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休息 1

長い夏休みがあっと言う間に終わり、新学期が始まってもう1週間が過ぎていた。 9月は、暦の上では秋だが、まだまだセミは大合唱しているし、真夏並みに暑い。 夏休み中に行われた中体連の全国大会では、惜しいところで優勝を逃したが、全国の猛者達と試合ができたことで、向上心が刺激された。 全国には自分の実力では敵わない相手がまだまだたくさんいることがわかって、悔しかったが、いい経験になったなと素直に思っている。 「他に意見のある人ー?」 教室の壇上にいるのは、教師ではなく、クラスの文化祭実行委員だ。 HRの時間を使って、10月に行われる文化祭のクラスの出し物を決めているのだ。 黒板には、これまでに出された案がいくつか書かれている。 お化け屋敷、縁日、演劇、女装喫茶…。 最後のだけは嫌だな。 「それじゃあ、意見がないようなので、これまで出た中から多数決をとりまーす。挙手してください。ではまず、お化け屋敷…」 春は、一番無難そうと判断した縁日に手を挙げた。 黒板に正の字が書かれていく。 6人か。お化け屋敷には勝ったけど、無理そうかも。 次の演劇にもちらほらとしか手が挙がらず、もしやと思っている内に、女装喫茶の番になり、示し合わせたように女子全員の手が挙がった。 * HR終了の鐘が鳴る。 今日の授業はこれで終了で、これからは部活動の時間だ。 「女装喫茶とか、サイアクーだよなー」 このクラスになってから仲良くしている高階が隣から声をかけてきた。 「俺、絶対裏方がいいな」 頷きながら苦笑していると、1年の頃からの友人藤本恭哉が近づいてきて言う。 「春は絶対表だろ。ってか、看板娘?」 「はぁ?やだよそんなの。恭哉がやればいいだろ」 「俺がやったら、ただキモいだけじゃん。春がかわいーく接客すれば、俺たちのクラス1位になれるかもよ?」 「なれる!絶対なれるな!」 二人は人の悪い笑みを浮かべている。春をからかって楽しんでいるのだ。 「言ってろよ、もう。そろそろ俺、部活行くな」 「もうそんな時間か。がんばれよー」 「おう」 春はスポーツバッグを掴み、教室を出る。 二人とも、あまりベッタリとせずにあっさりさっぱりと付き合ってくれるので、春は二人を気に入っている。 両親にも誰にも黙っていたが、小学校6年の時、親友だと思っていた相手から身体をまさぐられたことがある。 春の部屋で、二人で、テレビゲームをしていた時の事だ。 何が引き金になったのかは分からない。親友が突然コントローラーを放り出したかと思えば、気がついた時には既に床に押し倒されていたのだ。 初め、何をされているのかわからず、ふざけているのだと思って笑っていたが、その触り方が、以前公園で男に暗がりに連れていかれた時の触られ方と同じだと気づいて、全力で抵抗し、なんとか親友の身体の下から這い出した。 親友は、本当はずっとこうしたかった。ごめん。と言い置いて部屋を出ていった。 一人取り残された春は、混乱した頭を必死に整理していた。 ずっと…って、何だよ。 俺は、親友だと思っていたのに、あいつにとって俺は、友人ですらなかった…? あの、公園の男や、車に引きずり込もうとしてきた男達と同じ目で、ずっと俺を見ていたというのか…? 俺は、親友だと思っていたのに。 信頼していたのに。 それからその友人とはお互い気まずくなり、一言も話すことなく春は東京へと引っ越した。 春の中であの出来事は一種のトラウマとなっていた。 全く知らない赤の他人から脅かされるのと、信じきっていた友人に同じことをされるのとでは、与えられる衝撃が違った。 自分ばかりがあんな目に合うのは、どこか自分に非があるのではないか、そう思い始めた時、両親に変装を打診され、あぁそうかと思った。 この、人と違う目と髪の色がいけなかったのか。 両親は変装させることを申し訳なさそうにしていたし、何度も春の髪と目の色を誉めてくれたが、春は二つ返事で受け入れた。 この黒いカツラと、黒いコンタクトレンズを着けるだけで、もうあんな目に合わないのだと思えば、煩わしさも気にならなかった。 新しい学校では、皆と同じ姿で心機一転やり直そう。きっと上手くいく。 そう思っていたが、春の負った心の傷は、そんなに簡単に折り合いをつけられるものではなかった。 人と深く関わる事を、無意識に拒絶していたのだ。 信じきって、また裏切られたら…? そう思うと、一歩引いた態度を取ってしまっている自分に気づいた。 