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捕縛 24
悔しくて絶望的でとても立ち上がる気力がない。
春は逃げ帰る様に入った自宅マンションの玄関の鍵をかけて、冷たいタイルの上にそのまま力なく座り込んだ。
この家は春にとって心の拠り所と言える物だった。
例え、あの男の出入りが自由で、決して春を守ってくれる場所ではなかったとしても、それでも父や母と繋がれる場所。昔の自分の姿を思い出せる場所だった。
それなのに、この場所をも奪われ、これ以上あの男に縛られたら、自分は一体どうなってしまうのだろう……。
言いようもない恐怖と不安が一気に押し寄せる。
そんなの無理だ。
あの男の存在しか感じられない所に帰らなきゃいけないなんて、そんなのとても耐えられない……。
……いっそ感情も何も手放してしまって、あの男の言う「お人形」になれば、楽になれるのかな。
でもそうなったら、俺の意思はどこにいってしまうんだろう。確かにあいつを拒絶し、嫌悪感を抱いている俺の意思は。
そして、その意思がなくなった俺は、本当に『俺』なのだろうか。この身体は、ただの脱け殻になってしまうんじゃないだろうか。
あいつは、そんな物を手に入れて一体何がしたいのだろう。この珍しい毛色の入れ物が欲しいのだろうか。
……そうなのかもしれない。あいつのこの身体への執着は異常な程だから。
あいつが欲しいのは、この入れ物だけなのだ。
お人形の様に何の感情もない脱け殻。
恐怖も嫌悪も苦痛も何も感じない、脱け殻。
俺の意思は、あいつにとっては邪魔なだけだ。
そして俺にとっても――――。
ふいに自宅の電話が鳴って春は我に返った。
玄関に飾られた装飾過多の見辛い時計は午後11時15分を指していた。向田に解放されたのが11時前だったから、春は少なくとも15分は玄関に座り込んでいた事に気付いて少なからず驚いた。
向田といたときの1分1秒が長すぎて、こんなに時が経つのが早く感じたのだろうか………。
それにしてもこんな時間に一体誰だろう…。
冷えきった身体を両腕で抱えてリビングに向かい、恐る恐る受話器をあげると、聞こえてきたのは3日ぶりの懐かしい声だった。
電話口の向こうから聞こえる『春』と呼び掛ける声は、包み込む様な優しさに溢れていた。
向田の言うそれとはまるきり違っていて、頑なに閉ざされた春の心を一瞬で溶かしてしまいそうな程暖かい。
春の受話器を握る手は小刻みに震えた。
「……父さん」
春は声が震えそうになるのを堪えてようやく口にした。
『起こしたか?そっちはもう11時だもんな』
父は春の声の微かな変化を、寝起きの為と思った様だ。
心配をかけてはいけない。
春はまだ手を震わせながらも、いつもの声色を出す事だけに全神経を使った。
「大丈夫、起きてたよ。どうかした?」
『そうか。いや、特に用事はないよ。いつもの時間に電話したんだけど、出なかったからね』
父と母からは、2、3日起きに電話が来ていた。いつもの時間と言うのは午後5時頃で、春が学校から帰ってきて、まだ向田も部屋に訪れて来ない、春にとっては自由に使える数少ない時間だ。
「ごめん、その時間は出掛けてて…」
『いやいいんだ、今日は日曜日だったもんな。友達とか?どこに行ってたんだ?』
「…………」
春は咄嗟に言葉がでなかった。映画とかバスケの試合とか、心構えをしていれば自分が友達と行きそうな場所のひとつくらい思いついた筈なのに、何も言えなかった。自分を普通に見せる事に集中していて、当然聞かれるであろう質問の答えすら考える余裕がなかったからだ。
『春?』
「…………」
春がまだ何も言えずにいると、突然電話口の父が笑い始めた。
『春ももう15才だもんなぁ。親に秘密にしておきたい事のひとつやふたつあるか』
父はしきりに「そうかそうか」と言いながら笑っている。
春には何を言っているのかわからなかったが、向田の事に勘づかれた訳ではない事は明白だったから、少しほっとしていた。
この秘密は、誰にも知られてはいけない。
息子が毎晩あんな事をしているなんて、まともな両親が知ったらどう思うか……。
想像するだけで春は身震いした。
こんな禁忌、知られてはいけないのだ。親どころか友達にも、誰にも。
『父さんな、春を信頼しているからな』
「え……」
『春は、人を傷つけたり悲しませたり、誰かに迷惑をかける様な事は絶対にしない子だ。これだけ離れていてもね、父さんも母さんもそういう心配は一切していないんだよ。だから、春は自分の思う通りに行動しなさい。それはきっと正しい選択だから』
「………」
俺の思う通りに………。
人形になる……?
いや、違う。それは俺が思っている事じゃなくてあいつの望みだ。
俺は……嫌だ。
嫌なんだ、あいつが。あいつのする事が。
でもあいつには逆らえない。
それでも、あいつの望み通りになるなんて嫌だ。脱け殻になんかなりたくない。
『春……?なんか今日は少し元気がないんじゃないか?』
長い沈黙を心配した父に、春は慌てて取り繕った。
「そんなことないよ!少し、疲れてるからかな」
『なら、いいけど…。何かあったら相談してくれな?』
「うん」
『そういえば、向田さんは……春の嫌がるようなことはしないか?』
春はギクリと身体が強張った。
いやがるような……?
まさか父さんは何か知っているのか?
いや、でもそんなまさか。そんな事がある筈ない。
これまでもあいつの事はたまに聞いてきていたじゃないか。
父さんだってあいつの事は憎んでいるだろうに、跡取りにならなければならない俺に気を遣ってわざわざ「さん」付けで呼んで。
もしも何か知っているのなら、そんな風に呼ばない筈だし、こんな風にフランクに聞いてこない筈だ。
「何もないよ」
努めて平然を装う。何でもない事の様に。さして関心もない風に。
『全然会ってないのか?』
「…たまに……食事するくらい」
『そうか』
電話口の父の声が固い。
そして、何か思う所があるみたいに口を閉ざした。
拓弥からすれば、愛する息子を奪った向田への複雑な心境が言葉にできなかっただけだったが、その向田との間に秘密を抱えた春には、見せたくない物だらけの懐を探られる様で耐えがたい沈黙だった。
「お…俺の事はいいからさ、そっちの話を聞かせてよ!母さんは元気?仕事は順調?」
『あ、あぁ。母さんは元気だよ………』
それから春は父と10分程話した。
母の治療は順調である事や、ドイツ支店長を勤めていた元部下が、父に引き継ぎを終えて入れ替わりに日本支店に転勤になった話等を聞いて、電話を切った。
じゃあ……と、言った後も、名残惜しむ様に言い加えた父の言葉が春の耳に残った。『ちゃんと朝ごはん食べるんだよ』『寝坊しない様にね』……………。
自棄になって、自分を無くしてはいけないと思った。
両親とは遠く離れていても、こうして話ができる。ちゃんと繋がっているのだ。書類とか法的な関係は変えられても、心の絆まで奪い去る事はできないのだから。
そこまで考えて、急にひどく心配になった。
引っ越したら、この電話はどうなってしまうのだろうか。
携帯は解約させられたから、父と母と繋がれるのはこの家の電話だけなのに……。
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