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破滅1
バーに設置されたアクアリウムに槇は満足した。他の店舗とホテルのアクアリウムも正志に正式に依頼してきた。
これから正志は急激に忙しくなる。
「バイトを雇わなきゃなぁ」
父親と二人では厳しくなってきた。
熱帯魚のチョイスや手配、アクアリウムのデザインは正一や正志がやるが、水槽の溶接や人工サンゴ礁の作成など、手伝いや雑用を頼める人間を雇う必要がある。正一の言葉に正志は少し考えてから言った。
「でも信頼できて仕事ができる人間じゃなきゃダメだよ。とりあえず、メインは俺がやって、外注で間に合うところは知り合いに頼もう。槇社長のところは、ホテル以外は急ぎの仕事じゃないし。それよりもイベントの方が先だ」
ある映画の試写会イベントで正志のアクアリウムが展示されることになったのだ。
槇のホテルの例の部屋の改装に合わせて製作するアクアリウムは期限が決まっているが、他のバーのアクアリウムは急いでいるわけではなかった。
試写会用のアクアリウムは槇の依頼品と同時進行していたが、槇の方は一段落したので、こちらを集中して仕上げる必要があった。
ミニシアター系の映画を撮る監督だが、今回、人気急上昇中の若手俳優を起用した事で話題になっていた。
この監督も正志の「孤独と自由」を見ていて、強く印象に残っていたのだという。試写会の会場に幻想的なアクアリウムを展示したいのだと依頼されたのだ。
水槽は二つ。愛と破滅、それぞれのテーマでアクアリウムをデザインしていた。
〈愛〉がテーマのアクアリウムはほぼ完成している。今度は〈破滅〉のアクアリウムの仕上げに取り掛かる。正志には難しいテーマだった。
───破滅。全てが壊れてしまうこと。
正志は自分の想いを押し殺して、現状を維持している。
吾妻に想いを告げて、今の関係が壊れてしまうことが怖い。正志は誰よりも破滅を恐れていた。その恐れを、水の中の世界に表現するのだ。
「……難しいんだよねぇ」
正志はぽつりと呟いた。
「大丈夫。正志さんなら大丈夫ですよ」
顔を上げて見ると、吾妻が微笑んで正志を見つめていた。
正志の胸が切なく締め付けられる。お世辞ではなく、吾妻は本当に自分のことを信じているのだ。正志は吾妻の顔を見つめ返して、二カッと笑って答えた。
「ありがとう。優雨ちゃん」
それから三日間。正志は工房に籠っていた。
その間、吾妻は上原や槇から食事に誘われていたが、やんわりと断っていた。
正志が製作に集中している時に、誰かと出かける気にはなれなかった。
それに槇の事も上原の事も、相変わらず苦手なのだ。なぜ、あのふたりが吾妻にかまうのか理解できなかった。
そして試写会前日。
会場に正志のアクアリウムが設置された。破滅の水槽には一匹の熱帯魚だけ。ベタのハーフサンだ。
ベタは闘争本能の強い魚で闘魚としても有名だ。正志が選んだのはオーペイクホワイトと呼ばれ、パステル系のホワイトに比べ、より純白に近い色をした珍しいタイプだ。
全てを失い、燃え尽きたような色だと思った。水草やオブジェのレイアウトも破滅後の世界をイメージしていた。
〈愛〉の水槽と対極にあるような雰囲気に監督も満足していた。
「やっぱり清古さんにお願いして正解でした」
「よかった~! そう言ってもらえて肩の荷が下りましたよ」
「美しいアクアリウムを作れる人は他にもいるけど、なんというか……こう、胸が締め付けられるような……こんな風に切ない世界は清古さんにしか作れないと思うんです」
正志は照れたように、ガシガシと頭をかいて笑った。
吾妻も正一と一緒にアクアリウム設置を手伝いに来ていた。
それぞれのアクアリウムを見て、吾妻は〈愛〉がテーマの水槽の方が好きだなと思った。あのバーに置いてある透明感のあるアクアリウムに似ているのだ。
いつまでも見ていたくなる、透き通った水の中の世界だ。
「吾妻?」
じっとアクアリウムを見ていると、後ろから声をかけられた。振り返ると上原がいた。
