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203号室1

槇本人の言った通り、槇は仕事に私情を挟まなかった。身構えていた吾妻が拍子抜けするくらいに。 ……やっぱり、からかわれていただけだったんだ。 美丈夫の槇に本気で誘われるなどと受け取ってしまった事を、吾妻は恥ずかしく思った。そして、より一生懸命に仕事に励んだ。 槇は注文が細かく、正志も工房に缶詰め状態だった。 そんな正志を見て、吾妻も頑張ろうと思う。槇の冗談を真に受けてオロオロなどせずに、きっちり大人の対応をしなくては。 金曜日の夜。槇から見て欲しい物があると言われ、吾妻は初日に打ち合わせをしたカフェに向かった。 カフェに入ると槇はカウンターで店員と話していた。客の女達はチラチラと槇に熱い視線を送っている。 少し危険な香りのする大人の色気を漂わせる整った顔。スラリと脚が長く、高級なスーツを見事に着こなしている。低い声も男らしく魅力的だった。 吾妻はセールで買ったくたびれたスーツを着ている自分のことを恥ずかしく感じた。 比べようもないくらい、自分には魅力が無い事なんて分かってるじゃないか。 「お。来たな」 槇は入り口に立つ吾妻に気付き、こちらに歩いてきた。 「槇社長?」 「行くぞ」 「え? どこへ……」 槇は何も言わず、スタスタとカフェを出て行ってしまった。吾妻は慌てて槇を追いかけた。 「え……こ、ここは……!?」 目的の場所は数日前に酔っ払った吾妻が連れ込まれたラブホテルだった。 「どうした?」 「ま、槇社長! あの、こうゆう冗談は私には無理です! いい加減にしてください!」 ───い、言っちゃった。 言い切った後、吾妻の唇は緊張から小さく震えていた。その様子に槇は思わず吹き出してしまう。 「わ、笑わないでください!」 「いや、すまない。本当に仕事の話だ。ここは俺の経営するホテルだ。内装について話がしたい」 「えっ?」 「なんだ、知らなかったのか? 清古は知ってるぞ。ほら、ついて来い」 ホテルに入って行く槇を、吾妻は慌てて追った。槇は勝手知ったる様子でスタッフルームに入っていく。 「あ、社長」 休憩中だったらしい吉岡がコーヒーを飲んでいた。ゆるいウェーブのかかった栗色の髪の綺麗な顔立ちの青年だ。槇のセックスフレンドでもある。 「例の熱帯魚屋の営業の吾妻だ。吾妻、こいつは支配人の吉岡だ」 「あ、はじめまして。吾妻です」 吾妻はオロオロしながらもペコリと頭を下げた。その様子に吉岡の唇に笑みが浮かぶ。 「吉岡です。うちの社長、自己中で大変でしょ。無茶言われたら俺に言ってくださいね。まぁ、俺にも社長は止められないんだけど」 あははと笑う吉岡の気さくな雰囲気に吾妻は少し緊張を解いた。 「おい。203は空いてるな」 「はい」 吉岡はカードキーを槇に渡した。キーを受け取った槇は「ついて来い」と、エレベーターホールへ向かった。 あの時は酔っていてあまり覚えていないが、エレベーターホールや内装は上質で清潔感があり、言われなければラブホテルだと分からないくらいだ。 二階でエレベーターを下りて、203号室に入る。 「あっ……ここは……」 あの夜の部屋だ。吾妻は顔を赤らめたが、槇は気にせず聞いてきた。 「この部屋どう思う? いかにもすぎて人気が無いんだ」 「えっと……」 どうと言われても分からない。これまでラブホテルなぞ利用した事も無いのだから。 「この部屋を改装して清古のアクアリウムを入れたいと思っている」 「えっ!? ら、ラブホテルに!?」 吾妻は驚いて、つい声に出して言ってしまった。槇は軽く咎めるように吾妻を見た。 「ラブホテルなんかに清古のアクアリウムを置きたくないって思ったのかもしれんが、儲かってるんだぞ」 「い、いえ。そんな風には……」 「お前。どんな奴がここを利用してると思ってるんだ?」 「えっと……」 正直、全く分からない。吾妻は眉尻を下げて情けなさそうな顔で槇を見上げた。その顔が小動物みたいで可愛いかったので、槇は少し笑って話を続けた。 「例えばだ。子供が中学生になって子育てが少し落ち着いた夫婦がいる。まだいちゃつきたい年齢だが、思春期の子供がいる家では難しい。そんな時にラブホを利用する。ちょっとだけ高級なホテルで日常を忘れて、恋人時代に戻ったように気分を変えて楽しむんだ。どうだ? 夫婦円満にもなるだろう」 「な、なるほど。そうなんですね」 吾妻は感心したように槇を見た。 実際は若いカップルや不倫カップルなどもいるが、この説明の方が吾妻は納得するだろうと思った。 男の経験はもちろん無いだろうが、女とも無いのかもしれない。処女で童貞か。そんな初心な男を抱くのも楽しめるかも……そう考えるとつい、くたびれたスーツの下の吾妻の裸体を想像して舐めるように見てしまう。 ───いかん。まずは仕事の話だ。 槇は軽く咳払いをして、吾妻から視線を外した。 「今度、新しいホテルを作る。リゾートホテルのような高級感のある作りで、エステルームもある。桐島の系列エステだ」 「えっ」 桐島といえば、オーナーがテレビにも出ている有名なエステティック系列だ。 「一歩ホテルに入れば、外国のような内装にしたい。ラブホテルとしては高いが、リゾートホテルよりは割安。別にセックス目的じゃなく、女同士でも、観光客でも宿泊できる。この部屋の内装が客にうければ、新しいホテルのアクアリウムは清古に任せる。ばんばん宣伝するから、清古の名も売れるぞ」 槇の話を聞いて、ラブホテルなんかに正志のアクアリウムを置きたくないと思った事を申し訳なく感じた。 「ありがとうございます。私は物知らずで……申し訳ありません。すごく、素敵だと思います」 吾妻は微笑みながら槇を見上げた。

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