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暗雲 3

あれから3日間、向田は食事の時茜も同席させた。 春の警戒心は解けたと思っているが、念には念を押したのだ。 食事も4日目にもなると、初対面の時の固い態度が嘘だったかのように屈託なく笑いかけて来るようになった。 もう完全に安心しきっているだろう。 そろそろ茜はいらないな。 次の日。 18時半。ここ数日で、春の部活が終わる時間がわかったので、電話を貰う前に校門の横に車を着けて春を待った。 下校時刻をとうに過ぎたこの時間、辺りは閑散としている。 暫くすると、校門からスポーツバッグを肩に掛けた男子生徒が出てきた。 その姿形に既視感があり、車の中からじっと観察した。相手が車の横を通ったときにわかった。 あれは、青木紫音だ。 そういえば春は、部活終了後に青木と自主練をしているんだったな。 あの美しい春と体育館で二人きり。青木は春に気がありそうだったし、変な気を起こしたりしないだろうな…。 青木の姿が見えなくなって約10分後に春から連絡が入る。 もう校門前にいると伝えると、驚き、そして焦った様にすぐ行きます、と言って電話が切れた。 春は部活後学校でシャワーを浴びて来ていると言っていた。 いつもシャワー浴びたての、石鹸のいい匂いがするのが堪らないと思っていた。 今日は邪魔な茜はいない。二人きりだ。初めての、二人きり。 この嵐のように身の内を暴れる劣情を抑えることはできるのか。 春の心を手に入れる為には、抑えなければならない。 だが、全てを手に入れられるのは、一体いつになるのか。 今仕掛けている計画が上手く行き、春の大事な物をすべて奪い、身も心も完全に俺だけの物になる日は。 それまで、この劣情を押さえ続けることが、果たしてできるのか…。 向田はポケットに手を突っ込み、アルミのシートに包まれた錠剤を指で転がした。 向田製薬が最近開発した睡眠薬。既に臨床試験も終えて、あとは国の認可待ちという、安全な物だ。速効性と持続性がこれまでの睡眠薬に比べて高いのがこの商品の売りだ。 あまりに我慢できなかったら、これを使おう。 春のガードを下げる為に茜まで使って芝居を打っておいて、信用を得た途端すぐに肉欲に支配されるなんて、バカげているな。 バカげているが、もう自分でもどうしようもない。 * 駆け寄ってきた春が、いつもの様に後部座席に乗ろうとするのを、身を乗り出して助手席のドアを開けて、こちらにと示す。 春はやや戸惑っていたが、素直に助手席のシートに身を沈めた。 「お待たせしてすいません。あの、今日は茜さんは?」 「茜は今日から暫く地方に出張なんだ。俺と二人は嫌かな?」 「あ、いや、そう言う訳じゃ…」 困ったように言葉を探す春が可愛くてふっと笑いを溢す。 「さて、お坊ちゃん。今日は何が食べたい?」 誂うように言うと、春もようやく微笑んで、好き嫌いはないのでどこでもいいと答えた。 向田は拓弥から、春の1ヶ月分の食事代兼世話代として充分な金額を預かっていた。そのことを春も知っている為、気を遣って変に萎縮することはなかったが、それでも時間を使わせていることに後ろめたさがあるのだろう。これまでも自分の希望を言うことはなかった。 中学生の男子が喜ぶ食べ物…。 自分の若かった頃を思い返し、安直だが、焼肉屋に連れていくことに決めた。 * 「前から気になっていたんですが、向田さんお仕事は大丈夫なんですか?」 春が肉をひっくり返しながら聞いてきた。 「大丈夫って?」 「毎日俺の食事に付き合って貰ってるから…」 「あぁ、そういうこと。俺は気ままな副社長だからね。今は大きな取引も抱えていないから、一日デスクに座ってれば終わる。就業時刻の6時には帰れるんだ」 「そうなんですね。俺に無理に合わせてるんじゃないかって少し心配してました」 「今日から茜もいないし、仕事を終えて家に帰っても寂しい男やもめなんだ。俺も春くんが食事に付き合ってくれて嬉しいんだよ?」 「そう言ってもらえると助かります」 肉を乗せた網を挟んで、春と語り合う。箸を動かしながらだと、向かい合う相手のことばかりに気を取られずに済むからか、春はいつもより饒舌だった。 ここはファミリー向けの焼肉店ではなく、向田行きつけの高級焼肉店の、少し薄暗い個室だ。メニューを見せると春が遠慮するだろうと思った為、向田が来たと知り個室に顔を出した店長におすすめを持ってくる様頼んだ。 「向田さん、これ、すごく美味しかったですよ。あ、もう焼けてる。どうぞ」 春が牛ロースを、網から向田の皿に移す。 中学生男子に焼き肉という選択は正しかった様で、春は上機嫌で美味しそうに次々肉を頬張っている。 春が取ってくれた肉は、向田にとっても格段に美味しく感じ、二人で美味しいねと笑い合った。 幸せだ。 好きな相手と共感し、微笑みを交わし合う。 