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捕縛 13
春は元々自分の容姿に頓着しないタイプだった。
朝は顔を洗って見苦しくない程度に整容してコンタクトとウィッグを装着すればそれで完了で、年頃の若者にしては鏡を見ている時間も回数も少なかった。
「やっと消えた……」
元々少なかった以前よりも更に立つことの減った鏡の前で、春は自分の首筋を熱心に検分していた。
本当はくたびれた今の自分の姿なんて見たくもなかったが、痣の確認だけは毎日の様に行った。早く消えて欲しいその一心で…。
向田につけられた痣が完全に消えるまでに3日を要した。
ようやく明日から制服の中にタートルを着込まなくて済むし、休んでいた体育にだって参加できる。
周囲には、風邪を引いたと言って誤魔化していたが、休み続けて1週間も経てば、体育教師からも訝しむ様な視線を向けられたし、クラスメイトや恭哉からだって…。
もう誤魔化し続けるのは限界だったのだ。
だが、ただでその痣がなくなった訳ではなかった。
あれから向田からのキスに応じる事を余儀なくされている。これまでの様に唇を固く引き結んだり、舌を引っ込めて逃げる事は許されなくなってしまった。
嫌だが、逆らえる筈もない。
拒絶すれば、春がもっと嫌がる事をきっと向田はするからだ。ようやく消えかかった痣を、また新たにつけられてしまうに違いなかった。
こうして、これからも一手ずつ抵抗を封じられ自分の意思を踏みにじられていくのだろうか。でも、そうしたら、自分は最後には一体どうなってしまうのだろう……。
春は、一切の拒絶もできず、でくの坊の様にただただ向田に身体を好き勝手弄られる自分を想像して身震いをした。
そんな事になったら、自分が自分でなくなってしまう。
これは今の春が想像できうる限り最悪の結末だった。
現実は、向田がやろうとしている事は、それよりも尚残酷であることを、春はまだ知らなかった。
*
「今日は外食をしよう」
1日とて欠かす事なく春のマンションを訪れてはすぐにベッドに押し倒していた向田が、突然そんな事を言った。
「春は外食が好きだろう?久しぶりに美味しい物を食べて息抜きしよう」
予想外の向田の言葉に反応できないでいる春に、向田は更に言った。
「春に似合いそうな服を見繕ってきてあげたから、これに着替えて」
向田から言いつけられている為ウィッグとコンタクトは外していたものの、部屋着に着替える気力もなく制服のままだった春に、大きな紙袋から取り出した服を差し出す。
呆気に取られていた春は、素直にそれを受け取った。それは、普通のシンプルなニットとパンツに見えた。
一体何を考えているんだろう……。
向田が意味もなく服を買い与えたり、外食に連れ出したりなんて、する訳がない。
……何を企んでいるのだろうか。
「早く着替えなさい」
服を掴んだまま微動だにしない春を向田が少しイラついた風を装って急かした。
今さら、こんな普通の服に着替える程度の事を拒絶して『お仕置き』を受けるのは御免だ。
「あっちで……着替えてくる」
春は向田の横をすり抜け、脱衣室に向かった。
春には向田が何をしたいのか、全く読めなかった。考えても考えても分からないから、もしかしたら今日は本当にただ外食をするだけで帰るかもしれないと楽観的に考えようとも思った。だが、そんな能天気な思考になれる程春は図太くなかったし、これまでの向田の素行は悪すぎた。
「凄く似合う」
大きめのニットを頭から被った所で、突然声がした。
跳ねるようにして脱衣室の入り口を振り返ると、何が楽しいのか、笑みを浮かべた向田が腕を組んで立っていた。
「可愛いよ。とても男の子には見えない」
向田は、春の予想以上の出来映えに拍手を送りたい程だった。
細身のパンツに、太股が隠れる丈のオフホワイトのゆったりとしたニットは、春の丸みのない身体を上手く誤魔化し、中性的な雰囲気をより高めさせていた。
寧ろ、10人に聞けば最低でも7、8人位は女だと断言するだろう位には女性的雰囲気が強かった。
春は『男に見えない』という向田の発言を気にして、脱衣室の鏡に写った自分を横目で確認した。
一見普通に見えたその服は、着てみるとまるで女性物の様なデザインだった。
自分を紛うことなく男であると認識している春は、男か女か分からない様な格好をしている自分をただただ気持ち悪いと思った。
こいつは、俺を嘲笑う為にこんな格好をさせたのだろうか。なんて悪趣味なんだろう。
「さあ、食事に行こうね」
ニコニコと上機嫌な向田に連れられてマンションを出ると、去年も乗った高級車の助手席に乗せられる。
「こうしてデートするのは久し振りだね」
「………」
「夫婦になってからは、初めてのデートだね。俺たちのラブラブっぷりを、みんなに見せつけてやろう」
「……どこが?」
一体どこがラブラブだと言うのだろう。
口ごたえをすれば倍になって仕返しされるのは分かっていたが、それでも言わずにはいられなかった。
全部無理矢理されている事なのに、それを相思相愛と捉えているのだとしたら、頭が沸いているとしか思えない。
