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暗雲 10

身体が重い…。 意識が徐々に浮上する中で一番初めに思ったことはそれだ。 不思議に思いながら瞼を上げて目にしたのは、向田の顔のどアップだった。 「わっ!」 驚いて身体を起こそうとしたが、向田の腕と足にがっちりと抱えられていて離れられなかった。 「ん…?あ、春くん。早いね」 春が暴れたことで目を覚ました向田が、甘い笑みを浮かべておはようと言っている。 視界に写る時計は5時を差していて、窓の外もまだ薄暗い。 「ちょ、ちょっと向田さん、離してください」 「ん?あぁ、ごめん。ちょっと勘違いしたようだ」 言いながら向田が腕をほどく。 本当にこの人は…。俺を女の人と勘違いしたのか?それとも抱き枕と? 拘束が解けた為に身体を起こした春は、突然強い頭重感に襲われ、頭を抱えた。 そして、その手に触れたあり得ない触感に背筋が凍る。 「春くん?大丈夫?」 向田の心配そうな問いかけには答えず、なぜかよろける足で洗面所に向かい鏡を覗くと、そこには…。 「なんで?!」 そこには、ウィッグを外した銀髪の自分が写っていた。 驚きで大きな声を出したら、自分の声が頭に響いてこめかみあたりがズキンとして目眩がした。 立っていられない。 頭を抱えて蹲っていると、向田が駆け寄ってきた。 「大丈夫!?」 「う…ちょっと、頭が痛くて…」 「ちょっと…って感じじゃないな。取り敢えずまだ起きるには早いし、ベッドに戻ろう?」 向田に肩を抱かれて立ち上がり、ベッドまで歩いた。 ウィッグがないという衝撃と、吐き気を伴う程の強い頭重感に我を忘れていた春は、されるがままだった。 丁寧にベッドに横たえられ、布団まで被せられて、ようやく我に帰る。 「すみません。…あの、俺、髪…」 「ごめん、俺が外したんだ。昨日寝てる間にずれて、地毛が覗いていたから、寝るのに邪魔だろうと思って」 「ずれて…」 ウィッグを被ったまま寝たことはこれまでなかったから、わからなかった。俺ってそんなに寝相が悪かったのか…。 「それにしても、春くんの髪の毛とても綺麗だね。なんで隠してるの?」 「それは、……色々、事情があって…」 「そっか。黒髪の春くんもいいけど、俺はこっちの方が好きだな」 ベッドの端に座っている向田が、にこっと優しく笑うと、春の頭を撫でた。 ウィッグを取った姿を見せても、全く態度を変えない向田に、春は安堵していた。 向田さんは、見せても大丈夫な人だったんだ…。 安心したら、包まれた布団と、頭を撫でてくる向田の大きな手が心地よくて、昨晩同様、抗い難い眠気に襲われ、そのまま瞼を落とした。 次に目が覚めたのは午後3時で、時計を確認した春は慌てて布団から飛び起きた。 向田は椅子に腰掛けてタバコをふかしていた。 「向田さん!俺、こんな時間まで…。信じられない…。…チェックアウトは!?」 「おはよう春くん。頭痛はどう?」 起きた春に気づいた向田は、タバコを揉み消し、換気の為に開けていた窓を閉めながら言った。 頭痛と言われてようやく先程の痛みを思い出す程、今は痛みは全くなく、思考もすっきりとしていた。 「もうすっかりよくなりました。それよりも、ホテルが!」 「よかった。ホテルの事は心配しないで。1泊延長できたから」 「え…。そんな…!俺のせいで…。本当にごめんなさい!」 「だから、気にしないで。俺はこう見えても副社長だから、この部屋の一泊分くらいどうってことない。春くんがゆっくり眠れて、体調が戻ったんだ。安いものだよ」 「はい…。ありがとうございます」 向田にこれ以上謝るのも逆に失礼な気がして、春は心の中だけで自分を責めた。 俺ってなんてバカなんだ。 寝坊するなんて、小学生じゃあるまいし。5時に一回起きてから、10時間も寝ていたなんて…。昨夜と合わせると何時間だ?なんて寝汚いんだ。 向田さんにものすごい迷惑をかけてしまった…。 はしゃぎ過ぎたのが良くなかったんだろうか。 そういえば昨晩から俺はおかしかった。 あんなに強烈な眠気に襲われたのは始めてだった。今朝もそうだ。 試合の後も、どんなにきつい練習の後でも、あんな眠気がやってきたことはない。 楽しくて、興奮しすぎて自分でも気づかない内にこれまでにないくらい疲弊していたのだろうか……。 いつまでも自分を責めて考え事をしていてもしょうがないので、気持ちを切り替えてさっとシャワーを浴びた。 時間が限られている中、シャワーに時間を使いたくなかったが、寝汗をかいたのかなんだか身体がベタベタしていて気持ち悪かったのだ。 「おかえり、春くん」 「お待たせしました」 これから二人は再びワンダーランドへ遊びに行くことになっている。 もう夕方に近い時間だった為、春は遠慮したが、せっかくだから1時間だけでも…と向田が言ってくれたので、甘えることにしたのだ。 春はベッドボードの上に乗っていたウィッグを見つけると、それを掴んだ。 「それ、また被るの?」 「はい。誰に会うかわかりませんし」 「大丈夫じゃないか?今の姿を万が一知り合いに見られても、黒髪の春くんと同一人物とは思われないよ」 「そうでしょうか…?」 もし本当にそうなら、意味もないのにわざわざ被りたくはない。 両親の意図は違ったが、春の変装の動機は、友人に変な目で見られない為だったのだから。 「あ、そうだ!」 春はそそくさと洗面所に入り、鏡の前に立つと、暫し逡巡した。 普段の俺と、出来る限りかけ離れていた方が、より気付かれないよな。 向田さんは…。きっと大丈夫!あの人は俺を色眼鏡で見ることはないはずだ。髪の毛のインパクトに比べたら目の色なんてどうってことないのだから。 春は思いきって昨日から入れっぱなしのコンタクトレンズを外した。 目に張り付いていたレンズがなくなると、視界がクリアになった気がした。 大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせ、洗面所を出て、向田の前に立つ。 「この方が、気付かれないですよね?」 向田は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに柔和な微笑みを見せた。 「うん、だね。すごく綺麗だ」 春も、向田の変わらない態度に安堵して釣られたように微笑む。 「ありがとうございます。両親も良く褒めてくれるんです」 「本当に、隠すのが勿体ない。さ、もう時間もない。早くワンダーランドに行こう」 向田と連れ立って部屋を出る。初めはすれ違う人達からの視線が痛かったが、物心ついた時からそうだった事を思い出すと、すぐに気にならなくなった。

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