そんな些細なことが、こんなにも自分を満たしてくれるなんて。 これまで知らなかった感情に、心が歓喜しているのがわかる。 このまま、正攻法のみで春の心を奪ってしまえれば、それでいいのではないか。それだけで、自分を満たすことはできるのではないか。 そんな思いが胸を過る。 しかし、俺はきっとすぐに春の全てが欲しくなる。文字通り全てが。 春の瞳に映るもの。春の口から発せられる名前。春に触れる権利。そして春の思考まで、自分でいっぱいにしなければ気が済まなくなる。 だって、愛しているから。 今のこの穏やかな時間も、充分自分を満たしているが、頭のどこか片隅には、狂おしいまでに春を所有したがっている自分がいる。 春に激しい肉欲をぶつけたい。いつ、何時もその行動を縛りたい。俺のことだけを考えて啼く人形にしてしまいたい。 そんな狂った自分がいる限り、世の恋人同士の様な生温い関係に、いつまでも満足できる筈もないのだ。 この幸せは、今だけなのだ。 椎名薬品工業を手に入れるまでは、生温い関係を楽しもう。 その間にあわよくば、春の心を奪い、身体も手にいれよう。 その後の段階に進む時、春は俺を拒絶するだろう。 しかし、きっとすぐに春も分かってくれる。俺の、春にとって非情な計画は、全て春への愛故と―――。 * * * あんなに気が進まなかった向田との食事も、既に残す所1週間となった。 今では、今日は何を食べに行くのかな?と楽しみにさえなっている。 父親は会社の経営で忙しく、母は専業主婦だった春の家庭では、外食をする事が殆どなかった為、毎日外食というのは新鮮で、子ども心が踊った。 初め怪しいと感じていた向田は、実はとてもいい人で、紳士的で、優しかった。 何で初めあんなに警戒していたのだろう。怪しいなんて考えていた自分が恥ずかしいし、向田さんにも失礼で申し訳ない。こんなによくしてくれているのに。 この1ヶ月が終わったら、向田さんに何かお礼をしなきゃいけないな。 そんな事を考えながらゆっくりシャワーを浴び、制服を身につけ、ウィッグも装着する。 向田は最近は18時半になったら校門で待つようになったので、電話をする必要はなくなっていた。 校門に向かう途中、さっきまで一緒に1on1をしていた紫音の事を考える。 いつもは1時間弱行っていた1オンだったが、今日は15分程で紫音は帰ってしまったのだ。 18時半まで時間を潰さなければならない春は、一人シュート練をして、それでも時間を持て余したので、いつもは大急ぎで浴びるシャワーに時間をかけた。 用意が整ってもまだ時間前だったが、いつも向田を待たせていた為、早めに校門に向かったのだ。 紫音が先に帰ったのは、彼女が迎えに来た為だった。 紫音の彼女。全然知らなかったが、聞くと文化祭の日から付き合っていたと渋々教えてくれた。 クリッとした目が印象的な、小動物の様な可愛らしい子だった。 紫音は見た目はすごく綺麗だし、バスケも上手いのでとてもモテるが、ずっと、「初恋の子が忘れられない」と言って断っていた筈だった。 やっと吹っ切れたのかな? 彼女か…。 同級生の中にも最近彼女持ちが増えはじめている。そういえば、隣の席の高階も、文化祭から同じクラスの子と付き合っていたな。 中1の紫音にさえ彼女がいるのに自分にいないのは、何かの沽券に関わる様な気がしたが、すぐにバカバカしいと否定する。 ああいうのは、作ろうと思って作るものじゃない。 好きな人ができて、その相手にも好かれて、晴れて両想いになって、始まるのだ。 まずは好きな人ができなきゃ、話にならないよな。 春が校門に着くとすぐに向田の車も到着した。 いつもの様に助手席に乗り込むと、車を発進させながら今晩は何が食べたいか、向田が聞いてくる。 向田はいつも春の意見を求めるが、春は決められなかった。遠慮しているというのも多少はあったが、外食を殆んどしない春は、美味しい店も知らないし、絶対にこれが食べたいと言う拘りもなかった。何よりも向田が選ぶ店はどこもハズレがなく、雰囲気も味もとてもよかったので、下手に自分が口出しするより、向田の知っている店に連れて行って貰いたかったのだ。 向田の連れていく店はどこも高級店だった為、味も雰囲気もいいのは当然だったが、一般的な外食の相場や雰囲気を知らない春は、そうとは気づいていなかった。 加えて、向田はいつも、女性を口説くのに最適な薄暗いムードのある個室を選んでいたのだが、その意図にも春は気づかなかった。 結局その日も、和食にしようかと向田が店を決めた。 「…あぁ、これから2名だ。…そうだ。あの個室は空いてるか?」 ハンドルを捌きながら手際よく幾つかの店に電話をかけていく向田は、男の春から見てもかっこよかった。 電話を切った向田がチラリと春に視線を寄越した。 「残念ながら一番気に入っている和食の店は空いていなかったんだ。だから、『まあまあ』な所になってしまったんだが…」 向田が心底申し訳なさそうに言うのを聞いて、春は慌てる。 