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昼間の情事4
二度も抱かれた吾妻はシャワールームを出た頃にはぐったりとしていた。
槙に抱きかかえられたまま眠ってしまったらしい。数時間後に吾妻は仮眠室のベッドで目覚めた。
「ん………あれ? 僕………!?」
時計を見るともう夕方の六時過ぎだ。
吾妻はぎょっとして跳ね起きて、裸のままだった事に気付き、真っ赤になった。
吾妻のスーツはきちんとハンガーにかけられていた。吾妻は立ち上がり、急いでスーツを着て仮眠室を出た。
「槙社長、すみません!」
槙は仕事をしていたようで、パソコンから目を離さず「おはよう」と言った。
一人、寝てしまっていた自分が情けなくなる。
「もう夕方だがな」
槙は顔を上げて吾妻に笑いかけた。男から見ても魅力的な笑顔だ。
槙には経営者のオーラというか、どっしりと構えていて人を落ち着かせる雰囲気があった。
こんな関係じゃなければ、吾妻は槙に憧れていただろう。
………それなのに、どうしてあんな最低な真似をするんだろう。
「コーヒーを淹れてくれるか?」
「はい」
吾妻は給湯室でコーヒーを淹れて槙に運んだ。
「ありがとう。少し待ってくれ。区切りがついたら飯に行こう」
「あの、お手伝いできることはありますか?」
「じゃあこれを」
吾妻は槙を手伝い、七時過ぎに事務所を出て歩いて食事に出かけた。
連れてこられたのは個人でやっている小さな居酒屋だった。槙はお洒落な店にばかり行っているのだと思っていたので、吾妻は少し驚いてキョロキョロと店内を見回した。
「なんだ?」
「いえ、意外で………槙社長はイタリアンとか、あの、お洒落なお店なばかり行ってるイメージがあって」
槙は笑い声を上げて吾妻を見た。
「お洒落といえばイタリアンか? お前、テレビや雑誌好きの女みたいだぞ」
「なっ………」
真っ赤になった吾妻の顔に、また槙は笑った。
「酒が飲めて飯が美味ければいい。ここはどっちも美味いんだ」
槙は靴を脱いで座敷に上がり、崩した胡座で座った。そんな姿も様になっていた。
吾妻も靴を脱いで正座で座った。ちょこんと座ってかしこまっている吾妻に槙はまた笑った。
「リラックスしろ」
「は、はい」
居酒屋の店主の奥さんらしき女性がおしぼりとお通しを持ってきた。
「槙社長。いらっしゃい。もー相変わらず男前やなぁ!」
吾妻はその女性を見てちょっとびっくりした。
黄色に黒のゼブラ柄、真ん中にゴリラのプリントがされたTシャツを着ていたのだ。
「ビールをくれ。それとモツ煮とセンマイ、天麩羅盛り合わせ。吾妻は烏龍茶でいいな?」
「は、はい」
「こっちのお兄ちゃんは初めましてやね。可愛い顔して、学生さん?」
関西訛りの奥さんは小太りでパッチリした目をしていた。若い頃は美人だったのだろうという雰囲気で、人を和ませる明るい笑顔だった。
「立派な社会人だ。これでも三十越えてるんだぞ」
「ほんまに? めっちゃ若いやん! お肌ツルツルやんなぁ。羨ましいわ」
笑いながら戻っていったおかみさんの後ろ姿には、リアルな虎のイラストがプリントされていた。
「強烈な柄だろ。いつもあんな感じなんだ。今日のTシャツは何だ? って名物になってる」
「そ、そうなんですね」
「いい人だぞ」
「そうですね」
奥さんの笑顔にさっきまでの緊張が解れていることに、吾妻は気付いて微笑んだ。自然な笑顔の吾妻に槇はメニューの紙を渡した。
「好きなものを頼め。だし巻き卵も美味かったぞ」
「あ、はい。ありがとうございます。せっかくだから、だし巻き卵食べてみようかな」
吾妻は店主の味のある筆文字で書かれた和紙のメニューを見た。
「あ、軟骨唐揚げも頼んでいいですか?僕これ好きで………」
メニューから顔を上げると、槇が優しい眼差しで吾妻を見ていた。
