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休息 6
「…ん…しゅん、春!」
名前を呼ばれて目を開ける。
柏木が真上から見下ろして心配そうに、こちらを見ている。
「せんぱい…?」
「春!よかった!」
そこは、明るいけれど、段ボールで囲われた狭い教室の中だった。辺りを見回すと、柏木以外にも、不気味な化粧を施した長い黒髪のカツラを被った人物が2人と、入口にいた軽そうな男も心配そうに春を覗き込んでいた。
「あ、俺…!」
状況を思いだし、恥ずかしくなった春が勢いよく起き上がった。
「無理するなよ?倒れたとき、どこかぶつけてないか?一応俺が支えたけど」
「す、すみません!先輩に迷惑かけて!」
文化祭レベルのお化け屋敷を本気で怖がって、剰え意識を失ってしまうなんて、恥ずかしすぎる…!
春は顔を紅潮させて俯いた。
「全然気にするなよ。こいつら、やりすぎなんだよ」
柏木が諌めるように春の頭を撫でた。
オバケ役の二人と軽そうな男がごめんなー調子に乗っちゃった、と口々に謝っている。
「いえ!俺の方こそ、こんなんで…。心配かけてすみません!」
居た堪れなくて、ぎゅっと拳を握る。
いやー、あれは怖いよな?挟んじゃったしな。と3人が話している。どうやら通常はオバケ役は一人で、交代しながらやっていた上、あそこまで迫ることも、当然お客に触れることもなかった様だった。さっきのはかなり「スペシャル」な対応だったらしい。
「立てるか?」
柏木に問われ、頷いて立ち上がろうとする。柏木が支えるように腕を取ったが、特にふらついたりすることもなく、すんなり立ち上がることができて、少し安心する。
もう一度3人に謝り、相手方からも謝られて教室を出た。
「春、大丈夫?」
隣を歩く柏木が心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫です。俺、カッコ悪いですね」
あんまり気遣われると、また居た堪れなくなってくる。
「いや、何て言うか、すごくかわいかったよ」
柏木がにっこりと微笑みかけてくる。
「かわいいって…」
春が顔を顰めて抗議しようとしたら、柏木に突然両肩を掴まれ、柏木と正面から見つめ合う形になる。
「うん。やっぱり、まだ少し顔色が良くないね。ちょっと休憩しようか」
柏木に連れてこられた先は、人気のない中庭だった。
ベンチが置いてあり、目の前の花壇も手入れが行き届いている。
「ここ、あんまり人が来ないから、落ち着くかなと思って」
ベンチに並んで腰かける。体調は特に悪くなかったが、秋の爽やかな風に吹かれるとなんだかほっとした。朝から女装したり、バカにされたり、柏木との関係に悩んだり、極めつけにお化け屋敷でひどい目に合わされて、結構疲れが溜まっていたのかもしれない。
「俺、こんな所があるの知りませんでした。いい場所ですね」
春は、心が解れて自然と柔らかい微笑みを浮かべていた。
柏木もそれを見て微笑む。
「いい所の割にあんまり知られてないみたいで、人気がないから、サボったりする時にいいんだ」
「柏木先輩も、サボったりすることあるんですね」
真面目そうな柏木に、サボりという単語が似合わず、おかしくてクスクス笑った。
柏木はそんな春の様子をじっと見つめていた。
「春、あのさ…」
「はい?」
返事をして目線を向けると、柏木が真面目な表情でこちらを見ていた。
暫く見つめ合った後、意を決したように柏木が言葉を続ける。
「春は、好きな子、いる?」
「いえ、いません」
柏木は視線を逸らさない。春も、頭にはてなマークを掲げたまま柏木を見ていた。
「…俺、俺な…、春のことが―――」
*
紫音は走っていた。
屋上での決意の後、春と柏木を探して歩いたのだが、タイミングが悪いのか、さっきまでいたけど…ということばかりで肝心の二人に会えず、当て所なく彷徨っていた。
しかし、つい先程「15分ほど前に中庭のベンチに座っているのを見た」という証言を得たのだ。
あんな人気のない所に連れ込んで…。あのスケベ野郎!
