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第22話
あれから野村にしつこくされることもなく、給料日前で金もなく……
静かで真面目な大学生活を淡々と送っていた。
砂羽との気まずい関係は相変わらず続いていて、それも長い夏休みを挟めば少しは気持ちも落ち着くはずだと期待している。
今日はテスト最終日ということで、みんなの気分は夏休みに傾いているせいか
ざわざわと忙しない教室の声にも、楽し気な笑い声が混じる。
一応特待生枠で入学している身としては、ひどい点数を取ることは許されない。
それは、勉強にほとんど無干渉な親とのたったひとつの約束だから。
***
大学受験が差し迫っていたころ、親は国立大学を期待していた。
同学年でもう1人の受験生が家にいて、陽菜季は始めから私立を志望していたから、経済状況として切迫したものがあったんだとも思う。
趣味もないからそれなりに成績もよかったし、教師からの強い薦めもあり、当然親にもそのつもりだと思わせてしまった。
高校の時の俺は将来に希望もなく、なりたい自分というものがまるでなかった。
勉強も、別に好きでしていたわけではない。
だけど、それでも行きたいとこがないわけではなかった。
毎日のように夜遊びしていた罪滅ぼしとして、そのくらいは……という感情だった。
親を困らせるのは、正直心苦しい。
なにせ俺は、これから親不孝しか出来ないのだから……。
結婚することも、孫を抱かせることも、絶対にない。
特に希望がないのならいいじゃないと母親に何度も何度も諭されたが、これだけは譲れなかった。
砂羽と同じ大学に行って、なるべく傍にいたい。
そんなバカな理由は言えるはずもないから、親には教授がどうとか研究がどうとか設備がどうとか、適当な嘘を並べてごり押しした。
いつまでも傍にいられる訳がないなんてこと、そんなことは分かっている。
それでも、一緒にいられなくなるまでは傍にいたい。
俺の思いは切実で、少しでも離れてしまうことがただ怖かった。
心はどんどん離れてしまうのだから、物理的には傍にいないと……きっと砂羽は、すぐに俺のもとから飛んで行ってしまう。
将来の設計なんてまるで無頓着で、俺は砂羽の進学する大学に迷わず決めた。
そんな俺のわがままを、最終的には親も渋々頷くしかなかった。
呆れ顔の親との約束が、特待生制度だった。
毎日の夜遊びも黙認してくれているのは、この約束があるから。
特待生枠を落ちたら、きっと遊びに行くことも制限されてしまう。
だからこそ、必死だった。
砂羽と少しでも一緒にいられるために……。
砂羽がどこかに飛んでいかないように……。
***
時間ぎりぎりまで何度も見返して、ようやく息をついたのはテスト終了の2分前。
後ろの席には砂羽が座っていて、きっと今頃ぐーすか寝ているんだろうなと想像して、笑みがこぼれた。
砂羽の顔を思い浮かべながら時計の針をじっと見つめていると、鐘の音色が涼やかに教室に鳴り響く。
その音でしんと静まり返っていた教室が、途端にざわざわと騒がしくなる。
テストは少しも好きではないが、終わった後のこの解放感は好きだ。
その解放感を味わうべく思い切り伸びをしていると、ふわりと髪を撫でられた気がして振り返る。
「……砂羽?」
「お疲れ。」
「……お疲れ。」
砂羽はいつものように笑っていて、先ほど触れられたのは気のせいだったかも……と首を傾げる。
そんな俺の様子は気にした様子もなく、砂羽は少し前のめりになって口を開いた。
「今日野村とかと飲むんだけど、ヒナも来ない?」
「え?」
野村という名前にあからさまに顔をしかめた俺に、砂羽は苦笑いを浮かべながら話を続ける。
「一応サークルの集まりだけど、それ以外も結構来るし。」
「あ、いやー……俺はいいや。」
野村と一緒に飲む気はさらさらなく、砂羽が女子といちゃついてる姿を見ながら気持ちよく酔えるわけもない。
「やっぱ、大人数は苦手?」
「砂羽と違って社交的じゃないし。」
「まぁ、無理にとは言わないけど……。」
そう言って砂羽が優しく微笑むのを見ているのが、なんだか辛くなった。
少し前までなら砂羽の笑顔が大好きで、柔らかい声色でヒナと呼ばれると、くすっぐたくて嬉しかった。
それなのに、今では砂羽が俺を陽菜季に重ねている気がして苦しい。
