも大分軽い。
最初っから諦めていた……つもりだった。
最初っから期待なんてしてない……つもりだった。
――だけど、まだこんなにきついのか……。
新しい彼女……になるのかな?
やっぱり、きっと。
そう思いながらも、それを確かめる勇気はまだない。
砂羽に対しても、陽菜季に対しても。
もやっとした気持ちを抱きながら電車に乗り、憂鬱な気持ちはため息とともに何度も排出する。
校門を通り抜け教室に近づくにつれて、俺の足はどんどん重くなっていく。
いつもなら15分以上前には着いているはずが、既に予鈴は鳴り終わり席はほぼ埋まっていた。
お気に入りの窓側の席は埋まっていて、どうしようかとぐるりと教室を見回すと、俺に向かって手を上げる姿に焦点が定まる。
「おはよ。」
がやがやと騒がしい教室で、口の動きでそう聞き取った俺は、無視することは出来ずに砂羽の方に向かって足先を向ける。
いつもなら始業ぎりぎりに駆け込んでくるタイプの砂羽が、俺が来る前にいるのは入学以来初めてのことだった。
いつものように柔らかい表情で微笑みながら、俺に向かってもう一度軽く手を上げる。
その笑顔に一瞬怯んだが、俺もぎこちない笑みを無理やり作って砂羽がとっていてくれていた席に腰を下ろした。
「おはよ。珍しいな?ヒナが俺より遅いなんて……。」
「砂羽がいつもより早いんじゃん。」
「そうだっけ?」
俺に向ける視線はまっすぐで、昨日とまったく変わっていない。
その目を昨日と同じ目で見つめ返す勇気はなくて、俯きながら視線をそらす。
「珍しく、お1人様で登校だったからじゃね?」
そんな俺たちの間に割って入ったのは、砂羽と同じサークルのひょろりと背の高い男だった。
顔は何度か見かけたことがあるが、名前までは知らない。
「え?」
俺が振り向いて聞き返すと、にっと口角を上げて愛嬌のある顔で微笑む。
「こいつ、もう。」
そう言って笑いを隠し切れない様子で男が話し始めると、その言葉を砂羽が切った。
「うっさいな。」
「いいじゃん。すぐに分かることだし。」
男は砂羽の制止などまったく気にしないようで、俺との距離を詰める。
砂羽の迷惑そうな顔と男の楽しそうな顔に挟まれて、俺は自分から口を開いた。
「別れたんだろ?」
「え?」
砂羽と男が顔を見合わせ、不思議そうに俺を見てる。
その次の瞬間には気まずそうに砂羽が視線を泳がすのを見て、俺の疑惑は確信に変わる。
「砂羽ならすぐにいい子が見つかるよ。」
自分でも驚くほど熱のない言葉に、砂羽が笑みを浮かべながら突っ込みを入れる。
「ヒナ、なんか冷たくない?」
「今までだって、そうだったじゃん。」
そう告げて、絶望感に打ちひしがれていた原因がようやく理解できた。
――そうか、コレが怖かったんだ。
砂羽と陽菜季が付き合うこと。
それはイコール砂羽と陽菜季が遠くない未来に別れること。
今までの砂羽の恋愛遍歴を見てみると、それは遠くない未来にやってくる。
――陽菜季が捨てられたら、俺も一緒に捨てられてしまうのかな……?
子供の時は双子と言うだけで一緒にされるのが嫌で嫌で仕方がなくて、あんなに個を主張してきたのに……。
やっぱりどこかで繋がっているのか、他人ごとには到底思えない。
自分を削られてしまうような……そんな気がして、心が重い。
「それは、たまたまだし……。」
そう言って砂羽が笑いながら話しているのを、どこか遠くに感じる。
漠然とした不安が、心の中心からじわじわと汚染していくのを感じる。
「分かるよ~!大堀っ!!」
俺の何が分かるというのか、男が俺の肩をがっしりと掴んで満面の笑みを向ける。
「は?」
「片岡みたいな奴が隣にいたら、なかなかモテるの難しいもんなぁ。」
「大堀もよく見たら綺麗な顔してるし……。でも、愛想がなぁ。」
そう言って俺の頬をむにっとつまむと、そのまま上にぐいっと引き上げる。
俺はされるがまま、その男をじっと見つめ返していると……隣から手が伸びてきた。
男の手を俺の代わりに振り払い、俺の頭をついでのようにぽんと撫でる。
そんな風にそっと触られるだけで、そんな風に優しくされるだけで、泣きたくなる。
今は、特に。
「やーめろって。ヒナ、嫌がってんじゃん。」
「そうやってお前が前に出るから、大堀が誰とも喋ろうとしねえんじゃん?」
「俺は……。」
そう言って砂羽が口ごもると、男がずいずいっと前に出てきた。
「そうだ。俺と遊ばない?」
「は?」
砂羽ではなく俺に向かってまっすぐに言う男に、俺はぽかんと男を見つめるしかない。
「今日、時間ある?」
「え、いや……俺は。」
そんな気分じゃないと言いたかったが、男の頬に浮かぶ人懐っこそうなえくぼを見ていると、なんだか無下に断るのも躊躇われる。
どうしようかと視線を泳がせていると、砂羽がふっと息をはいた。
「俺も行く。」
「いいよ。お前は。」
そう言って男が断ると、砂羽がちらりと俺を見る。
「野村とヒナじゃ、ヒナが可哀想だし。」
「大丈夫、大丈夫。俺、人見知りしないから。」
「だーから、お前の心配はしてねえって。」
2人で行く行かないのやり取りを見つめてから、俺は覚悟を決めて口を開く。
「行く。」
「え?」
「今日、暇だし。」
「ヒナ?」
大学に入学してから砂羽以外の人間とまともに会話すらしてなかった俺を、砂羽も男も不思議そうに見つめている。
人付き合いが面倒だというよりも、友達をつくるなんてことは必要に感じられなかった。
どうせ本音で話せる関係なんて望めないし、それならあえて付き合う必要もない。
中学や高校の時とは違い、大学は個でいることに特に不憫は感じなかった。
だけど、今は砂羽といるのも気まずいし、新宿で飲むほど財布に余裕はない。
気晴らしがしたくても、相手がいない。
その気持ちが1ミリでも晴れるなら、そう思って野村の誘いに乗った。
「砂羽はいいよ。」
「え?」
砂羽にそう言うと、ちょうど教授が教室に入ってきた。
「片岡はいいってさ。」
背中で野村がそう囁くのを聞きながら、砂羽の視線は無視して前を向いた。
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