21 / 38

破滅2

  試写会場を飛び出した吾妻は槇に電話をした。槇は自宅にいるというので、タクシーを拾って教えられたマンションに向かった。 マンションの前でタクシーを下りて、インターフォンを鳴らした。 「入れ」と短い声がして入口のドアが開いた。吾妻はエントランスを駆け抜けてエレベーターに乗り、12階の槇の部屋まで急いだ。 「早いな」 苦笑いの槇に出迎えられて、吾妻は慌てて頭を下げた。 「も、申し訳ありません! こんな、朝早くに!」 「ああ、構わない。電話を切ってからここまで早かったな、と言ったんだ。まあ、入れ」 「あ! あのっ、電話でもお話したのですが、あの、ベタをお借りしたくて」 焦る吾妻を尻目に槇はリビングに戻ってしまった。吾妻は急いで靴を脱いで部屋にあがる。 「コーヒー飲むか?」 「ま、槇社長。本当に申し訳ないと思っています。でも、時間が……」 槇は切羽詰まった様子の吾妻を面白そうに見ていた。あのバーの魚一匹、貸すことなど何でもない。 だが、必死に縋りつくような眼差しで自分を見る吾妻を、もう少し困らせてやりたくなった。 「うちも客商売だしなぁ。酒を飲む店だといってもディスプレイも重要なんだ。それを急に貸せといわれても……」 「それはっ……本当に、ご迷惑をおかけする事になってしまって、申し訳ありません! ですが、急なトラブルで、すぐにでも代わりが必要なんです。あのバーのキングテールのベタ。今すぐ代わりになるようなイメージの魚があのベタだけなんです。お願いします!!」 吾妻は泣きそうな顔で深く頭を下げて必死に言い募る。 ……いじめすぎたか。 槇は吾妻の悲壮な顔を見て、少し哀れに感じた。 最初から魚一匹くらい貸してやるつもりだった。じらすのはこのくらいにしてやろうと思ったとき…… 「ま、正志さんのアクアリウムをたくさんの人に見てもらえるんです。どうか、お願いします」 ───清古のためか……。 吾妻の口から正志の名が出た事で槇の機嫌は悪くなった。いつだってそうだ。 無理矢理迫ったあの日から、吾妻は槇に怯えている。だが、吾妻は正志の為に槇との仕事を続けているのだ。 「……条件がある」 「なんですか!?」 吾妻はバッと顔を上げた。 「俺と付き合ってもらう」 「えっ?」 「前から誘っていただろうが。少しの間だけ、俺と付き合ってもらおうか」 「は、え? それは……どうゆう……?」 困惑した吾妻の体を抱き寄せ、軽く口付けた。 「こうゆう意味だ」 「なっ……!?」 真っ赤になった吾妻から手を離して「無理なら他を当たれ」と、突き放すように言った。 「だが、時間が無いんだろう?」 「そんな……無理です。僕には……。他に、他にできる事はありませんか?!」 「そんなに深く考えるな。2~3回、俺とセックスしてくれればいいだけだ。酷い真似はしない。お前も楽しめると思うぞ?」 槇は毒を含んだ艶やかな笑みを浮かべて吾妻を見つめた。半分はからかいで、半分は本気だった。 吾妻が断ったとしても魚は貸してやるつもりだ。正志の仕事ぶりは槇も気に入っている。だが、簡単には落ちそうにない吾妻を追い詰めて味合うことにも惹かれていた。 この平凡な男の悲痛な表情にそそられているのだ。嫌がれば嫌がるほど、逃げれば逃げるほどに、なぜか追いたくなる。吾妻にはそんな魅力があった。本人は無自覚だが。 「……ほ、本気ですか?」 「ああ。早く決めろ。清古がお前を待ってるんだろ?」 正志の名を聞いて、吾妻はビクリと肩を揺らした。そうだ。正志のためにも、早く戻らなくてはいけない。 「……に、2回だけ、ですか?」 「まぁ、お前とのセックスの具合による」 槇のあからさまな言い方に吾妻は羞恥に頬を赤く染めて俯いた。 怒って出て行けばいいものを……。 こんなふざけた条件を吾妻は飲むつもりだろうか。槇は興味深く吾妻を見ていた。最初は戯れだったのに……自分の言葉に揺さぶられる初心な吾妻のことを本気で欲しいと思った。 「……ゎ……わ、かりました……」 「本気か?」 「……だから、だからお願いします! あのバーのベタを貸してください!」 吾妻は深く頭を下げた。他の男の為に身を差し出そうとする吾妻に、槇自身も後に引けなくなった。 こんな卑劣な真似など、今までした事はない。まるで槇の方が吾妻には振り回されているかのようだ。 「いいだろう。約束だ」 「……」 吾妻は蒼白になって小さく震えている。槇はため息をついて、車のキーを手に取り、吾妻に「行くぞ」と言った。 「え……」 「今すぐどうこうする気はない。魚がいるんだろ? 送ってやる」 「あ、ありがとうございますっ!!」 吾妻は大きな声で礼を言い、玄関へ向かう槇を追いかけた。

ともだちにシェアしよう!