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逃げた魚1

それからしばらくして、槇の依頼のアクアリウム製作に正志は取り掛かった。 水槽の形やデザイン、熱帯魚の色や大きさなど。藤が言ったように、槇は妥協はしなかった。 だが、やりがいがある。正志は槇の仕事に集中した。 その間、他の顧客のメンテナンスは正一が行う事になった。正志本人でなければならない内容以外の打ち合わせは吾妻が行く事になり、忙しくなった。 ある夜、吾妻は打ち合わせの後、槇に飲みに付き合うよう言われた。吾妻は酒があまり飲めないが、誘われたのが正志がデザインしたアクアリウムのあるバーだったので付き合うことにした。 正志はこの店の常連で、個人的な付き合いからアクアリウムのデザインをしたと聞いている。吾妻は初めて入る店だった。 「あ……」 吾妻は奥のアクアリウムを見た。透明感のある美しいアクアリウムだった。 水の中の正志の世界だ。 「ああ。清古のアクアリウムだ。あれを見て気に入って、俺の店の水槽も清古に頼む事にしたんだ」 奥のカウンター席に座るよう促されて、吾妻はスツールに腰掛けた。槇はブランデーのロックを注文した。 「何なら飲める?」 「あ、あの、本当にお酒は弱くて……」 「じゃあ軽めのカクテルを頼む」 槇は藤にそう言って、吾妻の方に向き直した。 「清古はどうだ?」 「はい。順調に進んでいます。お探しの熱帯魚も仕入れ完了しました」 「そうか。仕事が早いな」 槇の満足そうな声に、吾妻は嬉しそうにはにかんだ。 槇はじっと吾妻の顔を見た。平凡な顔だ。だが、笑うと少女のように可愛らしくなる。 何度か会ううちに、吾妻の今時珍しい誠実さと擦れてなさに槇は好感を持つようになった。 「あの水槽。清古の好きな奴をイメージしたらしいな」 「えっ?」 ───好きな人? この三年、正志には恋人はいない。好きな人がいるというのも初めて聞いた。 恋愛は個人の自由だが、秘密にされていたのかと思うと吾妻の胸がチクリと痛んだ。 今では一番気を許せる友人だと思っていたのに……吾妻ではなく、何故、槇に恋愛相談をしたんだろうか。 少し悲しい気持ちになってしてしまい、吾妻はぐいっとカクテルを飲み干した。 「おい。無理するなよ」 「だ、大丈夫です。甘くて美味しいです」 吾妻はもやもやした感情を隠すように、無理にニコリと微笑んだ。 藤が「ありがとうございます。もう一杯、いかがですか?」と勧めてきた。 「はい」 「なんだ。意外と飲めるんじゃないか」 槇はくいと片眉を上げて笑って、少し頬を赤くした吾妻の顔をじっと見つめた。 正志の想い人はこの吾妻かと思った。あのアクアリウムの雰囲気と似ているのだ。 正志に好きな人がいると聞いて吾妻は動揺している。吾妻は知らなかったようだ。 ……俺の勘違いか。 正志は華やかで人懐っこい男だ。ゲイだとしても男にもモテるだろう。 本当に吾妻を好きなら、さっさと口説いてモノにしているはずだ。 槇はバイだ。男でも女でも、気に入った相手と寝ていた。吾妻の事は気に入っているが、セックスの相手としては色気が足りない。 吾妻を見て、平凡な女と結婚して穏やかな家庭を築くのが向いている男だと思った。 その吾妻は二杯目のカクテルを飲んで……すっかり酔い潰れてしまった。 「おいおい。マジか。こんなに弱いくせに無理に飲むことなかったんだぞ」 ぐでんぐでんになった吾妻を槇が支えるようにして店を出た。 「無理なんて、ひてない、れす。美味しか……」 「おい。タクシー拾ってやる。家はどこだ」 「家? 僕の……?」 一人称が『私』から『僕』になった。 相当酔っている。槇はため息をつきたくなった。 「僕のうち……ぼくの……」 「こら。寝るな。」 吾妻はぐずぐずと夢の世界に旅立っている。槇は大きくため息を吐いて、吾妻を抱きかかえた。

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