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暗雲 1
紫音のお陰でかなり気分を持ち直した春のクラスが撤収作業を終えたのは、18時を過ぎた頃だった。
作業中に、他のクラスの女子に呼ばれて「付き合ってほしい」と告白を受けたが、いつもの様に断った。
春はそういった面での発達が遅いのか、女子と付き合いたいという気持ちはまだなかった。女の子の事を知りたいと言う人並みの好奇心はあったが、それよりもバスケに時間を割きたかったし、女子と話題を探しながら喋るよりも男子と下らないことを喋って笑っている方が楽しかったので、春にとっては「お付き合い」するメリットが一つもなかったのだ。
担任の教師に、そろそろ帰れと言われ、皆ゾロゾロと揃って教室を出る。春もそれに倣った。
「あれ?今日はお迎え来ないの?」
クラスメイトの恭哉が横に並んで言う。
「あぁ、もう来ないよ」
柏木先輩は、もう来ない。
あの時、好きだと言われ、春は顔面蒼白になった。心配して肩に触れようとしてきた柏木の手を素早く払い落として距離を取り、完全な拒絶を表したのだ。
柏木は悲しそうにごめんとだけ呟くとその場を後にした。
あの時は柏木先輩の事を考える余裕が全くなかったが、落ち着いた今となっては自分は酷いことをしたのかもしれないと思う。
別に柏木先輩は、力づくでどうにかしようとした訳ではなく、真摯に気持ちを伝えてくれただけだったのに。
春の中で芽生えかけた友情を、また裏切られてしまったという思いは勿論あるが、それは自分の心の中で処理すべき問題だ。柏木先輩にぶつけるべきではなかった。
柏木先輩にとって俺は、初めからそういう対象だったのだから、裏切られたと感じるのは俺の勝手だ。俺が友情だと勘違いしたのがそもそもの間違いだったのだから。
「俺って、鈍感なのかな?」
隣を歩く恭哉に尋ねる。
「何?あの先輩に告られた?」
さらっと言う恭哉に驚きの眼差しを向ける。
「お前、気づいてたの!?」
「そりゃ気づくでしょー。あんだけ露骨だったらさ」
下駄箱から靴を取り出しながら何でもない事のように言う恭哉に、衝撃を受ける。
露骨…だったのか?
どこが?
一緒に下校したいと言っていた所が?
文化祭を一緒に回りたいと言っていた所が?
恭哉に尋ねると、そういう一つ一つの事象よりも、態度とか目付きとかだよと言われる。
態度?目付き?友人との違い…そんなのわからない。
「春は鈍感だなー」
恭哉は笑っているが、春にとっては笑い事ではなかった。
「あのさ、恭哉。俺の事、自意識過剰とも、気持ち悪いとも言ってくれていいから、答えて欲しいんだけど」
「何?」
「お前は、俺の事、そう言う意味で好きじゃないよな?」
とたん、恭哉が吹き出す。ヒーヒー笑いながら、そんな訳ないじゃんと言う。
「お前、やっぱダメだわ」
春はむっとする。こっちは真面目に聞いてるのに。
「俺の態度とあの先輩の態度の違いがわからないなんてお前全然ダメダメだ」
恭哉は憮然とした春を気にすることもなく涙を拭いながら言った。
ひとしきり恭哉にバカにされた後、こういう目付きは危ないだの、こういう話し方をされたら要注意だの色々教えられたが、いまいちピンと来なかった。
「お前は目立つんだから、人よりも敏感になって注意しないと、すぐ喰われちまうぞ」
恭哉の言葉にゾッとしたが、それにもいまいちピンと来なかった。
変装する前なら目立つのも分かるが、今は皆と同じ黒髪黒目だ。
何故なのか考え、バスケでは目立っているなと思い至る。
でも、これは隠せる物ではないし、春自身手を抜く気もない。バスケは、春が唯一無心になって楽しめるものだから。
なんだかんだ話していたら…と言うか教えを受けていたら、あっと言う間に分かれ道に差し掛かり、礼を言って別れた。
恭哉の教えてくれたことはあまりわからなかったが、恭哉が純粋な友達であったと分かった事はとても嬉しい。
でも、さっきは成り行きであんな事を聞けたが、普段はあんな事言えるはずがない。
親しくしてくる者全員にあれを聞いていては、こちらが変態だと思われてしまうだろう。
友情と恋情を見分けるいい方法はないものか…。
考えながら歩いているとあっと言う間に自宅マンションのエントランスに到着した。
慣れた手つきで指紋認証を潜ると、エレベーターに乗り込み10階のボタンを押す。
春が現在住むこのマンションは、所謂高級マンションで、エントランスも廊下もきらびやかで手入れが行き届いており、まるで高級ホテルのロビーのようだ。当然、部屋の中も贅が凝らされている。
人に話せば羨ましがられる家なのだろうが、春はこの無機質な家があまり好きではなかった。
ピカピカに磨かれた大理石よりも、温もりの感じられる木目が好きなのだ。
横浜に住んでいた頃の、家族の気配が感じられるこじんまりとした家が、春の理想だった。
春の両親もあの家が好きな様で、東京に出てきた今でも、あの家は残されている。
たまに別荘気分で遊びに行きたいね、と家族で話してはいるが、父の仕事が東京に出てきてから前以上に忙しくなり、それは未だ実現していない。
10階に到着し、指紋認証で玄関ドアを開ける。
ただいまーと中に入ると、玄関に父の革靴と、その横に見慣れない革靴が並んでいた。
父さんがこの時間に帰ってるのは珍しい。それに、お客さんかな…?