今まで俺に優しくしてくれたのは、もしかしたら陽菜季にしたかったことなのでは……と、そんな風に疑ってしまう。
「また、今度な。」
そう言ってカバンを掴んで腰を上げると、砂羽が俺の腕を掴んで立ち上がった。
「な、何?」
急に掴まれた腕が妙に熱くて、トクンと心臓が高鳴る。
そんな俺の心臓などお構いなしに、砂羽が俺の髪に顔を近づけた。
髪にキスでもされるのではないかという距離まで迫られて、砂羽と視線を合わせることも出来ずにドキドキしていると、砂羽が顔を遠ざけるのを感じて、ようやく視線を合わせる。
「……急に、なに?」
「この前から気になってたんだけど、シャンプー変えた?」
「え?」
その意外な言葉に、砂羽を見上げて視線を合わせる。
「いや、陽菜季ちゃんみたいな匂いがするから……。」
匂いに気が付いてくれたことが嬉しくて、でも心中は複雑だった。
――俺じゃなくて、陽菜季に反応したってことだもんな……。
こんなことで振り向いてくれたら嬉しいけど、ただ陽菜季に似ているからという理由で選ばれても喜んでいいのか分からない。
所詮は身代わりで、陽菜季にはなれない。
代替がきくおもちゃなど、すぐに捨てられることを身をもって知っているから。
そんな複雑な感情で砂羽を見つめていると、砂羽が不思議そうに俺を見つめている。
「あー、いつものがなくなっちゃって……買い足してなくて。」
「そっかそっか。」
「やっぱり、甘ったるい?」
女物を使っていることを変に思ったのか、砂羽は俺の髪を指先でつまんでじっと見つめている。
「ヒナには、似合わないな。」
そう言って苦笑いを浮かべる砂羽に、心臓にちくっと針が刺さる。
同じ匂いを纏ったって、陽菜季と少しくらい似ていたって、所詮男は男。
お前なんて論外だと宣告されたようで、どんな表情を見せたらいいのか分からずに俯くしかない。
「だよな。女物だし。」
自分でそう忙しなく言い訳を並べながらも、今にも泣いてしまいそうだった。
「ヒナ、もう帰るの?」
「ごめん。今日バイト入ってんの忘れてて、急いでるから。」
このままここにいたらきっと泣いてしまうから、砂羽から逃げるように背を向ける。
「また連絡するから。」って声が耳に届いたが、その時にはもう視界が歪んでいて、返答することなく教室を飛び出した。
***
新宿駅のメイン通りから少し外れた路地に、サボさんから勧められた俺のバイト先『Refuge』がある。
大学生になってすぐ、サボさんにこのバイト先を半ば強制的に決められてしまった。
高校生までは援助交際しか経験したことがなかったため、バイトは店子でもしようと考えていることをサボさんに話したら……いつの間にかこのバイト先で働くことになっていた。
最初は勝手に決められたことに腹がたったが、働いてみたらそれなりに楽しくて気に入っている。
黒が基調の落ち着いたシックな内装で、従業員は黒のスーツが制服となっている。
一応スーツは決まっているが、それ以外のアレンジは個人に任せるということで、みんな個性豊かに着こなしていた。
一応酒も出すには出すが、メインは喫茶店となっている。
そのため泥酔客はお断りで、トイレでの行為や目に余るナンパは出禁の対象となる。
だからこの店の客のマナーはとてもよく、出会い目的というよりも顔見知りの常連客や従業員が他愛ない世間話をするための憩いの場となっていた。
本当は出勤日ではなかったのだけど、病欠で人手が足りないとの連絡を受けて急な出勤となった。
もともと金欠だったし、家でうだうだ考えているよりは働いているほうが気持ち的にも楽だったため快諾したのはよかったのだが……。
――すげえ、暇。
混んでいればそれなりに気も紛れるが、今日は閑古鳥が鳴いたように客が極端に少ない。
こんなことなら、ヘルプで来る必要すらなかったような気がする。
しかも、独りの時間を楽しもうとする客が多いため、いつものような話し相手すら見つからない。
時計の針が進むのがやけに遅く感じながら、欠伸を噛みしめながらグラスを磨いていると……扉がゆっくりと開かれた。
「いらっしゃいませ!」
待っていましたとばかりに声と笑顔を向けると、その顔に見覚えがあり思わず素の声が出た。
「あー!」
「ん?初めましてじゃないのかな?」
和やかな優しい笑みを浮かべた男が、俺の前のカウンターに腰を下ろした。
「すみません。サボさんのとこで見かけたことあったんで……。」
