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恋心1

事務所に戻ると、正志が読んでいた青年誌から顔を上げて吾妻に笑いかけた。 「おかえり~」 「ただいま」 吾妻の顔を見て、眉をひそめて正志は立ち上がった。 「槇さんに何か言われた?」 「え? 槇社長は正志さんの事、センスが良いって褒めてましたよ」 「そう。じゃ、他に何かあった?」 正志は吾妻の頬に大きな手をそっと触れさせて聞いた。吾妻は少し困った顔で苦笑した。 アクアリウム職人だからか、正志は洞察力がある。吾妻の僅かな表情から何か感じたのだ。 「前の会社の先輩に偶然あって……」 「あ。前話してたウザ熱血野郎?」 「そ、そんな言い方してないけど……でも、うん。その先輩です」 「何言われた?」 正志は両手を吾妻の肩に乗せて、心配そうな表情で覗き込んで聞いた。正志はいつだって吾妻を優しく気遣ってくれる。吾妻は胸が温かくなった。 「今の仕事先、居心地良いんだな、良かったなって。僕、本当に正志さんと正一さんには感謝しています。こんな僕を受け入れてくれて」 「そんなこと……」 正志は吾妻をぎゅうっと抱きしめた。 「こんな僕なんて言うんじゃないよ。優雨ちゃんは人よりちょっと繊細なだけ。それに真面目で優しいんだ。俺こそ、ありがとう。優雨ちゃんにはすっごく癒されてるから」 耳元で囁かれる言葉に気恥ずかしくなり、吾妻は少しふざけた調子で言った。 「癒されてるって、ウーパールーパーみたいに?」 「それも可愛いけど、クラウン・アネモネフィッシュかな」 「ニモの魚だね」 「うん。あのアニメの魚。くりくりして可愛い。優雨ちゃんは可愛い」 「可愛くないよ」 時々、正志は吾妻を子供扱いをして可愛いと言う。 確かに男性としては背は低いし華奢な方だが、吾妻は30を越えた成人男性だ。可愛いと言われると複雑な気持ちになる。 「可愛いよ。不器用で真面目で、すぐ落ち込んじゃうところも。笑うと子供みたいな顔になるのも」 「それ褒めてるの?」 吾妻は正志の腕の中から抜け出ようとして、また強く抱き寄せられた。 「褒めてるよ。俺、優雨ちゃん大好きだよ」 「僕も正志さんと正一さんの事、大好きです」 「なんで親父……」 「あ。ご飯食べに行くんでしょう? 何が食べたいですか?」 「……インドカレーかタイカレーかカツカレーかカレーうどん」 「カレーが食べたいんですね?」 「うん」 結局、ふたりは近所のタイ料理屋でグリーンカレーを食べたのだった。 タイ料理屋を出て、遠慮する吾妻を部屋まで送ってから正志は家へと歩いた。 ───前の会社の先輩。 吾妻から聞いていた。会社を辞める時に最後まで引き止められたと言っていた。 よく飲みに誘われ、酒が入るとベタベタと触られたとも。家にも訪ねてきていたが、会社を辞めた吾妻は気不味く感じて、居留守を使って会わないようにしていたのだ。 吾妻は面倒見が良い体育会系のノリだと思っているようだが、違うだろう。その先輩とやらは吾妻に気があったはずだ。 何故そう思うのかというと、正志も吾妻に想いを寄せているからだ。 世間一般的に吾妻の容姿は地味で冴えないと言われる部類だろう。前の会社では、トロくて会話のつまらない男だと、同僚からも馬鹿にされていたようだ。 だが、吾妻の顔立ちは透明感があり、清楚で可愛らしくも見える。世に蔓延る肉食女子と違って、控えめで可憐だった。 三年前、あの水槽の前で泣いていた吾妻に正志は一目惚れをした。 あのアクアリウム……『孤独と自由』は正志自身の事だ。 正志はゲイだ。十代の頃にはうっすらと気付いていたが、正志は女にモテたし、誤魔化すように派手に女と遊んでいた。 正志はずっと同級生の男友達に想いを寄せていた。女とセックスしながら、友人の淫らな顔を想像していたのだ。その事に罪悪感を感じながら、それでも友人への秘めた恋心は消えることはなかった。 友人は当時付き合っていた彼女とデキ婚をして、仕事で北海道に引っ越して行った。遊びに来いよと言われたが、一度も訪ねていない。 長年想い続けた友人を失い、正志は女遊びをやめて男遊びに走った。一夜限りのセックス相手が男になっただけだが、欲望を誤魔化す事はやめた。 父親は何となく気付いているようだが、正志に対して何も言わなかった。 気ままなセックスを楽しみ、好きな仕事をする。仕事はやりがいがある。 自分を偽り、女相手にセックスをする事をやめて解放された。 だけど───虚しい。 そんな気持ちの時に脳裏に浮かんだのが、あのアクアリウムだ。 正志の『孤独と自由』の前で、はらはらと静かに涙を零す吾妻は綺麗だった。 まだ誰にも汚されていない、森の奥深くにある澄みきった湖のように。 話してみると、吾妻は少し天然で可愛らしかった。笑うと子供みたいな顔になる。自分よりも年上だと知って驚いた。 正志はふと足を止めて、マンションの三階の吾妻の部屋を見上げた。 好きだ。 もう三年も片想いをしている。正志はモテるが、好きな相手と付き合った事も、抱き合った事も無い。 だから吾妻に想いを伝える事が怖かった。このまま、ただ側に居られるだけでもいい。そう思った。 しばらく吾妻の部屋を切なげに見つめていたが、諦めたように視線を落とし、正志は歩き出した。

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