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逃げた魚2
……ふわふわする。
吾妻は背中に柔らかなベッドの感触を感じた。寝心地の良いベッドに横たわっているようだ。
「ん……」
少し苦しくて襟元に触れたら、誰かがネクタイを外して、シャツのボタンも外してくれた。
吾妻はホッと息を吐いた。胸元のボタンを外した手が吾妻の頬を撫でた。
「大丈夫か?」
温かい大きな手のひらだ。正志はよく落ち込んだ吾妻の頬を優しく撫でてくれる。これは正志の手だ。いつ自分を迎えにきてくれたんだろうと思った。
「正志さん?」
吾妻はその手に頬をすり寄せるようにして正志の名を呼んだ。手のひらがぴくりと動きを止めて、次に何かが唇に触れた。
「ふ……ぅ、ん……」
ぬるりと口内に入ってきたそれに驚いて、吾妻は目を見開いた。霞がかった頭が一瞬でクリアになる。
「んんッ!!」
誰かが覆いかぶさって、吾妻の唇を塞いでいる。吾妻は相手の胸をドンッと叩いた。唇が離れて、相手が顔を上げた。
「ま、槇社長?」
自分の上にいるのは槇だった。吾妻は混乱しながら槇を見上げた。
「酔いは覚めたか?」
「え? あの……なにが……僕は……ここは?」
にやりと悪い笑みを浮かべて、槇は吾妻の体の上から退いた。吾妻はゆるゆると部屋の中を見回した。
「すみません……僕、酔ってしまって……槇社長の家ですか?」
それにしては……なんというか怪しい雰囲気だ。黒に赤いラインが入ったシックな壁紙。キングサイズのベッドの向かいには大きな鏡がある。右手にはガラス張りのバスルームで、風呂場が丸見えだ。
「そんなわけあるか。ラブホテルだ。この部屋はいかにもすぎて人気がイマイチでな。今夜は空いてた」
「は? ラブ……」
「歩けないくらい酔っぱらってたからな。近くのラブホに入ったんだ」
───ラブホテルだって!?
吾妻は真っ赤になって跳ね起きたが、頭がぐらぐらして再びベッドに突っ伏した。
「おい。無理するな」
「す、すみません。ご迷惑を……」
吾妻は情けなくて泣きそうな気持になる。槇は笑って立ち上がり、冷蔵庫からミネラルウォーターを出した。
「ラブホは初めてか?」
「は、はい」
「清古とは行かないのか?」
「?」
なぜ正志の名前が出てくるのか、吾妻は不思議そうに槇を見上げた。
「さっき清古の名前を呼んだだろ。随分、色っぽい声だったぞ。やっぱりお前、清古のオンナだろ?」
槇の言う事が理解できず、吾妻は槇も酔っているのだと思った。
「あの、僕は男です。槇社長も酔ってるんですか?」
「……」
槇はじっと吾妻を見ながらミネラルウォーターを口に含むと、再び吾妻に覆いかぶさってきた。
「槇しゃ……!?」
唇を合わされ、冷たい水を口移しで飲まされた。吾妻は硬直してされるがままになっていた。
槇は吾妻の唇をぺろりと舐めて顔を上げて、吾妻の顔をまじまじと見つめた。
平凡で色気の無い男だと思っていたが、先程の正志を呼ぶ甘い声に少しそそられたのだ。
それに、介抱する為とはいえ、こんな場所で他の男の名を呼ばれたのは気に入らない。ちょっとからかってやろうと思い、吾妻に口付けてみた。
吾妻は硬直して、唖然と槇を見上げている。
……本当に清古とデキてるってわけじゃないのか?
