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獲物 5

春の本来は、母親と同じ色彩を持っているのか…。 頭の中で黒髪を銀髪に、黒目を碧色の瞳に変える。 衝撃的だ。この世の物とは思えない完璧な美しさが、そこにはあった。 坂田から春の過去についての話を更に聞いて、資料を受け取り、料金を支払って事務所を後にした。 調査費用と別に横浜までの交通費と、なぜか宿泊代まで請求されたが、期待以上の働きをしてくれたため、文句を言わずに支払った。 相変わらずがめつい男だ。 春の過去というのは、幼稚園から小学校卒業までの話だ。 町内で評判の美少年だったようで、当時からそこに住んでいた住人はみな春を知っていたという。 異民族が極端に少ない島国日本で、銀髪に碧色の目はそれだけで注目を浴びた。その上あの比類なき容姿だ。 邪な事を考える大人の一人や二人いてもおかしくない。 誘拐未遂や、ストーカー被害、暴行未遂などが度重なった為、両親はボディガードを張り付け、善良な町内の人間も協力しあい春の動向を注意して見守っていたのだと言う。 春の変装の理由は、そこにあると向田は思った。 両親は考えたはずだ。年を重ねる毎に美しく成長していく息子が、他者に脅かされることなく平穏に暮らす為にはどうしたらよいか。 そうして出した結論が、目立つ特徴を、隠すというものだったのだろう。 無駄な注目を浴びないという意味では、一定の効果はあったようだが、整った目鼻立ちや、内面から溢れる魅力は隠すことが出来ない。 春の虜になっている人間は、自分以外にも数多くいるだろう。 その人間が、春の本当の姿を知ったら、どうなるだろう。 おそらく、春への気持ちを押さえつけることは最早できなくなるだろう。 春の容姿は、変装していたとしても、向田にとっては100点満点だった。それが、本当はもっと美しいのだと知った今、春を求める気持ちがより一層高まり、押さえきれない欲望が渦を巻く。 今すぐに触れたい、あの身体に。そして、高まり続けるこの欲望を、春の奥深くに刻み付けたい。 * その日の夜、約束のホテルで獣のように茜を抱いた。 春の代わりなどには到底ならないが、高ぶり続け悲鳴をあげていた欲望の一部を吐き出すことはできた。 「今日の副社長、すごかった…。」 気怠い表情でシーツを身体に巻き付けた茜が声をかける。 向田はというと、熱を放った後すぐに朱音から離れ、軽く後始末をしてシャワーに向かおうとしていた。 「久しぶりだったからね」 物欲しげに見上げる茜を振り返り、微笑んで答える。 もう用無しの茜の顔なんか見たくもないし、さっさとシャワーを浴びて帰宅したいというのが本音だったが、向田は表面上はとても紳士的に振る舞う。 これまで誰に対しても本気になることがなく、数多のセックスフレンドと同時進行させるのが常だった向田は、そうすることが、まるで癖のように身に付いていたのだ。 心の中はどす黒く、セックスする相手を人として尊重する気持ちを少しも持っていなかったが、表面上紳士的に取り繕うことで女は皆自分の思うがままに動くという事を知っているからだ。 女は簡単に騙される。微笑み、ほんの少し優しい言葉をかけてやれば、面白いくらい簡単に手の内に堕ちてくる。 「茜があんまり素敵だから、少し張り切り過ぎて、汗をかいてしまったよ。シャワー、浴びてくるな」 茜は嬉しそうに頬を染め、もう、孝市さんったら、と恥ずかしそうにシーツに顔を埋める。 そういう女性のいじらしい姿を、かわいいなと思わないこともないが、ただの感想に終わる。 愛おしいとも、手に入れたいとも思わない。心に深く入ってこないのだ。 この心を乱すのは、春だけだ。 言ってみれば、向田にとって春は初恋なのだ。 恋とは、こんなにも苦しいものだったのか…。 