「う、上原先輩? どうして……」
「監督が高校の同級生で友達なんだよ。明日の試写会は仕事で行けないから、今夜ちょっとだけ飲みに行こうって話で」
前祝いでな、と上原は笑って言った。
この映画は話題になっている。きっと成功するだろう。
「そうなんですね」
「まさかまた吾妻と会うなんてな。やっぱり俺と吾妻は縁があるんだなぁ」
嬉しそうな上原の言葉に吾妻はどう返してよいか分からず微笑んだ。
本当に何故か縁がある。苦手な人付き合いから逃げるなというサインだろうか、と吾妻は思った。
「優雨ちゃん?」
「あ、正志さん」
正志が吾妻の元へ歩いてきた。
「お友達?」
「あ、前の会社の先輩で、お世話になっていて……」
正志はピンときた。例の先輩だなと思い、笑顔で上原に手を差し出した。
「そうなんですね。清古です。優雨ちゃんに来てもらってすごく助かってます。うちと水があってるみたいで、優雨ちゃん水を得た魚みたいなんですよ」
「上原です。ああ……そうなんですね。昔から吾妻は真面目で一生懸命だからな」
正志の手を握り返し、上原も笑顔で言った。だが、目は笑っていなかった。
その事に吾妻は気付かなかったが、正志は分かった上でさらに言った。
「優雨ちゃんのこと、今でも気にかけてくれてありがとうございます。でも心配いりませんよ。なんの問題も無いですから。逆に俺が助けられてるくらいです。うちは優雨ちゃんがいないと回りませんよ」
「ま、正志さん」
褒めちぎる正志に吾妻はオロオロとしていた。そんな吾妻の肩を抱いて、正志は上原を見て言った。
「優雨ちゃんも監督に挨拶して。一緒に帰ろう。明日は朝一で最終確認だし。じゃあ、これで失礼しまう」
「あ、上原先輩。失礼します」
「……ああ。またな」
吾妻もぺこりと頭を下げて、正志に連れられてその場を去った。その後ろ姿を上原は暗い瞳で見ていた。
翌朝、試写会当日。
正志と吾妻は最後の手直しに朝一で会場に来た。吾妻は特に手伝えることは少ないのだが、試写会で一緒に映画を観れるよう正志が手配してくれていた。
「あ、清古さん!」
会場の入り口までスタッフが慌てて走ってきた。
「どうしたんです?」
「大変です! 水槽が……!!」
「!?」
急いで会場に入ると───
「なっ!?」
〈破滅〉の水槽の水が赤黒く汚れていた。たった一匹のベタも死んで浮かび上がっていた。中のレイアウトもぐちゃぐちゃにされている。
「そんな……どうして、誰がこんなこと……ッ!?」
吾妻は水槽を見て真っ青になった。
正志はもう一つの水槽を確認したが、めちゃくちゃにされているのは〈破滅〉の水槽だけだ。
「さっき、一番に会場入りしたスタッフが見つけたんです。警備員にも確認してるんですが……いつ誰がこんな事をしたのか……」
「……犯人捜しは後だ。急いで直さないと」
正志は正一に電話して、必要な物を伝えて持ってきてもらうよう頼んでいた。
だが問題は魚だ。ハーフサンのベタは珍しい。ましてやオーペイクホワイトだ。熱帯魚店でもあまり店頭に出ていない種類なのだ。すぐに用意できる代わりになるような魚を見つけなければ。
「あ。あの、槇社長のバーのアクアリウムの魚は?」
「ああ、同じベタでもキングテールだけど……」
正志は少し考えて、「黒でもアリかも。槇さんとこのは強くてセクシーな感じのを選んだけど、逆に黒のキングテールでも合うと思う。合わせて水槽のレイアウトも変えれば……」と言った。
槇のバーには店内の大きなアクアリウムともうひとつ、カウンターに置かれたワインボトルのデザインをアレンジして作られた小さな水槽があった。
ボトルの中には漆黒の美しいキングテールのベタが一匹。特に美しく、艶やかで大きな個体だった。
「僕、槇社長に今日だけ貸してもらえるよう頼んできます!」
「優雨ちゃん!?」
「正志さんはアクアリウムに集中して!」
そう叫んで吾妻は走り出した。
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