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捕縛 4

春が文化祭に出かけた日、拓弥は話があるという向田に、社長室に呼ばれていた。 皮張りのソファに座らされ、正面に向田が腰かけた。 「…それで、お話とは?」 「話、というか、お願いなんですが」 「なんですか?」 「息子さんの春くんと、養子縁組させてください」 向田は何でもないことのようにさらっと言った。拓弥は、一瞬向田が何を言っているのか理解ができなかった。 向田が続けた。 「春くんは素晴らしい。礼儀正しく成績優秀でスポーツも万能。あの見た目のよさからカリスマ性もある。私の、後継者として相応しい」 拓弥はようやく働いてきた頭で反論する。 「後継者って、その為に縁組を?!正気ですか、向田さん!」 「正気だよ。家は代々同族経営でね。例え紙切れ一枚でも、法的に親子と認められれば、古老達も黙らせられる」 「そんな、後継者だなんて。春はそんなの望んでいません。私達もです。ちゃんとした親が有りながら、実の息子を養子に出す訳ないでしょう!」 相手が社長ということも忘れ、つい語調が荒くなる。向田はそれを気にする素振りもなく、にやと笑った。嫌な笑みだった。 「そうですか。椎名さんがそう言うなら、仕方ない。元椎名薬品工業の社員たちは、今日限りで辞めてもらいましょう」 「何を言うんです!!」 「ついでに、ファミシルについても、発売中止にしましょう」 「な!?そんなことができる筈がないでしょう!」 「簡単なことです。データ改竄の件をリークします。そして、ファミシルについても、不審なデータがあるとにおわせる。抗がん剤は劇薬ですからねぇ。国が黙っていないでしょう。きっとすぐに発売停止、再調査の命が下るでしょう」 「なんて事を!あなたは、一体何がしたいんです!?」 「さっきから申し上げてるでしょう。春くんが欲しいんですよ。…確か、奥さん、乳ガンの治療中でしたよね?ファミシルが使えなくなったら、どうなるでしょうね?奥さんだけじゃない。世の中の、ファミシルによって生き長らえている患者たちも、どうなることやら…」 「ふざけるな!!」 ダンッと机を叩く音が部屋に響く。拓弥の我慢も限界だった。 「そんなことをされてたまるか!!」 「そうでしょう。困るでしょう。あなたの選択肢は二つにひとつです。春くんとの養子縁組を認めるか、社員のリストラとファミシルの発売停止を認めるか。さぁ、どっちにしますか?」 「あんたって人は!卑怯だぞ!」 「卑怯でも何でも結構。早く選んでください。あ、ついでに、あなたの人事異動も伝えておきます。あなたは来週からドイツ支店に転勤です」 「俺は、もうあんたの下で働く気はない!辞めさせてもらう!」 「それはいけない。そんなことをするなら、あなたの社員と、ファミシルも一緒にさよならです」 拓弥は、言葉が出なかった。唇を噛みしめ、怒りと悔しさで、震える拳をなんとか諌める。 向田はそんな姿を楽しそうに眺める。 「さあ、答えを聞かせてもらいましょう」 * 「養子…縁組…?」 父の話に頭がついていかない。 何を言ってるの? 俺に、向田さんの子供になれというの? そんなの、そんなの…。 「やだよ!俺はそんなの嫌だ!」 「春…すまない…」 父は、最初よりも尚項垂れて、そう繰り返すのみだ。 背中を丸めた父は、とても小さく見えた。 「父さんは、俺を売ったの?社員と薬がそんなに大事?父さんにとって、俺って何…?」 春は頭の中では分かっていた。 1500人以上の社員とその家族の生活が、人生がかかっていること。そして、ファミシルが多くの人の命を…母の命を救っていること。 どうしようもなかった事は分かっていたが、どうしても割り切れなかった。 この、整理のつかない悲しみと怒りを、誰かにぶつけずにはいられなかったのだ。 春の目からは次々と涙が零れた。 隣に座っていた父が、春を抱き寄せる。 「春、父さんの決めたことは、春にそう思われても仕方のないことだ。でも、これだけは忘れないで欲しい。父さんも母さんも、春を愛している。 …向田さんの養子になったって、父さん達との縁は切れないんだよ。 でも、父さんは春の夢を奪ってしまった。春の人生を、レールに乗せてしまった。許してくれとは言わない。父さんを、どんなに恨んでくれてもかまわない」 「父さん…」 春は父の胸で泣いた。 父さんを恨むなんて、そんなこと出来る筈ない。 俺が憎いのは、向田だ。 俺たち家族をバラバラにした、向田が憎い。 ショックで体調を崩し、寝室で休んでいた母もリビングに来て、春を抱き締めた。 母も泣いていた。 * * * あれからあっという間に、養子縁組の手続きは進み、父母がドイツに発つ日がやってきた。 向田は、何故か母もドイツに連れていく様父を更に脅したのだ。 書類上だけでなく、物理的にも春は両親と引き離される事になってしまったのだ。 春はこの1週間をどう過ごしたか、あまり覚えていない。 唐突に父母と離れて暮らさなければならなくなってしまった衝撃は、あまりに大きかった。 春はまだ中学生。大人びて見えても、まだ親の愛情と庇護が必要な年齢の子供なのだ。 父は、ドイツに発つ前日に、春に預金通帳を渡してこう言った。 「どうしても夢を追いたかったら、そして、我慢のできないことがあったら、これを使って春の好きなように生きなさい。向田さんが何を言っても、春は気にする必要はないからね。全力で逃げなさい」 通帳の中には、5000万円入っていた。 春はその日、学校を休んで父母の見送りに行った。 搭乗時間が近づいても、春から離れようとしない父母に、行かなきゃ、と少しだけ笑って見せた。 保安検査を受け、搭乗待ち受け所に姿を消す父母を、ずっと見ていた。 二人も、泣き出しそうな表情でギリギリまで手を振っていた。 春の姿が見えなくなった所で、母は泣き崩れた。 春は、強い喪失感に崩折れそうになる足を必死に踏ん張り、暫く独りそこに佇んでいた。

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