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暗雲 2
昼休みになり、放課後になり、遂に部活も終わった。
文化祭を終えてすぐに、練習メニューがようやく納得の行くものとなったので、恒例となっていたキャプテン米田との会議もなくなった。
代わりに、紫音との1on1が再開されていた。
小気味のいいボールの跳ねる音と、バッシュが滑るキュッという音を響かせて、2人はリングの前で真剣勝負を繰り広げる。
「次は俺のオフェンスっすね」
春のレイアップが決まり、リングを潜って落ちてきたボールを抱えた紫音は、汗にまみれてゼーゼーと肩で息をしているが、目の色だけは挑戦的に輝いている。
「ごめん、紫音。ちょっと、休憩…」
紫音と同じくらい汗だくになっている春が、息を切らしてその場にへたりこんだ。
「先輩、体力ないっすよ」
紫音が憎まれ口を叩きながら春の隣にしゃがみこむ。
「悪かったな」
春は息を整えながら傍らのスポーツドリンクを傾けた。
早鐘の様だった心音が落ち着いて来るのに従って冷めてきた頭は、バスケの事ではなく、この後の事を考え始める。向田との食事を。
無意識にため息をついてしまう。
「ハル先輩、どうかしました?なんか今日ずっと表情悪いですけど」
紫音が心配そうに聞いてくる。
ずっと?練習中は忘れていたつもりだったけど、それでも顔に出ていたのだろうか。
「今日から1カ月両親がいないんだけどさ。その間父親の知り合いと夕飯食べなきゃいけなくて。なんか気が重いんだよな…」
「その、知り合いの家に泊まるんですか?」
「いや、夕食だけ。一人で食べると非行がどうのとかって。俺、1度しか会ったことないから気まずくてさ」
あの視線の事は、黙っておいた。自意識過剰だと思われても嫌だ。
「その人、結婚してる?」
「え?いや。婚約者はいて、今日一緒に連れてくるって言ってたけど」
「そうっすか!なら安心ですね!」
紫音は訝しげに顰めていた目を開いて、安堵の笑みを浮べた。
安心って何だろう。俺にとっては、知らない人が一人増えるだけで、気が重いのに変わりないのだけど。でも、2人きりよりは大分ましかと思い直し、紫音に声を掛けて1オンを再開した。
*
あれから30分程身体を動かした。紫音との勝負は、やられたらやり返し、またその逆も然りでいつまでも終らなかったが、疲れを明日に残さない様、決着がつく前に切り上げた。
ボールを片付け、汗が零れた床にモップをかけた。
例の迎えが来るから…と紫音に先に帰る様言うと、更衣室に備え付けられたシャワー室で軽く汗を流した。
替えの下着に取り換え、制服を着て、ウィッグも新しいものに替えた。
毎日汗をかく部活動をしている春にとって、本来必要ないのにウィッグを被るのは、スポーツ時特に不快だったが、背に腹は変えられなかった。
不潔なのは耐えられないため、同じ形のウィッグを数個所有し、毎日洗って交換している。
洗面所に黒い髪の毛の塊が干してある光景は、見慣れるまでかなり不気味だったが、今では日常だ。
汚れた下着とウィッグを練習着と共にビニールで包んでバッグに仕舞うと、携帯を取りだし、向田の番号を呼び出す。
僅か2コール程で向田の低音の声が耳に響いた。
「春くんか。部活終わったんだ?」
「はい。でも…あの、向田さんはお忙しいんじゃ…」
「いや。実はもう仕事を終えて、君の学校の近くの喫茶店にいるんだ。すぐ迎えに行くよ」
「そう、ですか。すいません、よろしくお願いします」
「校門の前にいてくれ」
プツッと通話が切れて、春はしばらく携帯の通話終了画面に残る向田孝市という名前を凝視していた。
この期に及んで、何か理由をつけて断れたら…と思っていたのだが、その暇も隙もなかった。自分は勉強はできるのだが、ひょっとしたら頭の回転が鈍いのかもしれないとまで考えてしまう。
が、いつまでもこうしていられない、と春は携帯を仕舞って校門に向かう。
向田は本当に側にいた様で、春が到着したとほぼ同時に、向田の運転する黒塗りの外車――ベンツだ――が横付けされた。
後部座席に乗り込んだ春に、助手席から女が顔を向けて声を掛けた。
「春くん、初めまして」
暗めの茶髪のロングヘアーを巻き髪にした綺麗な女性だった。赤く塗られた唇が妖艶で、大人の女の色気が溢れている。