「お帰りなさい、春。お父さんのお仕事関係のお客様がみえてるの。ご挨拶してね」
春の声を聞いた母が、リビングから玄関ホールに顔を出してそう言うと、忙しくリビングに引き返して行った。
春は一旦自室に入り荷物を置いた。
着替えもしようかと思ったが、先に顔だけ出した方がいいかと思い直し、すぐにリビングに向かった。
リビングのドアを開けると、この家に備え付けてあった高そうな黒い革張りのソファのこちら側に父、奥には父よりも少しだけ年上らしき男が座っていた。高級そうなスーツをスマートに着こなした、品のある男だった。
男はすぐに目線をこちらに向けた為、目が合った春はこんばんはと挨拶をして部屋に入った。
「おー、春。来たか」
父に手招きされソファの側に立つ。
「中学生の息子の春です。こちらは向田製薬の向田さん。仲良くして貰ってるんだ」
「父がいつもお世話になってます」
通り一遍の挨拶をすると、向田が相好を崩した。
「春くん、よろしくね。春くんは礼儀正しいんだね」
向田は笑ってじっと春を見つめている。
春はその視線にぞっとするものを感じた。
なんだろうこの感じ。
恭哉の言っていた危険な視線って、これのこと…?
でも、まさか。
こんな育ちの良さそうな大人が、俺なんかにそんな視線を向ける筈がない。
きっと、さっきまであんな話ばかりしていたから、ちょっと過敏になっているだけだ。
「春、照れてるのか?」
何も言わない春に、父が問いかける。
「あ、いや。すみません。ありがとうございます」
向田の視線に耐えられなくなって、お礼を言って俯いたまま視線を下げた。
「夕飯の準備が出来ましたよー。向田さん、どうぞこちらへ。春は着替えていらっしゃい」
明るい母の声に救われ、足早にリビングを出た。
*
自室でノロノロと部屋着に着替えながら考える。
嫌な視線に感じたのは俺の勘違いだよな…。
父さんの大事な友人のようだったし、取引もあるかもしれない。失礼のないようにしなければ。
白いロングTシャツと柔らかい綿のパンツに着替えて、リビングへと向かった。
「春はこっちに」
父に指された席は向田の横だった。
嫌だと言うわけにも行かず、席についた。
向田は、笑みを浮かべたままこちらを見ていて、目が合うと笑みを深くした。春も答えるように曖昧に笑って会釈した。
「さ、じゃあ食べようか?」
父の号令で、皆箸をとる。
向田は、一通り食事の感想を父母達と話した後、春に向き直り話しかけてきた。
「春くんは今何年生なの?」
「2年です」
相変わらずじっと見つめてくる向田の目付きには慣れなかったが、失礼のないようにと言い聞かせて視線を合わせて答える。
「そう。中学生にしては帰宅が遅かったけど、部活か何かしているの?」
「部活はバスケをしています。今日は文化祭で遅くなったんですけど」
「へー!文化祭か。何か演し物とかあったんだろ?春くんのクラスは何をしたの?」
「そういえば、父さんも聞いてなかったなぁ。今年は何したの?」
春はしまったと思った。
文化祭の事は突っ込んでほしくなかったのに、自分でそのワードを出してしまった。言いたくないが、答えない訳にはいかないだろう。
「…女装喫茶だったよ」
「女装!?春、どんな格好したの?」
母がおかしそうに聞く。
「女子の制服と交換しただけだよ」
「はは。春なら似合っただろう?」
父も楽しそうに言う。
「似合う訳ないだろ!」
むっとして答えると、父も母も更に笑いだした。
向田だけが、口許を歪めて笑みを浮かべ、春にねっとりとした視線を送っていた。
*
「本当に美味しかった!ごちそうさまでした」
食事を終えて、向田が満足そうに礼を述べる。母がお粗末様でした。またいつでも…と社交辞令をしている。
春は、ようやく部屋に戻れる、とほっとしていた。