周囲は、春のことを、「誰に対しても公平で、優しい」と評していたが、それは、つまり、親しい友人に対しても、ただのクラスメイトに対しても同じ態度ということで、誰も深くまで寄せ付けるつもりはないという意思表示の様なものだった。 * 部室に向かう途中で、紫音と合流した。 誰にも心を許していない春が、唯一心を開きかけている相手が、紫音だった。 出会ってまだ数ヵ月しか経っていない後輩の紫音に対して、何故?と思うこともあったが、理屈ではなく、居心地がいいのだと思う。 「ハル先輩、文化祭の出し物決まりました?」 「あー…、うん、決まった」 「何やるんすか?俺、見に行きますよー」 「来ない方がいいかも」 「何でっすか?絶対行きますよー!」 「…女装喫茶なんだよ」 紫音が僅かに顔をひきつらせた。 「じょ、女装って、ハル先輩も…?」 「んー、わかんね。けど、たぶん」 紫音は、今度は頬を赤くしたかと思えば今度は青くして、言った。 「それ。ハル先輩はしない方がいいんじゃ…」 「だよな。俺、背高めだし、気持ち悪いよな。でも、そういうのが見せ場なんだろ、女装って」 「基本的にはそうですけど…てか、ハル先輩気持ち悪くないですからね!」 紫音が何故かむきになって言う。 気持ち悪いからやめた方がいいって言ったんじゃないのか?まぁどっちでもいいけど。 「そう言う紫音のとこは、何やるんだ?」 「うちは、普通に縁日ですよ」 「俺もそれがよかったんだけどなぁ」 「ハル先輩、うちのクラスに遊びに来てくださいよ!」 「あぁ、時間があったら行くよ」 紫音はやったーととても嬉しそうにしている。その姿を見ていると、なんだかこっちまで嬉しくなる。 自然と笑顔になった顔を見て、紫音が言った。 「ハル先輩、その顔、反則っす」 * なんだかんだと話している内に部室に到着し、挨拶しながらドアを潜る。 中には、この夏で引退したはずの3年の柏木先輩がいて、着替えるでもなくロッカーの前に立っていた。 「柏木先輩、お疲れです。今日はどうしたんですか?」 春が声をかけながら、自分のロッカーに向かう。柏木は、何故か春のロッカーの前あたりに立っていて、自然、春と柏木の距離が近くなる。 「なんだ、青木も一緒だったのか。…いやー、勉強ばっかで身体がなまっちゃたから、ちょっと身体を動かそうと思ってさ」 「今日練習に出てくれるんですか?」 「あ、あぁ、そのつもりだけど」 「助かります。まだ基礎練の組み合わせが上手くいかなくて…」 2学期から新体制となったバスケ部では、春が副キャプテンを務めていた。キャプテンに、との声も高かったが、普段ポイントガードとしてスタメン出場している米田の方が、指示慣れしていてキャプテンにふさわしいと春が推薦し、このような形となったのだ。 柏木は、夏まで副キャプテンだった男だ。 歴代で使われている練習内容が書かれたノートを広げ、2人で話している。 紫音は、この柏木という先輩が気に入らなかった。自分の事を棚にあげてしまうが、何かと春にかまいたがり、ボディタッチも多い。 今も、必要ないだろうに春の耳許に唇を寄せてしゃべっている。 柏木の春を見る目も嫌だ。 ねっとりと絡み付くような視線を向けていることがある。 春は、何も気づいていないのだろう。真剣に話を聞き、頷いている。時折耳許で囁かれるのは冗談かなにかなのか、クスクスと笑みを浮かべている。 気に入らない。 ハル先輩に馴れ馴れしい柏木も、無邪気に笑っているハル先輩も。 これは、嫉妬なのか…? 男のハル先輩相手になぜそんな感情を抱く? 紫音は前から疑問だった。自分の春に対する気持ちを、何と定義したらいいのかわからない。いや、定義したくないのかもしれない。 春といると、自然と笑顔が増えるし、楽しい。 春の笑顔を見ると、胸が高鳴り、頬が熱くなる。 それに、春を守ってやりたいと思う。 柏木の様な、春を変な目で見る男達から、守りたい。 さっき女装喫茶の話を聞いたときに思ったことも、春を守らなければということだった。 春の女装を見てみたい気持ちもあったが、今以上に変なのを惹き付けないでほしいという気持ちの方が勝った。 女装が見たい?なぜ? 守りたい?なぜ? これは、恋愛なのか…? いや、違う。 俺が好きなのは、ハルちゃんだけだ。 幼い頃に1度だけ言葉を交わした女の子。 銀色の柔らかそうな髪に、碧色の瞳の、天使の様なあの子だけだ。

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