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休息 3

そうだ、俺が好きなのはハル先輩でなく、ハルちゃんなんだ。 紫音は自分に言い聞かせる。 確かに、ハル先輩と初めて出会った時、その顔立ちがどことなくハルちゃんに似ている気がして、ハルちゃんに会えない寂しさを埋めるように春のことをハル先輩と呼び始めたが、当然、ハル先輩はハルちゃんではないし、そもそもハル先輩は男なんだから。 好きとかそう言う気持ちじゃないんだ。でも放っておけない、守ってあげたい先輩。 あー、もう、定義なんてどうでもいい。 俺は、俺のしたいようにする! とりあえず、目の前の柏木を、どうにかする! 「柏木先輩」 柏木は、邪魔物の紫音の呼び掛けに返事もせずに、不機嫌そうな顔を向けた。 「顧問が、柏木先輩が出てきたら、呼んでほしいって言ってました」 「山下先生が?俺に何の用があるんだよ?」 「そこまでは知りません。俺は呼ぶように言われただけですから」 「っち、わかったよ」 柏木は乱暴に立ち上がる。春がそれを見上げて言った。 「先輩、忙しいのに引き留めてしまってすいません」 「いや、全然。俺は山下先生に何の用もないのに。…また顔出すからさ、聞きたいことがあればいつでも言えよ?」 柏木は不機嫌な顔を一瞬にして消して春に笑いかけると、またな、と部室を出て行った。 「あ、もうこんな時間だ。早く着替えよう」 ふと時計を確認した春が慌てて言う。 紫音と春は手早く着替えると、体育館へと駆け出した。 * 結局その日の練習に柏木が現れることはなかった。 柏木は、練習着も持っていなかったので、そもそも練習に参加するつもりはなかったのではないだろうか。 では一体、部室に何の用があったのだろう。 やはり、ハル先輩か…? この日の練習終了後、春は、新キャプテン米田と今後の基礎練メニューを組み立て直す為に居残ることになっていた。 恒例の春との1on1もできないので、紫音は素直に帰宅することにした。 着替えを終え、部室から出たところで、おい、と声をかけられた。顔を上げると、部室前の廊下に柏木がいた。目が座っている。 「どういうつもりだ?青木」 「何がですか?」 柏木が何を言いたいかは、わかっている。先程、すぐにばれる嘘でハル先輩から引き離したのだから。 「とぼけるんじゃねえよ。山下のとこ行ったけど、呼び出した覚えはないって言われたよ。どういうことか説明してくれよ」 「あ、そうでした?すいません、勘違いでした」 たいして悪びれる様もなく言うと、柏木がぎりっと歯を食い縛り、睨み付けてくる。 「下手な芝居打ってんじゃねぇよ。お前どういうつもりだよ?椎名をとられるのがそんなに嫌だったのか?」 どうやら誤魔化されてくれるつもりはないらしい。 しかし、あっさりハル先輩の名前を出すとは意外だった。 もう、本当のことを話す他ない。 「そうですね。その通り。先輩があんまりやらしい目でハル先輩のこと見てたから、ちょっと危険を感じたんです」 「っざけんなよ、てめぇ!お前の方が、よっぽど椎名にベッタリで危険だろうが!」 柏木に胸ぐらを掴まれ、ぐいっと引き寄せられた。今にも殴りかからんとしている。 「俺は先輩と違って、ハル先輩をそういう対象にはしてませんから。」 「ああそうかよ。俺の想いは汚れてて、お前の想いは綺麗なのか?俺達結局同じだろ?お前だって、椎名を自分の女にしたいんだろ?」 「だから、俺はハル先輩をそう言う風には…」 柏木が、胸ぐらを掴んでいた腕を向こう側に放るようにして勢いよく離した。 少し、足下がふらつく。 「だったら!黙ってろよ。俺は認める。椎名が好きだ。落としたいと思ってる。だから、これは俺と椎名、二人の問題だ。椎名に惚れて貰うために、俺はこれからも椎名に近づく。何でライバルでもないお前に、それを邪魔されなきゃならないんだ?」 「………」 紫音は、何も言い返せなかった。柏木と春を普通の男女に置き換えると、柏木の言動や行動は、至極当たり前の事だった。 「わかったなら、今後俺と椎名の間に口出しするなよ。決めるのは、椎名自身だ。