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暗雲 6
車を発進させて、バックミラーに写る紫音の姿が確認できなくなった頃、春が口を開いた。
「向田さん、本当にすみませんでした」
「全然気にしていないよ。春くんが俺を信じてるとわかって嬉しかったし」
女に対してよく使う甘い笑みを張り付けて優しい優しい口調で喋る。
こうすると、大抵春は恥ずかしそうに顔を赤らめて、戸惑ったように口を噤む。
だが今は、先程の事に気をとられているのだろう。いつもの可愛い反応は見られなかった。
気に入らないな。
俺と二人きりでいるというのに、あの男の事を考えているのか?
「春くん、本当に気にしないでくれ。折角の旅行だ。さっきの事は忘れて、楽しもうよ」
「はい…そうですよね。ありがとうございます」
春がようやくこちらを見て控え目な笑みを見せた。
「まずはどこかで昼御飯にしようか」
「そうですね。忘れてたけど、思い出したらお腹減ってきました」
胃の辺りをさすりながら無邪気に笑う姿は本当にかわいい。
だが、もう向田はその屈託のない姿を見るだけでは満足出来なくなっていた。
最近では、露骨な視線を送っても、春は全く意に返さなくなった。
だから、表情も、仕草も、ボディラインから指先までも、舐め回す様に何度も見た。
目を瞑っても瞼の裏に春が描ける程、仔細に観察した。
だが、衣服に隠された部分は、想像することしか出来ない。
見たい。春の全てが見たい。
衣服のその下の身体を。
紛い物の髪とレンズのその奥を。
向田はポケットに手を突っ込む。
春と会う度に、必ず持ち歩いていた薬に指先が触れる。
春と2人で食事をするようになり、初めの頃は、自分でも驚くくらい、春の笑顔を見ているだけで満たされていた。
だが、最近は――特にここ1週間は、悶々とした気持ちが増幅して、いつ自制心が崩壊してもおかしくない状態になっていた。
もうすぐで春とのこの濃密な時間が終わってしまう事に、どこか焦りを感じているのだ。
春の心は、想像より簡単に懐柔できた…と思っていたが、あと一歩で落ちるという今の状態がかなり長く続いていた。
これまで、あの手この手と、様々な甘い言葉を吐き、雰囲気のある場所で、ムードを作って迫ってみたが、恥ずかしそうにするのみで、こちらを甘い瞳で見つめ返してくれたりはしなかった。
じっとその目を逸らさず見つめてみても、疑問符を浮かべた表情で返されて、拍子抜けしてしまう。
あとほんの一歩だと思うのに、一向に落ちてこないのだ。
焦らされている。
春に意図はないのだろうが、春の反応は、男を煽るだけだ。
勘違いした相手に襲われても、致し方ない。
本当に、悪い子だ。
今日も落とせなかったら……。
今夜はゆっくりと眠って貰って、その全てを見せてもらおうか。
昼食は、道中にあるランチもやっている小洒落たイタリアンに入った。
パスタセットを頼んだ春は、クルクルと器用にパスタをフォークに巻き付けている。
親の躾の賜物か、春は食事をとる姿も綺麗だった。
姿勢もいいし、フォークを口に運ぶ姿も、ナプキンで口を拭う仕草も実に美しい。
美しいものは、穢しがいがある…。
向田は勝手に口角が上がるのを止められない。
食事を終えた二人は、これからの予定について語り合っていた。
「この調子だと、ワンダーランドに着くのは3時くらいかな。先にホテルにチェックインして、荷物を置こうか」
「そうですね。俺、制服のままだから、ホテルで着替えたいです」
「そうするといい」
そうと決まれば、と早々に店を後にして、いつになく長いドライブを楽しんだ。
「そうだ。飲み物はあるが、おやつを調達していなかった」
「おやつ?」
「そう。遠足にはつきものだろ?」
「俺はそんな子供じゃありません」
不満げに口を尖らせる春。
春はすっかりいつもの調子を取り戻し、向田の話にニコニコと相槌を打った。
向田も、黒い欲望を隠して、昼の顔で春に接した。
*
ワンダーランドに到着し、チェックインを済ませた二人は春の着替えの為に、一旦部屋に向かった。
このホテルは、ワンダーランドの直営で、ホテルのあちこちに、ワンダーランドのキャラクターがデザインされていた。意図的に隠してあるようなものもあり、見つけた春は嬉しそうにはしゃいでいた。