いつ席を立とうかとタイミングを図っていると、向田と父が話始め、話の腰を折る訳にも行かず、待つことにした。
「料理上手で綺麗な奥様に、かわいい息子さんがいて、椎名さんが羨ましいですよ」
「いやいや…。向田さんにも、素敵な奥様がいらっしゃるんでしょう?」
「実は、まだなんです。婚約者はいるんですが」
「そうでしたか。もし、手料理が恋しくなったら、またいつでもいらしてください」
「是非そうさせて貰いますよ。いやあ、今度は私の方で何かお礼がしたいな」
「いえ、そんな。気になさらないで下さい。こちらとしては、向田さんのおかげで多くの製薬会社との横の繋がりができたんです。そのお礼の一つとして受け取って下さい」
「そういう訳には………」
大人の、形式的なご機嫌とりのやり取りが続き、春は少し気を緩めた。
食事中も、事ある毎に横の向田からの視線を感じ、ずっと気が休まらなかったのだ。
精神的に疲れる事が多かった1日だったので、春は少し眠気を感じていた。
「――春、どうだ?」
「…え?なに?」
いつの間に話題が変わっていたのだろうか。話を聞き流していたので、何を問われているのか全くわからなかった。
「なんだ、聞いてなかったのか?ほら、父さん達来週からドイツだろ?」
父の会社の開発した薬がドイツでも発売されることが決まり、そのプレゼンテーションの為に、父と母は1カ月ドイツの各都市を周る予定となっていた。プレゼンをするだけなら父と部下だけでいいのだが、欧米では、妻同伴が一種のステイタスらしく、信用を得るため母も同行することになっているのだ。
「うん、それがどうかした?」
「その間、春が寂しくないか?って向田さんが」
「え?俺は全然大丈夫だよ!」
なんだかこの流れはやばい気がする。必死で寂しくなんかないことを訴える。
それを全く意に介さない様子で向田が言う。
「中学生くらいの子供の一人食は、今色々と問題になってるでしょう?非行の原因になったり…間違ってもいいことはない。だから、1カ月、夕食だけでもご馳走できたらと思ったんだが」
春は愕然とする。
この人と1カ月食事を共にするなんて、考えられない!
「いえ、本当に俺は大丈夫です!非行に走る暇もないですし…」
どうすれば円満に断ることができるのか…。
春が考えあぐねていると、父がとんでもない事を言った。
「私も、1カ月も春を一人にしておくことには不安があったんです。でも、私たちには頼れる親戚もいないし…と諦めていたんですが、いやこれは渡りに船です。春、向田さんのご好意を受けようじゃないか」
あまりの提案に目眩が生じたが、父さんは一度決めたら引かない人だ。
それを知っていても尚、大丈夫だからと訴えることをやめなかったが、大人二人の間では既に決定事項の様で、細かいことが次々と決められていく。
終いに「これで安心してドイツで過ごせるよ」と心底安堵したような顔で言われてしまえば、それ以上駄々っ子の様に否定し続けることもできなかった。
このタイミングで食後のデザートを盛り付けて持ってきた母も、父と一緒になって向田の申し出を喜んでいて、もう逃れられない事を確信した。
諦めた春は、しぶしぶ向田によろしくお願いしますと頭を下げた。
*
*
*
その日はあっと言う間にやって来た。
父と母がドイツに出発する日だ。
今夜から、向田と夕食を摂らなければならない。
それが決められた日に、互いの携帯番号を交換し、春が部活終わりに連絡を入れて迎えに来てもらう算段となっていた。
向田は忙しくないのか疑問だ。
会社のことはよくわからないが、1カ月間毎日中学生の迎えに来られる大人の男はそういないだろうと思う。
意外と仕事が忙しいからとキャンセルになることも多いかもしれない。それに期待しよう。
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