お前は俺と同じ土俵にすら乗ってないんだから、口出しする権利はねぇ!」 柏木は言い捨てると紫音の肩を乱暴に押して道を開けさせると、玄関口の方に歩いていった。 * 紫音は家に帰ると、夕飯も食べずに自室に閉じこもり、ベッドの上に仰向けに転がった。 柏木に言われた事を、ずっと考えていた。 これまで、ハル先輩を変な目で見る者たちを、ハル先輩を脅かす不届き者と一方的に判断して、遠ざけようとしてきたけど、不届き者かどうかを判断するのは、俺じゃなくて、ハル先輩なんだ。 俺は、ハル先輩を守っているつもりだったけど、そもそもハル先輩は歴とした男であって、守られることなんてきっと望んでない。 ハル先輩に言い寄る相手に、ハル先輩も同じ気持ちをもしも万が一抱くことがあるとすれば、俺はただの邪魔者だ。 正に他人の恋路を邪魔する奴はなんとやらというやつではないか。 俺が今までしてきたことは何だったのだろう。 ハル先輩の身体だけが目当ての奴は、蹴散らして然るべきだと、それは今でも思うが、柏木は違う。あいつは、ハル先輩とちゃんと恋愛しようとしてるんだ。 それを部外者が邪魔することなんて、できるはずがない。 そう、俺は部外者なんだから。 でも、と紫音は考える。 でも、もし、あの二人が上手く行ったとしたら、俺はそれを祝福できるのか?いや、できるはずがない。 ハル先輩が柏木を見て、笑う。柏木だけを、見つめて。 想像しただけで、胸の奥がムカムカしてくる。 この感情はなんだ? 独占欲…? 好き…? いいや、違う。違う。 これは恋愛感情じゃない。 俺が好きなのはハルちゃんだ。ハル先輩じゃない。そもそも、俺はホモじゃない。 ハル先輩は、大切だ。それは変わらない。大切な先輩。仲良くしたい。 そうだ。同性として、親愛の情を抱いているだけだ。 柏木のことは、放っておくしかない。 すごく、嫌だが、仕方ない。 柏木は、危ないやつではないのだから、俺に止める権利はない。 あとは、ハル先輩が選ぶのだ。 もしも、ハル先輩が柏木と歩むことを選んだら…? いや、考えるな。また堂々巡りするだけなんだから、考えるな。 ハル先輩は、柏木を選ばない。きっとそうだ。そう信じるしかない。 紫音は、悶々とする頭を抱えて布団に潜り込んだ。 布団を被ってみても、頭を占めるのは春のことばかり。 夜が、更けていく。 * あれから柏木は、紫音に宣言した通り、毎日の様に部活に顔を出した。 練習に参加することもあれば、今日の様に恒例となってしまった練習終了後の現主将、副主将――米田と春による巨頭会議に、前主将も引き連れてきて参加することもあった。 必然的に、夏まで毎日の様に春としていた1on1ができなくなり、紫音は、まるで春を奪われてしまったような気分になった。 元々、ハル先輩は俺のものという訳ではなかったけれど。 春は毎回、悪いな、と申し訳なさそうにしていたが、紫音の心は晴れない。 1オンができないくらいでこんなに気落ちしてて、このまま柏木にハル先輩を奪われてしまったら、俺は一体どうなるんだろう。 動かし足りない身体と、悶々とした気持ちを晴らすため、軽く自主連をして帰ることにした。 体育館の隅っこで輪になって座る4人が目の端に写る。 いつもちゃっかり隣をキープしている柏木とハル先輩の距離が心なしか近い気がする。 見るな、気にするなと必死に言い聞かせ、練習に集中しようとしたが、どうしても身が入らなかった。いつもはしないミスを連発するし、シュート成功率も燦々たるものだ。 怪我しない内に止めた方がいいと判断し、早々に切り上げた。 遠くに座る4人にその場から一応挨拶をして、体育館を後にした。ヒラヒラと手を振り、挨拶に答えてくれたハル先輩の姿が頭に張り付いて離れない。 俺は重症だ。 たったこれだけのことで、大好きなバスケも手につかなくなるなんて。 ハル先輩…。 * * * 月日が流れるのは早いもので、もう10月になった。 明日は文化祭だ。 紫音のクラスでも、もう殆どの展示物は完成し、あとは詰めの作業といった状態だ。 射的に形抜きに、ストラックアウト。 所詮は中学の文化祭だ。全部段ボール等で作られた安っぽいもの。 