吾妻はいつも槇と一緒にいる時は緊張して身を固くしていた。だが、今は珍しく肩の力が抜けて、自分の事を『僕』と言っている。
「ああ、好きなだけ頼め」
吾妻は思わずドキドキしてしまい、目線をメニューに戻した。
それにしてもおかしな状況だ。槇は脅すように強引に吾妻を抱いた。
散々泣かされたというのに、今は不思議と穏やかな空気が二人の間を流れている。
「は~い。ビールとウーロン茶。槇社長の大好きなモツ煮とセンマイ。天麩羅はちょっと待ってね」
「ありがとう。だし巻き卵と軟骨唐揚げも頼む」
「は~い。うちのだし巻き卵美味しいんやで。お兄ちゃん、びっくりするでぇ。それからねぇ、ポテトサラダもオススメやで。インカのめざめ使てるからね」
「じゃ、じゃあポテトサラダもお願いします」
「はいは~い」
奥さんの勢いに押されて思わず追加注文してしまった吾妻に槇は苦笑した。
「お前、断っていいんだぞ」
「でも、美味しそうだったし………」
吾妻が照れたような、拗ねたような顔をしたので、槇はまた笑った。その顔がひどく幼く見えて可愛らしかった。
吾妻は槇が今まで付き合ってきた女とも男とも違う。新鮮で楽しかった。
吾妻が相手だと何故か強引に泣かせるような真似をしてしまうが、もっと笑った顔も見たいと思った。
九時過ぎに居酒屋を出て、槇は吾妻を連れてタクシーを拾いに大通りに出た。少し酔った槇は車を置いてタクシーで帰る事にした。
吾妻は電車で帰ると言ったが、槇に強引にタクシーに押し込まれてしまった。
「さっさと俺から離れたいのか?俺でも傷付くぞ」
「そんなわけじゃ………あ、タクシー代は払います」
「いいから黙ってろ」
槇は運転手に吾妻の住所を告げて、後部座席に体を沈めた。そして、隣に座る吾妻の手を握った。
「あ、あの」
「なんだ?」
「手を………」
吾妻は運転手を気にして、槇に手を離してほしいと訴えたが、槇は逆に吾妻の強く握った。
「槇社長」
「悪くはないだろう?」
「え?」
「俺といるのも、そんなに悪くはないだろ」
「………」
吾妻は何と答えていいか分からず、黙ったままでいた。自分の手を握る槇の大きな手を意識しながら。
吾妻のマンションの前に着いて、タクシーから降りようとした時、槇が吾妻を強く引き寄せてキスをしてきた。
「んんッ!」
なんで!? 運転手さんもいるのにっ!
吾妻は慌てて逃げようとするが、槇の腕に捕まり、思うさま舌を吸われた。
「………は、あ、離して下さい!み、見られてます」
「ああ? 慣れてるだろ。気にするな」
「気にします!」
「可愛いな、お前は」
「あ、やめ………ぅんッ………んん!」
槇は笑って再び口付けて、ねっとりと舌を絡めた。逃げることを諦めた吾妻は、睫毛を震わせて槇の口付けを受けていた。
ようやく槇の唇が離れた時、吾妻は目尻を赤く染めたセクシーな表情をしていた。槇の喉がゴクリと鳴った。
「か、帰ります」
「………明日も午後からでいい。また迎えに行く」
ようやく吾妻を解放した槇は、らしくない自分に少し驚いていた。
酒は飲んだが、それほど酔ってはいない。だが、何故か吾妻と離れがたい気持ちになっていた。
「あの、今日はごちそうさまでした。失礼します」
吾妻はぺこりと頭を下げてタクシーを降りた。マンションの前で槇の乗ったタクシーが走り出し、角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、吾妻は長いため息を吐いた。
………どうして?
戸惑いながら部屋に戻ろうと振り返ると、
「吾妻」
名前を呼ばれて心臓が止まりそうになった。
「う、上原先輩!?」
上原が怪訝な顔で吾妻を見ていた。
なんでここに!? み、見られた!?
槇とのキスを見られたかもしれない。吾妻は血の気が引いていくのを感じた。
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