5 / 38
恋心1
事務所に戻ると、正志が読んでいた青年誌から顔を上げて吾妻に笑いかけた。
「おかえり~」
「ただいま」
吾妻の顔を見て、眉をひそめて正志は立ち上がった。
「槇さんに何か言われた?」
「え? 槇社長は正志さんの事、センスが良いって褒めてましたよ」
「そう。じゃ、他に何かあった?」
正志は吾妻の頬に大きな手をそっと触れさせて聞いた。吾妻は少し困った顔で苦笑した。
アクアリウム職人だからか、正志は洞察力がある。吾妻の僅かな表情から何か感じたのだ。
「前の会社の先輩に偶然あって……」
「あ。前話してたウザ熱血野郎?」
「そ、そんな言い方してないけど……でも、うん。その先輩です」
「何言われた?」
正志は両手を吾妻の肩に乗せて、心配そうな表情で覗き込んで聞いた。正志はいつだって吾妻を優しく気遣ってくれる。吾妻は胸が温かくなった。
「今の仕事先、居心地良いんだな、良かったなって。僕、本当に正志さんと正一さんには感謝しています。こんな僕を受け入れてくれて」
「そんなこと……」
正志は吾妻をぎゅうっと抱きしめた。
「こんな僕なんて言うんじゃないよ。優雨ちゃんは人よりちょっと繊細なだけ。それに真面目で優しいんだ。俺こそ、ありがとう。優雨ちゃんにはすっごく癒されてるから」
耳元で囁かれる言葉に気恥ずかしくなり、吾妻は少しふざけた調子で言った。
「癒されてるって、ウーパールーパーみたいに?」
「それも可愛いけど、クラウン・アネモネフィッシュかな」
「ニモの魚だね」
「うん。あのアニメの魚。くりくりして可愛い。優雨ちゃんは可愛い」
「可愛くないよ」
時々、正志は吾妻を子供扱いをして可愛いと言う。
確かに男性としては背は低いし華奢な方だが、吾妻は30を越えた成人男性だ。可愛いと言われると複雑な気持ちになる。
「可愛いよ。不器用で真面目で、すぐ落ち込んじゃうところも。笑うと子供みたいな顔になるのも」
「それ褒めてるの?」
吾妻は正志の腕の中から抜け出ようとして、また強く抱き寄せられた。
「褒めてるよ。俺、優雨ちゃん大好きだよ」
「僕も正志さんと正一さんの事、大好きです」
「なんで親父……」
「あ。ご飯食べに行くんでしょう? 何が食べたいですか?」
「……インドカレーかタイカレーかカツカレーかカレーうどん」
「カレーが食べたいんですね?」
「うん」
結局、ふたりは近所のタイ料理屋でグリーンカレーを食べたのだった。
タイ料理屋を出て、遠慮する吾妻を部屋まで送ってから正志は家へと歩いた。
───前の会社の先輩。
吾妻から聞いていた。会社を辞める時に最後まで引き止められたと言っていた。
よく飲みに誘われ、酒が入るとベタベタと触られたとも。家にも訪ねてきていたが、会社を辞めた吾妻は気不味く感じて、居留守を使って会わないようにしていたのだ。
吾妻は面倒見が良い体育会系のノリだと思っているようだが、違うだろう。その先輩とやらは吾妻に気があったはずだ。
何故そう思うのかというと、正志も吾妻に想いを寄せているからだ。
世間一般的に吾妻の容姿は地味で冴えないと言われる部類だろう。前の会社では、トロくて会話のつまらない男だと、同僚からも馬鹿にされていたようだ。
だが、吾妻の顔立ちは透明感があり、清楚で可愛らしくも見える。世に蔓延る肉食女子と違って、控えめで可憐だった。
三年前、あの水槽の前で泣いていた吾妻に正志は一目惚れをした。
あのアクアリウム……『孤独と自由』は正志自身の事だ。
正志はゲイだ。十代の頃にはうっすらと気付いていたが、正志は女にモテたし、誤魔化すように派手に女と遊んでいた。
正志はずっと同級生の男友達に想いを寄せていた。女とセックスしながら、友人の淫らな顔を想像していたのだ。その事に罪悪感を感じながら、それでも友人への秘めた恋心は消えることはなかった。
友人は当時付き合っていた彼女とデキ婚をして、仕事で北海道に引っ越して行った。遊びに来いよと言われたが、一度も訪ねていない。
長年想い続けた友人を失い、正志は女遊びをやめて男遊びに走った。一夜限りのセックス相手が男になっただけだが、欲望を誤魔化す事はやめた。
父親は何となく気付いているようだが、正志に対して何も言わなかった。
気ままなセックスを楽しみ、好きな仕事をする。仕事はやりがいがある。
自分を偽り、女相手にセックスをする事をやめて解放された。
だけど───虚しい。
そんな気持ちの時に脳裏に浮かんだのが、あのアクアリウムだ。
正志の『孤独と自由』の前で、はらはらと静かに涙を零す吾妻は綺麗だった。
まだ誰にも汚されていない、森の奥深くにある澄みきった湖のように。
話してみると、吾妻は少し天然で可愛らしかった。笑うと子供みたいな顔になる。自分よりも年上だと知って驚いた。
正志はふと足を止めて、マンションの三階の吾妻の部屋を見上げた。
好きだ。
もう三年も片想いをしている。正志はモテるが、好きな相手と付き合った事も、抱き合った事も無い。
だから吾妻に想いを伝える事が怖かった。このまま、ただ側に居られるだけでもいい。そう思った。
しばらく吾妻の部屋を切なげに見つめていたが、諦めたように視線を落とし、正志は歩き出した。
ともだちにシェアしよう!