それでも、この1週間、全部活動も休みとなっていたため、放課後はこの工作の為だけに時間を費やしたのだ。自然と愛着が沸いてくる。 ハル先輩は、来てくれるだろうか…? 学年の違う紫音と春は、部活動がなければ、殆ど会うこともない。 この1週間、春に会えないのは寂しかったが、反面、心を乱されることもなく、ここ最近では珍しく平静に過ごせた1週間でもあった。 「おい、紫音。ボーッとしてないでこっち手伝ってくれ」 小学校からの親友、波多野建志(けんじ)が、ストラックアウトの柱に厚紙を巻いている。強度を高めようとしているのだろう。 無言で従い、建志に倣う。 「お前、最近変だよなー」 建志が更に厚紙を巻きながら言う。 「何が?」 「なんか、たまにどっかいってるぜ?」 「あ?人をラリってるみたいに言うな」 ギロリと睨むが、建志は全く堪えた風もない。 「はは。それウケるな。でも、本当。なんか考え込んでるだろ?悩みでもあんの?」 「別に…」 この建志という男は、睨み付けようが罵倒しようが、まるで暖簾に腕押しなのだ。建志と喋っていると、まるで自分がギャンギャン吠える小型犬にでもなったかのような気分になる。 「まさか、恋煩い…?」 突然耳打ちされた。うざい建志を押し退けると、ニヤニヤ笑っている。 「うるせぇな。んな訳ねえだろ」 「そうかー?ま、話したくなったら言えよ?」 建志は全部お見通しだよと言わんばかりだ。 本当にこいつにはかなわない。 無愛想で近寄りがたい。冷たい。怖い。 これが、周囲からよく言われる紫音自身の評判だ。 確かに、人付き合いはあまり得意ではないが、人が嫌いな訳ではない。どうでもいい相手には、本当にどうでもいい態度をとってしまう為に、そう言われるのだ。 というか、普通の人間は、どうでもいい他人にやたらめったら話しかけられるということはあまりないだろうが、紫音は昔からよく、名前も知らない女子や、他校の女子、たまに男子にも声をかけられていた。 小学校からバスケで活躍していたことと、類稀な見た目の良さで注目を浴びたのだ。が、顔も知らない相手から、自分の事をよく知っているという感じに話しかけられたり、なぜか誕生日を知られていて、プレゼントを貰ったり…と言うのは、紫音にとってあまり気持ちのいいことではなかった。 その為、どうでもいい知らない他人に対しては無愛想に接したし、話しかけないでくれと牽制するような態度もとっていた。 その噂が独り歩きし、紫音の評判が固定されたのだ。 実際の紫音の性格は、やや無愛想な面はあったが、近寄りがたいという程でもなく、勿論冷たい訳でも残忍な訳でもなかった。 他人に対しては相変わらず牽制する様な態度を貫き通したが、クラスメイトには普通に接した。 結果、お前ってツンデレだったんだな、等と言われてからかわれたりすることもある。 噂とは全く違う紫音に、クラスの殆どがいい感情を持っていた。 一部からは、妬みや嫉みの対象にされたり、噂に振り回されているのか変に萎縮した態度を取られたりしたが、それはもう仕方のない事だと割りきっていた。 真の自分わかってくれる友人が何人かいれば、それでいいのだ。 その、自分の事を一番よく理解してくれている建志が、作業中尚も「好きな人」について探りを入れてこようとするのを適当にいなして、その日は終わった。 * 次の日――文化祭当日。 紫音は装飾された校門をくぐると、賑やかな公舎へと入った。 いつもと違う雰囲気に、少しだけ気分が高揚する。 文化祭や、運動会の後にカップルが増えるのは、きっとこの非日常な高揚感のせいなんだろうなと一人ごちる。 そして、すぐに嫌な予感がした。 柏木がハル先輩に告白するとしたら、今日なのではないか。 柏木は来年卒業だし、もうすぐ受験もあるから、もういい加減部活にも来れなくなるだろう。 だとしたら、今日がベストタイミングじゃないか。 柏木は今日勝負をかける。間違いない。もうこれはほぼ確信だ。 ハル先輩は、なんと答えるだろう。 わからない。 俺には、祈ることしかできない。

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