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暗雲 4

午前中の部活を終え、シャワー室から更衣室に出ると、もう誰も残っていないと思っていたそこに、制服姿の紫音がポツンとベンチに座っていた。 「あれ?紫音、まだいたの?」 紫音は、「用事があるから今日は帰る」と居残りせずに帰った筈なのに。 「ハル先輩…。もう用事は終わったんです」 こちらを向いた紫音は、薄く笑っていたが、どことなく元気がない。 「そうなんだ。今日は彼女じゃなかったんだな」 「彼女ですよ。もう、元彼女だけど」 「え?」 「今、別れて来ました」 紫音は無表情で淡々としており、何を考えているのか春にはわからなかったが、きっとそのせいで元気がないのだろう。 「…大丈夫か?辛いよな…」 「俺から振ったんです」 「そう、か」 恋愛経験のない春には、何と反応すればいいのかわからなかった。 振ったってことは、好きじゃなくなったってことで、別れたかったってことだよな。でも、紫音は何故かすごく辛そうだ。一度付き合うと、振ると言っても、一言では言えない感情が生じるものなのかもしれない。残念ながら経験のない俺には分からないが。 「紫音、俺には恋愛の事はよく分からないけど、元気出せよ?」 もっと心のこもったことを言いたかったのたが、口から出てきたのは非常に薄っぺらい言葉だった。 何も言わない紫音の背中でも撫でてやろうかと、隣に座った途端、横から紫音の力強い腕が伸びてきたかと思うと、すっぽりと抱きすくめられていた。ふわりと紫音の汗の匂いが鼻を掠める。 突然の事に驚いて一瞬硬直したが、男に抱き締められている割に嫌な感じはしなかった。 そういえば、文化祭の日も、同じことがあったな。あの時も、泣いてしまったのは俺だったのに、紫音の方が俺より辛そうにしていて。でもそのお陰で俺は救われた。共感して貰えたのも嬉しかったが、紫音に抱き締められて、優しい心臓のリズムを感じていたら、不思議と鬱々としていた気持ちが晴れて行ったのだ。 今、紫音がどんな気持ちなのか、俺にはわかってあげられないけれど、あの時紫音が俺を救ってくれた様に、俺も紫音の苦しみを癒してあげたい。 おずおずと紫音の背中に手を回し、その俺よりも広い背中を上から下に何度も撫でた。 初め痛いくらいの力で締め上げていた腕が徐々に緩んで、紫音が口を開いた。 「俺、忘れられない人がいるんです」 あまり身長差がないので、互いの顔が互いの肩に乗るような形になっている。その状態で紫音が喋ると、まるで耳元で囁かれているような感じになり、脳に直接声が響く。 「うん、知ってるよ」 「言っておきますけど、初恋の子じゃないですから」 「そうなのか?」 「あの子はきっとすごく遠くにいると思うけど、俺の今好きな人は、もっと傍にいるんです」 「そうか…」 紫音は、報われない恋をして苦しんでいたんだ。俺は紫音のこと、何も知らないんだな…。 「そうです。ハル先輩には内緒ですけどね」 紫音は腕を解き、顔をあげてこちらを見た。さっきよりは幾分ましな顔になっている。 「ちょっとは、元気出た?」 「はい、すごく」 すごくと言う割に晴れやかな顔はしていないが、口調はいつも通りだったので取り敢えず安心する。 「お前って案外甘えたなんだな」 「ハル先輩限定ですけどね」 「なんだそれ」 「それよりも、ハル先輩、俺以外の男にこんな簡単に抱き締められたらダメですよ!」 「そうそう男に抱き締められてたまるか」 「可能性があるから言ってるんです!」 「はぁ?」 紫音は尚もハル先輩は危なっかしいだの、もっと警戒しろだの言っていたが、途中から本気で相手をするのがバカらしくなり、はいはいと聞き流した。 だって、他の男に抱き締められるのを拒絶するのは言われるまでもない。 「もう、わかったって。俺だって他の男はやだよ。紫音だから嫌じゃなかったんだから」 言った途端、紫音が顔を赤くして、本当ですか?と肩を掴んできた。 もしかして俺、向田さんの「殺し文句」が移っちゃった?いや、たらしたい訳じゃなくて、素直になっただけだよな。うん。 「俺に抱き締められるのは、嫌じゃないんですね?」 「うん、大丈夫」 「じゃあ、これからも抱き締めていいですか?」 「え?いや、むやみやたらに抱き締められるのはやだよ」 紫音はなんだか、とても必死だ。 「じゃあ、今日みたいな時ならいいですか?」 「そうだな。お前が落ち込んでるときは、慰めてやるよ」 「俺も、ハル先輩が落ち込んでるときは、抱き締めてあげますね!」 「俺はお前みたいな甘えたじゃねえよ!」 そうは言ったが、紫音の抱擁の癒しの力を知っている俺は、またああいう事があった時は、抱き締めて貰うのも悪くないなと思っていた。 