昼も夜もなく相手を想い、心の奥底から渇望する。 その存在の全てが欲しい。自分だけを見て欲しい。誰にも触れさせたくない。愛しい、愛しい。 春を手に入れる為なら、何だってできる。 そうだ、これは愛だ。 向田は、本当の愛を知らない。相手の幸せを願うことを、知らない。 自分の気持ちを遂げる為には、相手を不幸にするかもしれないことに、何の躊躇も罪悪感もないのだ。 ただただ、己の幸せのみを追及している。 向田の愛は、真実の愛ではなく、異常な執着心と、独占欲からなる身勝手な欲望の塊であったが、向田はそれを愛と定義してしまった。 もう、誰も向田を止めることはできない。 * 次の日。 向田は社内のラボに顔を出していた。 尋ね人は研究員の須藤若菜である。 彼女も、向田のセックスフレンドの一人だが、中でもとりわけ地味で、大人しく従順な性格だった。 向田は、薬剤師免許も持っているため、最近ではめっきり少なくなったが、以前はラボで研究を手伝うこともしばしばあった。 その時に若菜と知り合った。 向田の甘いマスクと、跡取りというおごりを感じさせない紳士的な態度に、純朴な若菜は絆された。 恋愛経験の少ない若菜は、すぐに向田を好きになり、真っ直ぐにその気持ちを伝えたが、誰とも付き合う気はないと断られた。 しかし、すぐに向田からこう言われた。「今は一人だけを愛することはできないけれど、それでもよければ、君と愛しあいたい」 その悪魔の囁きに耳をかさなければ、そして、向田に更にのめり込んだりしなければ、若菜はこんなにも苦しむことはなかっただろう。 しかし、すでに賽は投げられた。 若菜は、向田の姦計の重要な手駒として動くことになる。 * * 天井を飾る豪華なシャンデリアに、シックなバーカウンター。 ゆったり座れる高級ブランドのソファーに、大理石のローテーブル。 テーブルの上には、飲みかけの2組のシャンパングラスが並んでいて、グラスの中ではまだ泡沫が弾けている。 隣の寝室のキングサイズのベッドの上では、一組の男女が縺れあっていた。 日中、向田がラボの若菜を訪ねたのは、若菜との相瀬の約束をとりつけるためだった。 これまで連れてきたことのない高級ホテルの、スイートルームを予約したことを告げると、かなり驚いた顔をしていたが、頷いてくれた。 精一杯愛していると思わせるように、いつも以上に優しく、丁寧に抱いた。 挿入よりも愛撫に時間をかけ、愛撫よりも口づけに力を入れた。 狙い通り、若菜はこの雰囲気に、甘い時間に、蕩けていた。 念押しで、いつもは決して言わない「愛してる」という言葉を、何度も耳許で囁いてやった。 ピロートークにも時間をかけ、すっかり若菜に惚れきっている男を演じた。若菜の猜疑心が全くなくなった頃合いを見計らって、話を切り出す。 「若菜、実はお願いがある」 「どうしたの?」 若菜が腕枕越しにこちらを見上げる。 その瞳に向田を疑う色はない。 「椎名薬品工業って、知ってる?」 「ええ、もちろん。ファミシルを出してる会社よね?」 「そう。実は、父さんが、あの会社を欲しがってる」 若菜の蕩けきっていた瞳が、徐々に正気を取り戻してきた。 「俺は、若菜と結婚したいと思ってる」 「え…?」 若菜が驚愕に目を見開く。 「でも…こんな副社長なんて中途半端な地位で、若菜にプロポーズすることは、できない」 向田はしおらしく俯いて見せた。 「そんなっ、そんなの、関係ない!私は…」 「ごめん、若菜。俺の、ちっぽけなプライドが許さないんだ。若菜の両親に会うときも、ちゃんと社長として会って、安心させてあげたいし、君を社長婦人として妻に迎えたいんだ」 「でも…」 若菜が見つめてくる。言外に、社長婦人の地位なんて望んでないと訴えている。 「それで、さっきの話なんだけど」 「椎名、薬品工業…?」 「あぁ。M&Aを持ち掛けたいと思ってるんだ」 M&A――企業買収である。 