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休息 2
紫音と「ハルちゃん」の出会いは、紫音が小学1年の夏休みに遡る。
隣の長谷川さんの家に、1週間ほど預けられていた子供が、ハルちゃんだった。
初めて見たときは、本当に天使かと思った。
紫音は、夏風邪を患い、1階の和室で一人寝ていた。
ふと目が覚めて窓に目を向けると、抜けるような白い肌に、キラキラと光を弾く銀髪、宝石の様に輝く碧い目を持った美しい天使が庭にいた。
目を擦り、暫く観察していると、天使なんかではなく、人間の子供であることがすぐにわかった。
紫音の実家は旧家で、日本庭園風の広い庭があったのだが、その庭で、石を拾って池に投げたり、虫を追って走り回ったり…。相当はしゃいだのか、よく見ると、服は所々泥で汚れているし、右頬の辺りにも黒い泥汚れが付いていた。きれいな見た目と、子供っぽさのギャップが微笑ましくて思わず笑ってしまう。
さすがに泥だらけになって遊ぶ様な天使はいないだろう。人間だと思うと安心したのか、熱に浮かされていた身体は睡魔に勝てず、いつの間にか眠ってしまっていた。
次に目覚めたときは夕方で、すっかり熱は下がっていたが、もう天使もどきは庭にいなかった。
名前だけでも聞いておけばよかった、と悔やみながら庭に出ると、白いハンカチが落ちていた。
拾ってみると、端の方にマジックで「春」と書かれていた。
この漢字なら読める。「ハル」だ。
そうか、あの子はハルちゃんと言うのか。
*
その日の夕方仕事から帰ってきた母親に、昼間のハルちゃんの事を話すと、意外なことに母親はハルちゃんを知っていた。
「あの子、ハルちゃんって言うのね。隣の長谷川さんのお宅に、先週あたりからかしら?預けられてる子よ。この間、長谷川さんの家の前で一人で遊んでいたから、ほら、あんなかわいい子が道端にいたら危ないでしょ?家の庭で良ければ自由に入ってきて遊んでねって言っておいたのよ。でも、そう。今日、遊びに来てくれたのね」
「なんでおしえてくれなかったんだよ!」
「何でって、だってあなた、朝から晩までバスケバスケで、ちっとも家にいないから。知ってたら、バスケに行かないで、あの子と遊んでたの?」
「あたりまえだろ!」
「あら、まあ。やだ。紫音ってば、あの子に恋しちゃった?」
「うるせぇ!そんなんじゃない!」
「顔が赤いわよ…あ、でも、あの子確か明日親御さんが迎えに来るって言ってたわ」
「え…明日…?」
その日はなかなか寝付けなかった。
俺とハルちゃんには、明日しか時間がない。朝一番に起きて、長谷川さんの家に行くんだ。そして、何処に住んでるかとか、色々聞いて、いつか遊びに行くんだ。
明日への期待に眠れぬ夜を過ごし、目覚めたのはなんと昼の12時だった。寝付いたのが相当遅かったのだろう。目覚まし時計の音にも気づくことなく熟睡していた。
大急ぎで顔を洗い、歯を磨いて長谷川さんの家へと向かった。
息を切らせて長谷川さんの家の前に着くと、ちょうど玄関が開いて、ハルちゃんと、ハルちゃんの両親らしき人が出てくる所だった。ハルちゃんのお母さんは、ハルちゃんと同じ髪と目をしていて、すごくきれいだった。
いきなり息を切らせて現れた紫音に、3人は驚いていた。
ハルちゃんは今日も綺麗で可愛かった。こちらをじっと見つめてくるので、ほっぺたが熱くなってくる。
恥ずかしくなって、ぶっきらぼうにハンカチを差し出した。
「これ。お前のだろ?」
ハルちゃんはハンカチに目を向けると、ニコッと笑って受け取った。
「ありがとう!どこに落としたかなーって探してたんだ」
「あんまりはしゃぎすぎるからだろ」
「え?」
ハルちゃんは首を傾げている。昨日見られていたなんて思いも寄らないのだろう。
紫音が答えないでいると、ハルちゃんはキョロキョロと辺りを見回し、道ばたに咲いていた姫紫苑(ヒメジオン)を1本折ると、ニッコリ笑って紫音に差し出してきた。
「ハンカチの、お礼だよ」
――かわいすぎる。
紫音の心臓がけたたましく鳴り、全身から汗が吹き出すのではないかと思うくらい、全身熱くなった。
目線を合わせられないまま、ゆでダコのように真っ赤な顔で花を受けとると、来たときと同じように走ってその場を去った。
あのままハルちゃんの側にいたら、心臓が飛び出してどうにかなってしまうのではないかと思ったのだ。
住所も何も聞けていないが、後で長谷川さんに聞けばいいやと甘く考えていた。
紫音は、この時の行動程、何かを悔やんだことはこれまでにない。
真っ赤な顔でも、例え心臓が飛び出したとしても、きちんと聞いておけばよかったのだ。
あれ以降、ハルちゃんが長谷川さん宅に現れることはなかった。
頼みの綱の長谷川さんが、ハルちゃんが帰って行ったあの日の次の日に、長い海外出張とやらに出て、今現在も帰ってこないのだ。
おそらく、もう海外に永住しているのだろう。
紫音の初恋は、実らなかった。
しかし、あれからもう6年たった今でも、紫音は「ハルちゃん」を忘れられずにいる。
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