PPPP… 携帯のコール音で、これまで二人の間にあった独特の空気が一瞬にして弾けた。 途端、抱き締められていたせいで、二人の距離が近くなっていて、すぐ目の前に紫音の顔があることに気付き、弾かれた様に立ち上がる。狼狽えすぎて定かでないが、たぶん、俺の顔は今赤い。 携帯をロッカーに取りに行く為に数歩歩くと、気持ちが少し落ち付いた。 きっとこの電話は向田さんだ。 春同様狼狽している紫音に、ごめん出るわと断り、通話ボタンを押す。 「もしもし…はい、用意できてます。…あ、はい。俺もこれから向かいます」 通話を終えると、紫音も気を取り直したのか、いつも通りの表情で此方をみていた。 「今日も、お父さんの知り合いと?」 「うん。なんか、ワンダーランドに連れていって貰えることになってさ。もうすぐ着くみたいだから、俺行くな」 「あっ、ちょっと待って!俺も校門まで一緒に行きます!」 紫音が慌てて鞄を掴んで追いかけてきた。 「その鞄…。もしかして、泊まり掛け?」 足早に校門に向かう途中、春のいつもより膨らんだ鞄を見とがめた紫音が訝しげに聞いた。 「うん。ホテル付きのチケットらしくて」 「3人で?」 「婚約者の人は今出張中らしくて、父さんの知り合いと2人。てか、婚約者さんが東京にいたら、俺誘われてないと思う」 「ハル先輩!」 突然紫音が春の腕を引いた。立ち止まる二人。 校門はもう、すぐそこだ。 春はやや怪訝な表情で紫音を振り返った。 「ハル先輩、行かない方がいい」 「は?冗談よせよ、紫音」 「冗談じゃない!俺、嫌な予感がするんだ」 紫音は、固い表情で必死に言い募る。 春も、怪訝な表情を解して、紫音に向き直る。 「嫌な…って?」 「柏木先輩と同じって言えばわかる?」 「何言ってんだよ!向田さんは、お前の思ってる様な人じゃない」 「でもっ…」 「春くん、どうした?」 紫音が何か言いかけたが、春の後方からかけられた声に遮られた。 到着した向田が、校門の手前で言い争う二人に気づいて車を降りてきたのだ。 「向田さん!」 「あんたが向田か。どういうつもりだよ!ハル先輩をどうする気だ!?」 紫音がずいっと前に出て、腕を引いて春を自分の後ろに押しやった。 「どうするって何の事?今日の事なら、俺はただ、春くんに楽しんで貰いたいだけだよ。春くんは両親が1カ月も泊まりがけでいなくてね。寂しさやストレスがあるだろうと思ったから。…逆に、君に聞きたいな。俺が春くんをどうすると思ってるの?」 「それは…」 紫音が言葉を探していると、春が紫音の後ろから出て、向田に近づいた。 「向田さん、すみません。俺の後輩なんです。俺のこと、心配してくれてるみたいで…。悪気はないんです」 「ハル先輩!」 「いや、その後輩くんの気持ちもわかるよ。春くんは男の子なのについ心配してしまう程に魅力的だ。俺には茜がいるし、変な気持ちは断じてないが、困った。どうすれば信じて貰えるか分からない…」 向田は苦笑して額を押さえている。 春も突然のこの状況に困惑していた。 なんでこんなことに…。 暫く、3人とも無言だった。ついに口火を切ったのは、向田だ。 「春くん。君が少しでも心配なら、このチケットは勿体ないが、今日は行くのを止めよう。でも、君が俺を信じてくれるなら、せっかくの機会だし、行こう。どうするかは、春くんが決めてくれ」 向田は紫音に視線を向けて、それで文句はないだろう?と言うと、春を見た。 「俺、俺は…」 向田さんの事は、今では…信じてる。少なくともこの姿でいる以上は心配いらないだろう。客観的に考えても、父さんの友人が俺に変なことをする筈ないと思う。そんなことしたら父さんに対して面目が立たないだろう。 それに、ここで心配だから行かないと言ってしまったら、これまでお世話になった恩を仇で返す様なものじゃないか。 向田さんは、紫音の言うような人じゃない。俺はこの1カ月でそれを知っている。 「紫音、俺行くよ。向田さん、よろしくお願いします」 「ハル先輩…」 俺のことを想って助言してくれた紫音には申し訳ないが、心配するようなことが何もなかったと分かれば、この選択を理解してくれるだろう。何もある筈ないんだから。 向田がありがとうと言って、春を車に乗るよう促す。 紫音は言葉を失って佇んでいたが、車に乗り込んだ春を見て慌てて運転席の向田に駆け寄る。 「向田…さん。ハル先輩を辛い目に合わせないって、約束してください」 「あぁ、当然だ。約束するよ」 向田は口許に笑みを浮かべて答えると、車を発進させた。

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