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第23話
ようやく2度目の攪拌を終えて、ロートの中のコーヒー液がフラスコへ落下するのを待っていると、男が静かに話し始めた。
「俺も昔、付き合っていた人がいてね。」
「へえ、どういう人だったんですか?」
上のロートをはずして、コーヒーをカップに注ぎながら男を見ると、先ほどよりも優しい笑顔で遠くを見つめている。
「綺麗な子だったよ。肌が透き通るように白くて、人形のように綺麗な子だった。」
「お兄さん、やりますね。」
そう言って茶化しながら湯気のあがるコーヒーカップを差し出すと、男はそれを受け取りながら目を細める。
ブラックのままカップに軽く口をつけて、「うまいよ」と嬉しそうに褒めてくれた。
「ありがとうございます。サボさんとこに比べたら……って感じですけど。」
「あいつは子供の時から手取り足取り教わったらしいし、年の功ってやつだよ。」
「子供の時のサボさん、知ってるんですか?」
俺の言葉に男は困ったように眉尻を下げて、ゆっくりと珈琲を啜ってから俺を見つめた。
「俺の口からは言いにくいから、機会があれば聞いてみるといい。」
「はあ。」
サボさんの友達だけあって、口が堅い。
その機会に恵まれる日は本当にくるのだろうかとぼんやりしていると……
男は咳ばらいをひとつして、話をもとに戻した。
「まあ、付き合ってたっていっても、何もしてなかったんだけどね。」
「え、何も?」
付き合ってなくったって何かあるのがゲイの恋愛だろうと思いながら男を見つめると、とても幸せそうな顔で微笑んでいるから、それ以上言葉を繋げることは出来なかった。
俺たちの恋愛に、普通なんてものは存在しない。
そのことを改めて感じながら、男の次の言葉を待つ。
「キスもセックスもなかったけど、一緒に暮らしてたし……愛してた。」
この男の蕩けるような表情を見ているだけで、それで幸せだったんだってことが伝わってくる。
男も、きっと愛されていた相手も、すごくすごく幸せだったんだって思いが水のように心に沁みてきて……心からの言葉が漏れた。
「いいなぁ……。」
「え?」
「いや、俺……実は付き合ったことすらないんで、そういうの憧れます。」
「そうか。」
馬鹿にするでもなく、優しく微笑みながらゆらゆらと揺れる珈琲を見つめて、男がそっと息をはく。
愛した男の顔でも映っているかのように、愛おしそうにカップの底をじっと見つめる瞳を見ているだけで、なんだか胸が締め付けられるほど苦しくなる。
ちっぽけなコーヒーカップの中にいろいろな感情が溶けあって、どろどろとした黒色に色を変える。
一言では言い表すことが出来ないほど「愛してた」という言葉には、いろいろな想いが籠っている。
「プラトニックな関係だったんですね。」
「まあ、最初はただ捨て猫を拾うような気持ちで預かっただけなんだけど……俺も大分年上だったし。」
そう言って男は、悪戯が見つかった時の子供ような顔で微笑む。
「ええと……お稚児さん好き、とかではないですよね?」
もしかして、だから手が出せなかったんじゃないかという俺の浅ましい推測をそのままぶつけると、男は目を丸くして驚いてから、思い切り笑いとばした。
「はっははは。でも、そう見られてもおかしくないくらい程、不釣合いだったとは思う。」
「お兄さんも整った顔してますけどね。あ、お世辞じゃないっすよ?一目見ていい男だって思いましたから。」
げっそりと頬がこけてはいるが、今でもなかなかの男前だ。
昔はその辺のモデルなんかよりはいい男だったことは簡単に推察できる。
「ありがとう。でも、俺とは比べ物にならないよ。普通に立っているだけで嫌でも目に入るくらいには、目立つ子だったから……。」
欲目ではなくそう見えたときっぱり断言する男の言葉に、透さんのことを思い出した。
暗い室内でもよく目立ち、ヨーロッパの彫刻のように恐ろしく整った顔だち。
透き通るほど肌は白くて、人形のように美しい。
持って生まれた質が違うと思う人間と初めて出会った衝撃は、あまりにも大きかった。
綺麗な人間は腐るほどいるけど、全身から醸し出すようなオーラを放つ人間はなかなかいない。
透さんのことを思い出しながら男を見ると、まだ愛しているとはっきり表情にかいてある。
その顔を見ているだけで、尖っていた心までも丸く溶かしていくような……そんな心地よさを覚えた。
「なんで、別れちゃったんですか?」
俺の率直な言葉に、男の目に影が出来るのを見て……しまったと思ったが、もう遅かった。