「でも、あの会社の経営状態は悪くないんじゃ…」 「そうなんだ。それで、君に、協力して欲しい」 若菜をしっかりと見詰める。 お前は、Noとは言わない。絶対に。そうだろう? 「そんな、私には何もできないわ」 「いいや、君にしかできないことだ。優秀な研究者の君にしか」 「まさか…でも、私には…」 「頼む。俺を、社長にしてくれ。椎名が取れたら、父さんも認めてくれる筈だ。君と、結婚したいんだ」 「孝市さん…」 若菜は俯き、暫く何かを思案した。 向田は静かにその時を待つ。 どうせ答えは決まってるんだろ? 若菜がついに決意を持った表情で顔を上げた。 「わかりました。何をすれば?」 * 向田は自宅マンションの大きなガラス張りの窓から、摩天楼を見下ろしている。 新宿の一等地に建つこのマンションの最上階が向田の部屋だ。 春を落とす姦計は、着々と進み始めた。 今日は一つの大きな駒を動かすことに成功した。 あとはこの駒の働き次第ということになる。 大切に大切に扱い、労ってやらねばな。 向田は、若菜に椎名薬品工業にスパイとし潜入することを頼んだのだ。 もちろん、表向きは向田製薬を円満に退職し、椎名薬品工業に転職する形となる。 怪しまれないよう細心の注意を払って、若菜の退職をわざと噂にし、あちらからヘッドハンティングしてくる様仕向けることにした。 他の製薬会社からも打診があるだろうが、若菜が断ればいいのだから。 若菜は向田製薬でいくつもの薬品開発に主として携わった優秀な研究者だ。 これからの躍進にすべてがかかっている若い椎名薬品工業が、これを逃すはずはない。 さあ、かかれ。この蜘蛛の巣に。 * * * 3週間後、若菜から、椎名薬品工業に就職したと連絡が入った。 ヘッドハントされて、あまりあっさりと応じると、今後の動きを怪しまれる火種となる可能性もあるため、なるべく時間をかけて交渉するよう指示していたのだ。 あとは若菜に、椎名の内部情報を探ってもらい、弱味や、不正を見つけ出せればこちらのものだ。 問題がなければ、作ればいい。 椎名が落ちるのも時間の問題だな。 それでも最短で1年程はかかるか。 1年近くも春に触れられないなんて、耐えられるのか…。 愛しているよ、春。 愛しているから、耐えて見せよう。 その先は、ずっと一緒だからね…。 * * * 更に2週間の後、この日は各製薬会社のトップ達が集うパーティーが開かれていた。 「こんにちは。ええと、椎名さんですよね。先ほど、挨拶でお名前を知りました。貴社の最近の躍進は目覚しいですね。あ、私はこういう者です」 向田は、椎名拓弥と対面していた。 名刺を差し出すと、拓弥も同様に差し出してくる。 「向田製薬の副社長さんでしたか。恐縮です。よろしくお願い致します」 「あぁ、堅苦しいのは無しにしましょう。すいません、突然。あまりこういう席に若い方は来ないので、嬉しくなって声をかけてしまいました」 人のいい笑顔を作り、少しおどけた調子で話す。 受けはよかったようで、拓弥も破顔する。 「ありがとうございます。私もこういうパーティーは初めてで、若いかたがいて心強いです。いつもは忙しくて副社長に出席してもらってたんですが、せっかく東京に出てきたので、人脈を広げておきたくて出席させてもらいました」 「そうだったんですね。私は一応、この業界は長いので、知ってる顔ばかりです。紹介しますよ。きっと、他の会社も、椎名薬品工業の若き敏腕社長の話を聞きたがると思います。当然、私も気になります」 「助かります。よろしくお願いします」 向田と拓弥は、このパーティーを境に急接近した。 向田の中に、どす黒い野望が宿っていることに、拓弥は気づく由もなく…。

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