吾妻はあのアクアリウムのイメージそのものだ。それに甘えるように微笑みながら正志の名を呼んだ。
だが、キスされた吾妻の反応は男を知っているようには思えない。
「よ、酔ってるんですか? 僕、男ですよ。吾妻です。ほら、吾妻ですよ」
その言い方が可愛らしくて、槇は思わず笑った。
「そんな事は分かってる。お前、意外と可愛い男だな」
「えっ? あの……あの……」
からかうだけのつもりだったが、このまま吾妻とセックスするのもいいかもしれないという気持ちになった。
清古のお手つきでないならば構わないだろう。槇はセックスに対して節操の無い方だ。
それに、吾妻とセックスしたからと行って仕事に私情は持ち込まない。
「あの……んぅ!」
槇は笑ったまま吾妻にキスをした。舌を差し入れ、ねっとりと絡めた。ビクリと吾妻の細い体が跳ねた。
「ん! ん!……うっ……やむぇ……ふぅ、ん!」
吾妻の弱々しくもがく様子に更にそそられた。槇が普段セックスするのは男も女も積極的な相手が多い。こんな風に抵抗されるのは新鮮だし、逆に興奮した。
「……今夜、付き合え」
「ん、は……っ……なにを……どこ……つきあう?」
「セックスだ。男は初めてか?相手が俺で良かったな。俺は上手い方だぞ」
「は、え!? セッ……!?」
吾妻は真っ赤になって、すぐに青ざめた。
「やめてくださいッ!! 男同士でセックスなんて、できませんから! よ、酔ってるんでしょ!?」
必死に暴れ出した吾妻を抑え込みながら、槇は低いセクシーな声で囁いた。
「男同士でもケツを使ってセックスできる。教えてやるから大人しくしろ。お前、処女だろ。優しくしてやるから……」
「け……!? な、な、なんてこと言うんですか!? 離して! 離せッ!」
「うっ!」
暴れる吾妻の膝が槇のみぞおちに当たった。槇の腕の力が緩んだ隙に吾妻はベッドから転がり落ちるようにして逃げ出した。
「あっ! ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?き、今日は酔ってたってことで忘れますから! さようなら! 失礼しますっ!」
叫ぶように言って、吾妻は慌てて部屋から逃げ出していった。ひとり残された槇は唖然とドアを見つめた。
逃げられた。
男だろうが、逃げられた事など無い。
槇は自分の容姿が魅力的な事は理解している。多少強引でも大抵の男は槇に身を任せた。
しかもあれだけ酔っていたのに、吾妻は恐怖すら感じている表情で槇から逃げ出したのだ。
「……あの平凡。覚えてろよ」
槇は不適に笑ってスマホを手に持ち、電話をかけた。数回のコールで相手が出た。
「よぉ。暇なら203号室に来ないか? 逃げられた」
『逃げられた? 社長が?』
「来るのか? 来ないのか?」
『行きま~す。なんか面白い話聞けそうだし』
通話を終えてスマホをソファに放った。このホテルは槇の経営するラブホテルだ。槇はバー以外にもラブホテルを経営していた。少し高級志向で女性誌などでも話題になっているホテルだ。
呼びつけたのはこのホテルを担当している吉岡という青年で、セックスフレンドだ。吉岡はさばさばした性格で槇とは付き合いが長い。
セフレの中には金持ちで色男の槇を独占しようとする者もいるが、吉岡は自分自身が束縛を嫌う質で槇とは気が合っていた。吾妻に煽られた熱を吉岡相手に発散しようと思ったのだ。
ふと見ると、吾妻が忘れていった手帳が床に落ちていた。
慌てていて鞄から落としたのだろう。パラパラとめくると、ご丁寧に自宅の住所、名前、電話番号まで書いてあった。
槇はハハッと笑って、几帳面な字で書かれた住所を見つめた。
「……忘れ物は届けてやらないとな」
その時、部屋のチャイムが鳴った。槇はドアを開けて、すぐに吉岡を抱き寄せてキスをした。
吾妻は乱れた服装のまま、急いで大道路に出てタクシーを拾った。運転手に住所を告げて、タクシーが走り出したところで体の力を抜いた。
こんなことは初めてて、膝がカクカクと震えた。
男が好きな男……ゲイの男性がいる事は知っているし、差別的な感情は持っていない。けれど、いざ自分が性的対象に見られたことで軽くパニックになってしまった。
「ど、どうしよう……」
槇に膝蹴りをかまして逃げ出したのだ。吾妻はサーッと青くなった。槇は大口の仕事相手だ。正志に迷惑がかかってしまう……!?
でも、槇社長も酔っていたに違いない。明日。明日、謝りに行こう。
吾妻は小さく震える手をきゅっと握って、きつく目を閉じた。
不安でたまらないが、こんなこと正志には相談できない。自分でなんとかしなくては……。
家に着いた吾妻は電池が切れたように、ベッドにダイブして泥のように眠ったのだった。
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