年上の女性に免疫のなかった春は、どぎまぎしながら、初めましてとだけ返した。
「婚約者の茜だよ。春くんのことは、茜には話してあるから」
向田は後部座席を振り向いて言うと、すぐに茜の方に視線を合わせ、目配せをした。
恋人同士の甘い雰囲気がそこにはあって、春は心底ほっとした。
やっぱり向田さんから感じたあの視線は、俺の勘違いだったんだ。こんなに美人の婚約者がいるんだ。男なんかに変な思いを抱く筈がない。
その日の食事は、やや高めの値段設定ではあったものの、春でも入りやすい雰囲気の居酒屋に連れていかれた。
そこでも向田と茜はとても仲睦まじく、向田からの嫌な視線も全く感じなかった。話をする時は、普通にこちらを見て、そして自然と逸らしてくれる。要するに、普通に接してもらったので、春は、あれは自分の勘違いであったと確信した。
安堵した春は、この場を楽しいとすら思った。
運動後の飢えたお腹を満たしてくれる美味しい食事に、仲睦まじい綺麗なカップル。
春の両親も、春の前でも恥ずかしがらずに仲の良い姿を見せるタイプだった為、お似合いのカップルを見るのは嫌いではなかった。そこに幸せを感じられるからだ。
楽しそうな二人の様子に、自然と表情が和らいでいた。
*
春を自宅まで送り届け、また明日、と手を振って車を走らせた。
「…こんな感じでよかったんですか?」
助手席の茜が、先程とは違う口調で問いかけた。
「あぁ、助かったよ。春くんも楽しそうでよかった」
進行方向を見たまま、淡々と答える。
「私も楽しかったからいいんですけど、あんな中学生に副社長が気を遣うなんて…」
「彼はあの椎名のご子息だ。椎名とはうまくやっていきたいからな。かわいい息子に嫌われては、親にも好かれないだろう?」
「将を射んと欲すればまず馬を射よ…ですか?」
「なかなか難しい言葉を知ってるじゃないか」
向田は可笑しそうにくつくつと声を上げて笑った。
だが茜、お前は間違っている。俺の欲する「将」は春なのだから。
先週、2ヶ月半ぶりに春に会った。
間近で見る春は、本当に美しくて可憐で、目が離せなかった。春がこちらを不審がっていることはわかったが、視ることを止められなかった。
あんなに恋い焦がれた相手が、目の前にいて、自分と話をしているのだ。
溢れ出しそうになる欲情を必死に抑え、視姦するに留めた自分自身を誉めてやりたいと思った程だ。
拓弥から、来週から1ヶ月家を空けると聞いた時は、天が自分の味方をしていると思った。
春の心を手に入れるチャンスだ。
心さえ手に入れば、身体は自ずとついてくる。そう言い聞かせて暴れ狂う己の肉欲を抑え、春から信頼を得よう。
先ずは先週植え付けてしまった春の警戒心を解かなくては。
おそらく春は、俺に自分がどう思われているか、勘づいてしまっただろう。
そこで利用しようと思ったのが、拓弥に話した「婚約者」だ。
歴とした婚約者がいて、その相手を大事にしているということが分かれば、それは春の警戒を解く助けになるだろうと思ったのだ。
計画完遂の暁には、恐らく自分は若菜と結婚する事になるだろう。
だから、婚約相手は若菜を想定して話していたが、まさか春にスパイである若菜を紹介する訳にはいかない。
そこで、茜に協力して貰った。
茜には、椎名薬品工業との業務提携を目的に拓弥に近づいたこと。その拓弥に息子のお守りを任されてしまったが、男の自分には、どう接したらいいのかわからず困っていること。愛妻家である拓弥から誠実な人間であると思われる為に、婚約者がいると嘘をついたので、そのフリをして欲しいことを頼んだ。
そうして今日、椎名の息子と食事をするので婚約者としてフォローして欲しいと依頼したのだ。
茜は向田にベタ惚れだった為、向田が甘い雰囲気を作り出すと、何の打ち合わせもなく乗ってきた。
結果、向田が想定していた以上に早く春はガードを解いた。まさしく大成功だ。
何度か茜と3人での食事を重ねなければなるまいと思っていたのだが、春は元々隙のある性格なのかもしれない。
拓弥と桜が変装させているのも分かる。非常に危なっかしい。
その危なっかしさは、狙うこちら側からしたらありがたいが、他に喰われないように注意しなければ。
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