しばらく無言でコーヒーを啜る音を聞きながら、長すぎる間を持て余し、がちゃがちゃとわざと音をたてながら片づけをしていると……男が「ご馳走様」と声をかけた。
空っぽのカップを見つめながら、もう帰るだろうと思っていたが……男は静かに言葉を続ける。
「俺はもう、長くなくてね。」
そう言って悲し気に笑う口元に力はなく、あの日サボカフェで見た疲れ果てた表情と同じだった。
妙な間を開けるのが怖くて、俺はへらっと笑いながら軽く流すことにした。
「え?やだな。お兄さん、まだまだ若いじゃないですか!」
俺が冗談で受け止めようと努めて明るいトーンでそう言うと、男は静かに微笑む。
よく見ると、手の甲に注射の痕が痛々しく残っていて……俺は何も言えずに息を飲んだ。
「最後にしたいことがあって。」
遺言のような男の言葉を一言も聞き逃さないように、耳に全神経を集中させる。
「ひゅうくんは、ヒーローに憧れたことある?」
「は?」
急に話を振られて、意味が分からず固まってしまった。
「仮面ライダーとかウルトラマンとか、戦隊もののヒーローとか……さ。」
「ガキの頃はあったかも……しれないですけど。」
あまり昔の頃は覚えていないが、ガキの頃に砂羽と戦隊ごっこをした遠い記憶を思い出した。
「俺はね。子供の頃はそんなものにまったく魅力に感じなかった。」
「え?」
「親父が警察庁の人間で……正義の味方なんていないって、子供の頃に気が付いたんだ。」
男はひどく冷めた表情でそう言うと、大きく息を吐き出す。
その姿を見つめながら、なんだかひどく寂しくなった。
「でも、あの子に出会って気が変わった。」
「あの子のヒーローになりたくてさ。」
「ヒーロー、ですか……?」
男の意図が分からず首を傾げていると、男の顔がふっと和らぐ。
「いい年こいて何言ってんだって笑うかもしれないけれど、好きな人には格好いいと思われたいじゃん?ガキの頃憧れられていたヒーローみたいに……。」
ガキのように笑う男に俺もつられて笑いながら、男の言葉を静かに待つ。
「まあ、いろいろ試してはみてるんだけど、なかなかうまくはいかなくて……。」
そう話す男の声は先ほどとは対照的に今にも泣きだしてしまいそうなほど揺れていて、本当に泣いているのではと心配になりながら……男の瞳をそっと見つめる。
しかし、男の瞳には輝きがあり、強い意志を感じさせた。
「その人と一緒にいてあげるのは、ダメなんですか?」
きっとこの男に愛されていた男も、最後まで一緒にいたいに決まっている。
そう思って男に告げると、力なく首を振られた。
「それは無理なんだ。」
「それは……難題ですね。」
俺の声が沈むと、男の人は申し訳なさそうにおどけて笑った。
「だろ?」
「あ!サボさんに相談してみるとか?」
「あー、サボにも協力してもらったんだけど、うまくはいかなかった。」
「そう、ですか……。」
「長年の溝は埋めるのには時間がかかる。でも、出来ることはしてあげたいと思ってる。」
サボさんでもダメなら、俺が解決できるような問題には思えない。
無力感を味わいながら空のカップをを見つめていると、男はカウンターに千円札を3枚差し出した。
「おっさんのつまらない話に付き合わせて悪かったね。これでジュースでも飲んで。」
「ありがとうございます。それに、話し相手が俺ですみません。」
もし話し相手が俺じゃなかったら、もう少し年をとったいい大人なら、少しはましな言葉をかけてあげられたかもしれない。
だけど、結局傷つけただけで、何の力にもなれなかった。
「君もあまり気分がよさそうではないのに、悪かったね。」
そう言ってすまなそうに微笑むと、ゆっくりと腰を上げた。
顔には出さないように気を付けてたつもりが、初めて話した男に気付かれてしまっているとは思わず、なんだか恥ずかしくなって苦笑いを浮かべた。
俺の悩みなんて男の悩みに比べたらとてもちっぽけで、話すほどの価値もない。
「いや、俺は……いつものうだうだです。」
「その話にも興味があるけど、今日はもう時間がないんだ。また来るよ。」
そう言うと、すっと右手を差し出された。
握手を求められたのかと思い慌てて手を出すと、その皺だらけの手には名刺が握られている。
それを両手で受け取りながら、名刺に書かれた名前を読み上げる。
「冴木 悠哉(さえき ゆうや)さん?」
「ああ。お陰で楽しい時間だった。」
そう言って、来た時と同じように柔らかい表情で席を立った。
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