部屋は、普通のダブルだ。
スイートルームを取りたかったが、急だった為予約が埋まっていた。
チケットを貰ったなんて真っ赤な嘘だ。向田が春と来るために調達したのだ。
部屋のドアを開けた春が唖然としている。
ここは、スタンダードな客室だ。
ドアを開いてすぐ目に入る光景は…。
「向田さん!ベッドがひとつです!」
あまりに驚いた為か、春が見たままを口にする。
「そうだな。あのチケットは元々カップル向けの物だったから…」
「え?ってことは、ここで二人で寝るんですか?」
「そういうことになる。…嫌か?春くんが嫌なら、もうひとつ部屋をとろうか?」
「あ…いえ。それは大丈夫です」
向田は春の答えなど想定済みだ。思慮深い春が、嫌だなどとは言えないとわかっていた。
「ならよかった。春くんはまだ身体も小さいし、ダブルは意外と広いよ」
向田は日本人にしては長身な方で、183㎝あった。対して春は172㎝。春が華奢とは言え、男が二人で寝るのにダブルは決して広くないが、それも向田の計算だ。
ダブルの他にツインもクイーンも空いていたが、敢えてダブルを選んだのだ。理由は言わずもがな…であろう。
春はすぐに仕方ないと納得したのか、着替えを持って洗面所に向かい、ベージュのスラックスにシャツ。その上にカーディガンを羽織り出てきた。
「洗面所の、手を洗うところにも、いたんです!」
興奮気味に報告してくれる。キャラクターのことだ。
普段落ち着いていて大人びて見えるが、こういう姿を見ていると、まだ中学生なんだなと思わされる。
「ワンダーランドに行けば、イヤと言うほどいるぞ。さ、行こう」
春の顔が期待に彩られる。二人は上着を掴んで、部屋を出た。
噂には聞いていたが、正にこれは夢の国だ。
絵本の中にいるかのような店がズラリと周囲に並び、植木や花はかわいらしく綺麗な形に整えられ、道にはゴミひとつ落ちていない。
向田が言っていた様に、其処此処にキャラクターの着ぐるみがいて、それぞれのキャラに合った動きをしていて面白い。
入園者達も、皆現実を忘れたかのようにその雰囲気に馴染み、大きなリボンのカチューシャをした女の子や、キャラの耳や帽子を被っている人もいる。さすがにそれらを被る勇気はなかったが、そんな周囲を見ているだけでも、非日常が際立って感じられ、子供のようにはしゃいだ。
向田は鷹揚な態度でにこやかに春を見守ってくれていて、春は、まるで父親と来たかの様な気分になった。
向田さんを父親だなんて、失礼だよな。父さんの方が若いけど、一般的には向田さんくらいの年齢の人に俺みたいな大きい子供はいないんだから。
でも、そう言えば父さんと出掛けた記憶って殆どないな。
家の中や近所の公園ではたまの休みの日には沢山遊んで貰ったけど。
もしかしたら、向田さんとの方が出掛けているかもしれない。1ヶ月の外食に、今日なんかワンダーランドにまで連れてきて貰って。
向田の方をチラリと見上げると、ん?どうした?と優しく微笑みかけられる。
今日は俺からのお礼って名目だったけど、どう考えてもお礼にならない。
やっぱり、お礼は今日とは別にしよう。ゆっくり考えれば何かいい案が浮かぶかもしれない。
だから、今日は思いっきり甘えさせて貰おう。
「向田さん、今度あっち見てみましょう!」
水の中に落ちるジェットコースターのような乗り物が面白そうで、向田の手を引く。
お化け屋敷は御免だが、絶叫マシンは嫌いじゃない。
暫く順番待ちして、並び順で乗り込んでいくと、春と向田が一番先頭になった。
苦手ではないとは言え、少し緊張する。隣の向田は乗ったことがあるのか、余裕の表情で、手を挙げていようなんて言っている。
物語を見聞きしながら川を進み、途中で船が揺れて水しぶきがかかったりして、向田と笑い合った。
そして、クライマックス。真っ暗な中から勢いよく滝壺に突っ込んでいく。
一瞬浮遊感に襲われる。
落ちる瞬間、春も手を挙げる事に成功したが…滝壺に降り着いた時、髪と服がビショビショだった。
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