紫音は更に速度を上げて中庭に向けて走った。
遠くから、ベンチに腰掛ける人影が見えた。が、人影はひとつしか見えない。
人違いか…?
確認の為に足早に近づく。
あれは、ハル先輩!
「ハル先輩!」
俯いていた春が、ゆっくりと顔を上げた。
その表情が曇って見えて、紫音は慌てて駆け寄り、春の座っているベンチの前に跪いた。
「ハル先輩!どうしたんですか?」
「紫音……」
春はどこか呆然としていて、頼りなげだった。
まさか…!
紫音は嫌な予感に思い当たる。
「柏木の野郎!!」
「紫音!?」
紫音の突然の怒声に驚いた春が伏せていた目を見開く。
「あの野郎、ぶっ飛ばしてやる!」
紫音が立ち上がり、拳を震わせている。
春も椅子から立ち上がり、紫音と視線を合わせる。
「落ち着けよ紫音!どうしたんだよ?」
「だって、あいつが!ハル先輩に何かしたんだろ?」
「何かって…何もされてないよ!」
紫音は春の言葉に固まる。
え?何もされてない?
「何もって、何も?」
「だからそう言ってるだろ?変なやつ」
春は苦笑し、とりあえず座ろうぜとベンチに腰掛ける。紫音もまだ半信半疑ながら春の隣に腰かけた。
「でもハル先輩、なんか落ち込んでるみたいだった…」
「あぁ…うん……」
長い沈黙。
また俯いてしまった春に、紫音はどうしたらいいかわからなかった。
何もされてないって否定されてしまったから、またしつこく聞くのもおかしいし…。
紫音が煩悶としていると、春が頭を上げて口を開いた。
「柏木先輩にさ…、好きって言われたんだ」
そう言った春の目から、涙が一筋流れた。
初めて見たハル先輩の涙。しゃくり上げることも、嗚咽を漏らすことも、目を赤くすることもなく、涙だけが流れた。
そこには強い悲しみが込められている気がして、紫音の心まで苦しくなる。
こんな顔、させたくない。
春は自分の頬が濡れたことで自分が泣いていることに気づいたのか、涙をぬぐいながら、なんでだろう?ごめん、と言っている。
瞬間的に、紫音は春を抱き締めた。行動を逡巡する暇もなく、ただ、春の悲しみを理解したくて、少しでも減らしたくて、身体が勝手に動いていた。
「ハル先輩…何があった?俺、驚かないし、さっきみたいに取り乱さないから、話して下さい」
ハル先輩の肩に額を埋めて言った。自分の声が、これまで聞いたことがないくらい苦悶に満ちていて、それに、この体勢じゃ、俺がハル先輩に慰められているみたいだと心のどこかで思った。
春も、紫音と同じことを思ったのか、慰めるようにポンポンとゆっくり紫音の背中を叩く。
二人は、暫くそのままでいた。
ずっとこうしていたいけれど、そういう訳には行かない。それに、俺がハル先輩を慰めなければいけないのに…。
そう思い、紫音はゆっくりと身体を起こした。
顔を上げると、春はもう泣いていなくて、紫音を心配そうに見ていた。
「紫音。何もお前が悲しまなくてもいいのに…。でも、嬉しかったよ。ありがとう」
にっこりと微笑む顔は、もういつもの春だった。
「ハル先輩…」
「俺の話、聞いてくれるか?」
「もちろんです」
食い込み気味に返事をした紫音に少し笑って、春は淡々と話し始めた。
「俺、小6の時に、友達に襲われかけたんだ」
紫音は驚いたが、余計な口を挟まなかった。
「その友達は『ずっとこうしたかった』って言ったんだ。俺、そいつのこと、一番信頼できる親友だって思ってたのに、そいつにとって俺は、友達ですらない存在だったんだなって思ったら、なんかすげー辛くて…」
春は、当時を思い出したのか、言葉を途切れさせて目を伏せた。が、すぐに気を取り直して話し始めた。
「柏木先輩に好きだって言われて、その時のこと思いだしてさ。なんか、俺の存在価値って何なんだろうとか、何でそういう風に見られるんだとか、色々考えてたら、いつの間にか落ち込んでたんだ」