「そんな、俺は本当にどこでも大丈夫ですから!」 「俺が、春くんを美味しい店に連れて行きたかったんだ。春くんを喜ばせたいからね」 にっこりと甘い微笑みを向けられ、春は自分の頬が熱くなるのを感じた。 こういうのが、殺し文句というやつなのだろう。 向田は最近この手の言葉を連発する。 きっと、根っからのプレイボーイなのだろう。 俺に対して使うのは間違ってると思うけど、癖なのか? わざとらしさも、嫌みっぽさもなく、とても自然で様になっているので、女でなくても照れてしまう。 * 向田がまあまあと評した創作和食の店は、春にとってはいつも向田が連れていってくれる店と同様いい雰囲気で、味もよかった。 食後のソルベをつつきながら、先程考えていたお礼のことを話そうと思い付く。 「向田さん。俺、向田さんに本当に良くして貰ったから、何かお礼がしたいんですけど、俺に出来ること何かありませんか?」 中学生の小遣いで向田が喜ぶ物が買えるとは到底思えなかった。だからと言って自己満足でつまらない物をあげるのもどうかと思い、思いきって本人に聞こうと思ったのだ。 留守番とか犬の散歩とか掃除とか、自分にできることが何かあるかもしれないと思って…。 「春くん。この食事代も春くんのお父さんから預かった物だし、前にも言ったけど、俺も春くんとの食事を楽しんでるんだ。お礼なんていらないよ」 「でも…俺みたいな子どもと…」 中学生の自分と食事をして、向田が本気で楽しんでいるなんて、そんなこと春には到底信じられなかった。 どう言えばお礼を受けて貰えるんだろう…。 じっと考え倦ねていると、向田が助け船を寄越した。 「そうだ春くん。俺が春くんと一緒にいるのが楽しいのは本当だけど、それでも春くんの気が納まらないなら、ひとつ頼みがある」 「なんですか?俺にできることなら、何でもしますよ!」 向田がクスクス笑いながら、何でもするなんてあんまり言わない方がいいよ、と言った後に懐から2枚の紙切れを取り出した。 「次の土日、俺とデートしてくれないか?」 来週の月曜日に春の両親が帰ってくるので、次の日曜日は春と向田の1カ月の最後となる日だ。 向田が春に向けて見せた紙切れは、隣県にある大型テーマパーク、ワンダーランドの2DAYSチケットだった。 「今日たまたま知り合いに貰ったんだが、一緒に行く相手がいなくてね。春くんさえよければ付き合って欲しい」 春の父は土日も祝日も殆んどなく働詰めだった為、たまの休みに遠出したいと我が儘を言う訳にも行かず、春は一度もワンダーランドに行ったことがなかった。春の周りで、そこに行ったことがない者は稀で、春は密かにいつか行ってみたいと思っていたのだ。 「でも、それじゃお礼にはならないです」 「俺にとっては、春くんと一緒にいられることが何よりも嬉しいんだから、立派なお礼だよ」 またこの人はそういう事を言う。春は戸惑いつつもまた顔に熱が篭るのを感じた。 きっと向田さんはすごく女性にモテるだろう。 優しくて、気が利いて、スマートで、甘い言葉もよく似合う。婚約者の茜さんも気が気でないだろう。 女たらしになりたい訳ではないが、こういう、人を楽しませる会話のできる、余裕のある大人に、俺もなれたらな。 「土曜日部活は?」 「土曜日は午前中だけです」 「じゃあ、土曜日の午後から車で行って、その日はワンダーランド直営のホテルに泊まろう。そうしたら、日曜日は朝から遊べるだろ?」 「いや、泊まるのは…」 「このチケット、ホテル付きだから」 向田が有無を言わさない体でにっこり笑う。とどめに春くんのお礼なんでしょ?と痛い所を突かれてしまう。 でも、泊まりはまずい。 ウィッグとコンタクトがバレてしまう。 父と母には、本当に信頼できると思った人にだけ、真実を見せなさいと言われてある。 向田さんのことは…好きだし、大人の男として憧れを抱いているが、信頼と言われると、わからない。 向田が当初感じたような怪しい人間ではないことは分かったが、だからと言って自分の全てを明け渡せるかと言われれば、そうじゃない。 普段本来の自分を隠している分、それを知られるのが恐い。 相手の反応が恐い。豹変するかもしれないし、逆に気味悪がられるかもしれない。 やっぱりまだ向田さんには見せられない。 けど、1日くらいコンタクトとウィッグ着けたままでもなんとかなる…よな。 そう楽観的に考えることにする。 それに、正直言って、ワンダーランドは行きたい。 全くお礼になっていないことは少し引っ掛かるが、向田さんがいいと言っているのだから…。 「春くん、いいかい?」 考え込んでいた春に向田が問いかけた。 「はい。あの、またお世話になりますが、よろしくお願いします」 そう答えると、向田がまたニッコリと本当に嬉しそうに笑った。

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