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捕縛 2
翌週の日曜日。
それは新聞に大々的に載った。
〔向田製薬、椎名薬品工業を吸収合併〕
〔向田製薬の向田孝之社長退任。後任には長男の向田孝市氏〕
どういうこと…?
父さんの会社が、吸収された?
そして、向田さんが社長に昇格?
なんで…?
春はパニック状態だった。
だって、あの時向田さんは、父さんを助けるって言っていたのに。
これじゃあ、父さんの会社を手に入れた向田さんが昇格人事になったみたいじゃないか!
「父さん、何で?どういうこと?会社はうまくいってたんじゃないの!?」
珍しく休日出勤しなかった父に詰め寄る。
「春、心配かけてごめん。でも、春や母さんに、苦しい思いをさせることはないから。これまで通りの生活ができるから、安心して」
「そんなこと…。父さんの大事な会社だったのに…」
父さんが、毎日毎晩、ろくに休みもとらずに一代でここまで大きくした会社。父さんが自分の会社を誰よりも愛していたことくらい、知っている。
「仕方なかったんだよ、春」
「向田さんに…向田さんに騙されたの?」
「いや、違うよ。騙されたとは違う。向田さんとは…取引をしたんだ」
「取り引き…?」
「そうだよ、春。…これまで何も教えてあげられなくて、すまなかった。
春にも、きちんと話すよ」
父は、母と目配せをして頷き合うと、春に語りだした。
昨年の秋、父は須藤という研究員をヘッドハントした。
彼女は学生時代から非常に優秀で、この業界では有名な人物だった。
椎名入社後もすぐに頭角を現し、新薬のプロジェクトリーダーとなった彼女は、大学での治験にも携わるようになった。
そこで、事件は起こる。
彼女が、治験のデータを意図的に改竄したのだ。改竄などせずとも、その薬には充分効能があることは、社内の実験でも明らかであったのに。
何故そんなことをしたのか、彼女は最後まで語らなかった。
事態を重く見た父は、須藤を懲戒解雇。
幸いまだ国に認可を通す前であった為、赤字を覚悟で大学に頭を下げ、治験のやり直しを行うこととなった。
会社への打撃は多少ならずともあったが、早期発見により事なきを得たと思った時、向田から連絡があった。
向田に聞かされたのは、データ改竄の証拠を何らかの方法でマスコミが入手していて、それをスクープとして流そうとしているという話だった。
にわかには信じられなかった父だったが、数日後、そのマスコミが実際に接触してきて、記事になる予定の原稿も見せられた。
この手の事件が世間を賑わしたのが記憶にも新しいこの時期、同様の事件が起これば、マスコミの格好の餌食となるだろう。
後ろ楯も何もない椎名薬品工業にとっては、致命的だ。
そんな時、向田から取り引きを持ちかけられた。
マスコミにも顔のきく向田から、各社に圧力をかけて、記事を揉み消してやろうと申し出があった。父からしたら、願ってもないことだ。
しかし、向田はただでとは言わなかった。
求められたのは、椎名薬品工業だった。
父は悩んだ。
マスコミに騒がれても、ファミシルが有る限り倒産とまでは行かないかもしれないが、かなりの人員を整理しなければならないだろう。
これまで、椎名を支え、精一杯に尽くしてくれた社員を、路頭に迷わせる訳にはいかない。
向田は、合併後も、椎名の社員を大事にしてくれると言ってくれた。
父は、悩んだ挙げ句、向田との取引を受け入れた。その決断を向田に伝えたのがあの日。向田が自宅にきていたあの日だったのだ。
たったひとりの身勝手な社員の為に、父は会社を失った。
これからは、向田の下で働かなければならなくなるのだ。
父は、社員を守るためには、これしかなかった。この選択に後悔はない。と強がって笑っていたが、どれ程に悔しかったろう。
向田は、父を助けると言った。
確かに一部分は助けたのかもしれないが、それをネタに父に不利な取引を持ちかけるなんて、そんなの、助けたなんて言わない。
俺は、あの人をいい人だと思って信用していたのに…。
その日は、父と母と、沢山の事を話した。
父は、大人の世界の醜い部分を春に見せたくなかった、と 言っていたが、春は除け者にされるよりも話してほしいと言った。
祖父母も親戚もいない、文字どおりたった3人の家族なのだから、と。
しかし、春を襲う悲劇は、これだけではなかった。いや、これは、そのほんの始まり。入り口でしかないのだから――――。
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