そう言って訳を話すと、男が笑みを濃くする。
先日カウンターで見た時よりは笑みを浮かべているせいか生き生きとしては見えたが、相変わらず顔色は悪い。
この前はちらりと横顔だけ見ただけだったが、改めて正面から顔を見つめると……しっかりした隆鼻をもった整った顔立ちに驚いた。
この顔立ちから察するに、若いころはモテたであろうことは俺にも分かる。
しかし、体系はひょろりとした野村よりもさらに細身で、筋肉が削ぎ落された身体は華奢というよりも病的で、なんだか頼りなく思った。
昔はそれなりの体格だったからか、着ている上等そうなスーツも身体のサイズに合わずにもたついている。
「サボの?」
「ええと、カウンターに座ってましたよね?」
「ああ。あいつとは古い知り合いでね。」
「そうだったんですか。サボさん友達少なそうなのに……。」
そうぼやくと、男の人が声を出して笑い出した。
「はっはは。サボに聞かれたら殴られてるぞ。」
「あー……あの人すぐ殴るんすよ。」
サボさんの拳骨を思い出して苦い顔をしていると、ふと思い出したように男は俺の名を呼んだ。
「ああ、なるほど。君がひゅうくんか?」
「え?」
「この前、サボから聞いたよ。生意気な年下の子がいるって。」
サボさんが友達に俺の話をしているのはくすぐったさを覚える程嬉しかったが……
男の最後の言葉に、ある意味深い納得をした。
「あー……それ、多分人違いです。」
「あいつが可愛がってるなんて、珍しいこともあるもんだなって思ってたんだけど……。」
「可愛がってもらってはないですけど、いい親父って感じです。」
「へえ。あいつもそんな年になったのか……。」
目を細めながら懐かしむ表情に、サボさんと男の関係が気にはなったが……そこまで深入りしていいのか戸惑う。
この前、透さんにはひどく冷たかったし、昔話は好まないサボさんの過去を知るのが怖くもある。
「そこまで興味もないのに、なぜか年を内緒にされてて。」
「はっははは。サボ相手にすげえな。」
そう言って目尻の皺を濃くする笑顔が、少しだけサボさんに似ていて親しみがわいた。
「あ、そうだ。何にしますか?」
「じゃあ、珈琲貰おうかな……ホットで。」
「サボさんとこみたいに美味くはないですよ?」
一応ここでもサイフォンで淹れることにはなっているが、やっぱり何かが違う。
サボさんが淹れてくれる珈琲と比べて、味に深みはなく香りも薄い。
それが悔しくて噛り付くようにサボさんの手つきを見つめてみたが、流れる様な美しい所作は一朝一夕で身に着けるものではないと匙を投げた。
今までは気にしたこともなかったが、自分で実際に試してみて、初めてその奥深さが理解できた。
フラスコにお湯を注ぎ、外側についた水滴を布巾で丁寧に拭きとりながらそう言うと……
男は「楽しみにしている」と嬉しそうに微笑む。
「ひゅう君、年は?」
「ええと、19ですけど。」
「恋人は?」
その言葉に一瞬詰まりながら、フィルターを温めておいたロートをセットしながら男を見つめる。
「それ、聞きます?」
「君なら声かけられるだろ?」
流石にこういう場所だしナンパもされたこともあるにはあるが、砂羽に似ていないという点で俺にとっては論外でしかない。
野村のように好みの幅が広ければ、それなりに割り切って楽しめるのかもしれないが……
俺は砂羽に似た男との疑似セックスが好きだった。
それ以外のタイプから声を掛けられても、面倒以外のなにものでもない。
「タイプじゃないのに声をかけられても……。」
「なるほど。じゃあ、狙ってる人は?」
「えー……まー、俺の場合はどう転んでも無理なんですけどね。」
そう力なく笑うと、男は寂しそうに微笑む。
その笑顔に俺も微笑み返しながら、ミルで豆を挽きながらロートにお湯が上昇してくるのを静かに待つ。
男にじっと手元を見つめられながら、お湯と挽いた豆を竹べらで攪拌させる。
火の加減を確かめながら抽出させ、層になるのを横から確かめていると……男が大きな吐息とともに口を開いた。
「もしよかったら、おっさんの昔話聞いてくれるか?長くなるんだけれど……。」
「よろこんで。」
入店した時と同じような優しい笑顔で見つめられ、俺は微笑みながら男の言葉に軽く頷いた。
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