「ハル先輩…」
本当に柏木には何もされてなかったのか。
でも、友人と思っていた相手から好きだと言われただけでも、普通は衝撃的だよな。過去にトラウマのあるハル先輩にとっては尚更……。
ならば、俺は…。
俺にできることは…。
「俺、この話誰かに聞かせたの、お前が初めてなんだ。何でかな。紫音には、聞いてもらいたいって思ったんだ」
柔らかく微笑んだ春は、とても綺麗だった。
夕陽に照らされた赤い頬が、涙に濡れていた長い睫毛が、優しい微笑みの形になっている唇が。春を造り出す全てが美しく、魅力的に輝いていた。
でも…。
俺はハル先輩への想いを断ち切ろう。自覚したばかりのこの想いを。
それが、ハル先輩の為に俺にできることだから。
ハル先輩が、誰でもない、俺に打ち明けてくれたその思いに報いたい。
俺がこの気持ちを持ち続けたら、ハル先輩をまた苦しめる。
もう、涙なんて流させたくない。
ハル先輩が幸せになってくれたら…笑っていてくれたら、俺はそれだけでいい。
「話してくれて、ありがとう。俺は、ハル先輩を裏切りません。絶対に、ハル先輩に辛い思いはさせない」
「紫音…ありがとう。お前だけは信じたいって、ずっとそう思ってたよ」
紫音は、二度と本人には伝えられないであろう言葉を、心の中だけで言った。
ハル先輩。
俺はあなたの事が大好きでした。
そして、その思いに蓋をした。
*
あれから紫音と春は、気持ちを切り替えるためにいくつかくだらない話をした。
春が無邪気な笑顔をみせる度に、紫音は自分の選択が正しいのだと言い聞かせた。
文化祭終了のアナウンスをきっかけに二人は別れた。
紫音は文化祭の撤収作業の進む自分の教室に足を踏み入れた。
1週間熱心に作成した展示物が、その役目を終えて解体されていく様は、哀愁さえ感じる。
これを作ってる時は、ハル先輩と一緒に回るのを心待ちにしてたっけ…。
頭を振って、挫けそうになる気持ちを吹き飛ばす。この教室内の物悲しい雰囲気がいけない、と廊下に出た所で建志が駆け寄ってきた。
「紫音…大丈夫、か?」
あの動じない男が珍しく心配していたのか、こちらの様子を窺うようにしている。
「さっきは悪かった。俺さ…」
建志には、本当の事を言おうと思った。
いや、俺自身が、誰かにこの報われない想いを伝えたいのかもしれない。
「俺、ハル先輩の事、好きだった」
建志は身動ぎもせず真剣に聞いていた。
「でも、もういいんだ。忘れることにした」
俺は今、どんな顔をしてるんだろう。悲痛な表情でも浮かべてるのかな。建志が、また心配そうに眉根を寄せた。
「…振られたか?」
建志の声色がいつになく優しくて、すこしこそばゆい。
「違う。けど、もう想ってちゃだめだってわかったから」
「あの先輩に取られた…とか?」
「違うよ。…ま、ハル先輩はホモじゃなかったってこった」
しんみりしてしまった雰囲気を壊す為にわざと明るい声を出した。
建志は意図を察しただろうに、乗ってはくれなかった。
「お前だって、そうな訳じゃないだろ」
「あー、もう!そうだよ。俺はハル先輩だから好きになったんだよ。でももういいんだって!元々俺は女が好きなんだから、これからは女に走るの!」
紫音はヤケクソになって言った。尚も真面目くさった建志が、最後にこう言った。
「椎名先輩にも、その可能性はあるんじゃねえのか?紫音だからこそ、好きになる可能性がさ」
「…ねえよ」
それはない。絶対に。友達の俺に想われることが、ハル先輩を一番傷つけるんだから。
せっかく無理に上げようとした気分をまたどん底まで落とされて、恨めしい気分になりながら、撤収作業を手伝うため教室へと引き返した。
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