「だって、こんなに毎日セックスしてるカップルなんてそういないよ?毎日してるから、春のお尻の孔もすっかり俺のおちんちんに馴染んじゃったし…」
「もういい」
「はは。本当に春は恥ずかしがり屋さんだなぁ」
向田はクスクス笑ったが、春は歯噛みして俯いた。
やっぱり、仕返しをされた。
こいつは、全部わざとやっているんだ。完全に頭がおかしいのではなく、全て分かった上で俺の嫌がる事を計算して言ったりやったりしてるんだ。
イカれてるのには違いないけれど、ただ頭がおかしい人間よりもよっぽど質が悪い。
「今日予約した店は常連でね。デートだからって伝えてあるんだよ。たから、ちゃんと恋人らしく振る舞うんだよ」
その言葉で、向田が何をしたかったのか分かった気がした。
やっぱりただの息抜きなんかじゃなかった。
俺を辱しめ、嫌がらせるお得意のプレイの一貫だ。
「何でこんなことするんだよ」
春は挫けてしまいそうだった。
悔しくて情けなくて辛い。
一体いつになったら、俺はこいつから逃れられるのだろう……。
「俺がしたいからだよ。春を連れて歩くと男共が色めき立つからね。そんな春が俺だけの物で、俺の言いなりなんだと思うと、今夜のセックスが一層楽しくなるだろう?」
最初から期待なんてしていなかった。
していなかったけれど、やはりこれで終わりなんかではなくて、今日もヤられるのだ。
きっと、向田の全ての行動の理由はそれなのだろう。『俺がしたいから』
そこには、相手の意思や気持ちは露ほども考えられていなくて、ただ自分の欲望を満たす事しかないのだ。
自分勝手で、冷血で非道な人間。
嫌いだ。大嫌いだ。心の底から軽蔑するし、嫌悪してる。
それなのに、そんな人間と、どうして俺は人前で寄り添って歩かなければならないのだろう。手の指まで絡まされて……。
「緊張しなくて大丈夫だよ。春は女の子みたいに可愛いから」
向田が耳元で囁いた。そんなの、何の慰めにもならないというのに。
「向田様、お待たせ致しました。こちらへどうぞ」
ownerと書かれたバッチを付けた男が奥から現れて、最上階の部屋に案内された。
モノトーンで統一された落ち着いたテーブルセットに、豪華な照明。その奥に東京の夜景を一望できる大きな窓があって、こんな状況でさえなければ感動していたかもしれない。が、今の春の心には、何ひとつとして響かなかった。
「こ、こちら、照明を落としますと………この様によりロマンチックな雰囲気をお楽しみ頂けます」
常連客である大会社社長の向田から、大事な恋人を連れて行くから…と申し遣っていたのだ。この店で一番いい部屋を用意して待っていたオーナーは、思いがけない恋人の無反応に少し慌てた。
東京タワーの展望室の様に一面窓になっているこの部屋に通された女性は、一様に感嘆の声を洩らすものだったから…。
「ああ本当だ。こっちに来て見てご覧」
向田の美しく若い恋人はご機嫌斜めの様だが、向田自身は喜んでいる様子が分かって、オーナーは胸を撫で下ろした。
そして、食前酒のシャンパンを持って再びその部屋を訪れた時、二人は熱いキスを交わしている所だった。
先程とは違った種類の居心地の悪さを感じながらシャンパンをあける。
ガラス窓の前でキスをする二人。
珍しいなと思った。
いや、キス自体は何も珍しい事ではない。こういう店に来る客は一様に金持ちで、中には開放的な人間もいる。キス程度は何度も遭遇した事はあった。
だが、向田がこんなに情熱的な所は初めて見た。毎回違う女性を連れて来ていたが、いつも紳士的で、熱っぽい視線を向けていたのは寧ろ女性の方だったからだ。
今日向田が連れている女性は、飾り気も表情もあまりなく、ともすればボーイッシュな雰囲気すらあったが、銀髪に碧眼という珍しい特徴に加えて、思わずはっとする程美しい容姿の人だった。
それに、大人っぽく見えるが恐らくかなり若い。化粧気がないせいかもしれないが、それでも間違いなく18才は超えていないだろう。向田とはかなりの年の差だ。
ほぼ確実に未成年と、戯れでないレベルのキスをしている所を見せつけられても、見ざる聞かざるで通すのが流儀だ。
金持ちの娯楽というものは、往々にしてこういう物だからだ。金さえ積めば、未成年だろうと、絶世の美人だろうと手に入るのだ。それを羨ましいと思った事はこれまでも何度かあったが、今日は一段とその思いが強かった。
「ン……」
女性からやや苦し気な艶っぽい声が洩れ聞こえてきて、テーブルセッティングをするフリをしながら思わず二人を盗み見てしまう。
窓の前の手すりを背に両手首を掴まれ、逃げ場のない状態でキスを受け入れる女性の姿は非常に扇情的だった。
理性的に見えていた向田が夢中になるのも頷ける。
別に自分は少女と言える年齢の女性が好きな訳でもなかったが、あの子ならキスしてみたいし、抱いてみたい。
いったいいくら積めばあれほどの上玉を好きにできるのだろうか……。
ここまで考えて、思わず盗み見るというレベルでなく見続けていた事に気づいたオーナーは、焦って無理矢理視線を引き剥がし、そそくさと部屋を後にした。
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