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暗雲 5

紫音は暫く茫然自失して車の走り去った方角を見ていた。 行ってしまった…。 なぜもっと上手い方法で、ハル先輩を引き止められなかったのだろう。 向田がハル先輩に選ばせた様に見せた選択肢も、向田に世話になっていると感じているであろうハル先輩にしたら、後者を選ぶしかなかった筈だ。 向田の方が一枚も二枚も上手だった。大人なんだ。当然だ。 なのに、正面から突っかかって行った俺は、なんてバカなんだろう…。 それに、あの男の顔…。どこかで見た気がする。しかも、あまりいい印象の場面ではない筈だ。一体いつだった…? 文化祭の日に、春への想いを絶ち切ると心に決めた紫音だったが、結局今でも春を忘れられずにいる。 そう簡単に忘れられる程度の想いではなかったのだ。 紫音はこの約1ヶ月、友達でいることが春の為だと必死に言い聞かせ、もがき苦しんでいた。 春を忘れるために、まずは文化祭の日に告白された女子と付き合う事にした。 彼女は美玲と言って、同学年の中でもかわいいと噂されている話題の女子だった。 紫音も可愛らしい子だと思った為、きっと好きになれると信じて告白を受けたのだ。 しかし、現実は…。 美玲といても、心に浮かぶのは春の姿ばかり。 美玲と映画デートをすれば、もし、隣にいる相手がハル先輩だったら、きっとドキドキして映画に集中できないだろうな…と思った。 ゲームセンターでUFOキャッチャーのぬいぐるみをねだられれば、ハル先輩だったら、欲しい物があっても俺にねだったりしないで、自分で取ろうと頑張るだろうな。ああ見えて負けず嫌いだから、取れるまで諦めないに違いない…とその光景を想像して頬を緩ませたりもした。 美玲を好きにならなければと必死に彼女を見ようとすればする程、春と比べてしまい、胸が締め付けられた。 せめて、春と会わない環境だったなら、少しずつでもその想いを忘れることが出来たかもしれないが、毎日部活で顔を合わせるのだ。 会ってしまえば、やっぱり可愛いなぁと目で追ってしまうし、春とバスケをしているのが他の何よりも楽しいと感じる。 結果的に、部活の度に、やっぱりハル先輩が好きだと再認識してしまうのだ。 それでも尚、もがいて、美玲を好きになろうとした。 付き合って2週間目には、経験者の美玲のリードに応じて初めて他人と身体を合わせた。 さすがに身体まで重ねれば、気持ちもついてくると思った。 しかし、そう甘くはなかった。セックスの間にも、春の幻影がちらつくのだ。 自分でも最低だと思ったが、頭の中で、俺はハル先輩を組み敷いていた。 事後は、一方的にハル先輩を汚してしまった様な気になり強い自己嫌悪に襲われた。 身体まで開いてくれた美玲に対しても申し訳なくて、終わった後は最低な気分だった。 美玲との別れを決断したのは5日前だ。 平日は部活を優先したいから会えないと言っていたのに、美玲が体育館に顔を出した。 紫音は帰らせるつもりだったが、気を遣った春に「待たせちゃ悪いよ」と促され、渋々春との1オンを切り上げて帰った。 美玲は可愛らしく「来ちゃった」と言っていたが、紫音の機嫌は悪くなる一方だった。 家に寄って行くよう誘う美玲を、冷たく拒絶して、真っ直ぐ自宅に帰った。 帰宅後、美玲から着信やメールが来たが返信する気になれなかった。 春との時間を邪魔されたことが許せなかったし、何よりも春に美玲の存在を知られたことが、嫌だった。 春への想いが、汚されたような気持ちになったのだ。 そしてすぐにこう悟る。 汚しているのは美玲じゃない。俺自身だ。 ハル先輩が好きだと、毎日実感している癖に、馬鹿みたいにそれを否定しようとして美玲と付き合い続けているのは、他ならぬ俺自身なのだ。 美玲に対しても、ハル先輩に対しても、あまりに不誠実だった。 どうしたって、ハル先輩を忘れられないことに、もっと早く気付くべきだったのだ。 美玲とは、別れよう。 電話やメールではだめだ。 ちゃんと会って、きちんと話して謝ろう。 なるべく早くと思ったが、平日では、帰宅部の美玲を待たせてしまう。 俺が謝らなければならない話なのに、待たせてするのは、何か違うと思ったので、土曜日に約束をとりつけた。 美玲は土曜日の午前中、学校の自由講習に出席していた為、部活直後に会えばちょうどよかったのだ。 美玲には、春の名前は伏せたが、全て本当の事を話した。 忘れられない人がいて、その人を忘れるために美玲と付き合いだしたこと。 美玲を好きになりたいと思っていたが、結局想い人への未練を絶ちきれず、好きになることができなかったということ。 美玲は覚悟していたのか、冷静だった。そして、わかってたと一言言って顔を上げた。 話している間中、ずっと俯いていた顔には、涙が浮かんでいるかもしれないと思ったが、意外に彼女の顔はスッキリとしていた。 本当にごめんと何度も何度も謝り、美玲が去っていくのを見送った。 その後の気分はもう最悪の一言だった。 自分が自分で嫌になる。 俺が中途半端なせいで、関係のない美玲を傷つけ、そうまでした癖に結局はハル先輩の事だって、友達としては裏切っている。 俺はつくづく最低の人間だ。 春への想いに、どう折り合いをつけるべきか、紫音は毎日考え続けた。そして、美玲に別れを告げる前の晩にようやく結論が出た。 ハル先輩を好きなこの気持ちはどうしたって消せない。が、この想いを伝える気はない。それは、変わらない。 幸いハル先輩は非常に鈍感だ。はっきり伝えない限りはおそらく俺の想いに気付かないだろう。 紫音は、好きな気持ちを抱えたまま、春の「友達面」をし続けようと決めた。 それは結果的には、春を騙し、裏切ることだとわかっている。最低だと思うが、そうする以外どうしようもなかった。 いつか気持ちが風化して、本当の友達になれれば、それが一番いい。 でも、もし、ずっと好きなままだったとしても、春にとっての紫音が「友達」であればそれでいいのだ。そうすれば春は傷つかずに済む。自分が我慢すればいい。 そう割り切ってはみたが、こんなにも好きなのに、この気持ちが報われることはないんだと思うと、どうしても気分は晴れなかった。 ハル先輩に会いたい。 春の笑顔は、紫音にとっては一番の癒しだった。春に会えば最悪な気分が少しでもましになると思い、更衣室に向かった。 そして成行任せに春を抱き締めてしまった。 春を見ていると、これまで押さえつけていた気持ちが沸き上がってきて、止められなかった。 やっぱり俺はダメな人間だ。自分の行動ひとつコントロールできないなんて…。 春が嫌がらないでくれたのが救いだ。すごく嬉しい言葉も聞けて、それだけで紫音の沈んでいた気持ちは天にも昇る勢いで上昇した。 本当にどれだけ好きなんだろう。 それなのに。 あの向田の出現で紫音の胸はまた曇った。 落ち込んで沈んでいる訳ではない。 春が心配でたまらないのだ。 あの男…。 一見誠実そうには見えたが、信用しきれない。 考えれば考える程紫音の胸心は鬱積していった。

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